Day25「大人は信じてくれない」/幽霊船

 由真がいなくなってから、あてどなく世界を彷徨った。おそらくは額縁から額縁へ、絵から絵へ、私が描いたものを渡っているのだ。私は今までこんなに沢山の絵を描いてきたのか、と自分のことなのに驚いてしまった。父に画家になることを反対されてからも、絵を描くこと自体は捨てられずに、隠れて何枚も絵を描いていた。スケッチブックに描かれた、あまり上手くいかなかった静物画。初めて油絵の具を使ったら失敗してしまった絵。それらを目の当たりにするのは恥ずかしくもあったけれど、その一つ一つを巡っていく度に、自分の気持ちを確かめることが出来た。

 私はやっぱり絵が描きたい。それがこの世界には何の意味ももたらさないことであっても。一度は失敗してしまったけれど、今度は自分に正直でいたい。人に従ったせいで迎えた最悪の結末。あんな終わり方をするくらいなら、自分で選んで失敗したかった。どんな結末でも、選んだのは私自身だからとせめて胸を張りたかった。だから私は自分自身のために、この絵の世界から抜け出して、由真のところに戻りたい。そう心に決めて走り続けた。

 迷っても大丈夫だ。ここは私の絵の中だから、きっと味方をしてくれる。そう思っていた矢先、黒い稲妻が目の前にあった橋を落とした。

「――或果」

 けれど稲妻に切り裂かれ、絵の世界は唐突に終わる。私の前に立ちはだかったのは父親だった。父の背後には巨大な船が見える。あれは幽霊船だ。

 ああ、思い出した。この絵は父が破いてしまって、もうどこにも存在しなくなったものだ。その少し前に読んだ小説に影響されて、荒れ狂う海に現れる、骨になった海賊たちが乗り込む幽霊船を描いたのだ。けれど父はそれを見て顔をしかめた。

「こんな絵を描いたって何にもならない。生産性がないことはやめろ」

 父がそう言った。私は自分の爪先を見つめる。こんな世界でも邪魔をしてくるのか。もう少し進めば戻れたかもしれないのに。由真がいる場所に。私が自由でいられる場所に。

「だいいち、向いていないと言われたんだろう。それなのに夢を追って、それで後戻りできない歳になって気付くような、そんな生き方をしてほしくはないんだ」

 私のことを心配している言葉なのか。それでも、私は諦めたくなかった。人工知能が私には画家は向いていないと言った。おそらくそれは正しいのだろう。けれど適性があると提示された将来はどれも同じように見えてしまった。きっとそれを選べば失敗はないのだろう。でもそうやって選んだあとで、もし自分の望まない未来がやってきたら――あのとき、自分のやりたいことをやっていれば。そう思ってしまうだろう。

「私の人生は私のもの。私が決めなきゃいけないの」

「或果。君はまだ子供だ。見えていないことも沢山ある。大人は長く生きている分、その道を選んだら大変なことになるということもわかってしまうんだよ」

「……私よりもわかっている、って言うなら」

 どうせ父の言うことなんてほとんどが嘘だ。私のことを心配しているように見せかけて、周囲からの評価を気にしている。私が画家を目指して、失敗して、例えば貧乏な生活を送るようなったら、周りがどう思うのか。確かに政治家の家族がまともでなければ、スキャンダルに発展することだってあるだろう。でもそれが私の人生にどう関係があるというのだ。

 わかっていると言うなら、好きなことを否定された私の気持ちはどうしてわかってくれないのか。生産性がないだとか、何の役にも立たないだとか、そもそもそんなものがこの世に存在してはいけないなんて誰が言ったのか。確かに絵が今にも病気で死にそうな人の生命を救うことはない。けれどそれの何がいけないのか。

「そうやって必要なものだけを残して、いらないと判断したものだけを捨てていくから、私たちは苦しくなるのに」

 父にだって子供の頃はあって、きっとその頃は同じように苦しんでいたはずなのに、どうして今はそれを忘れてしまっているのだろうか。大人になるというのはそういうものなのだろうか。だとしたら、私は大人にならなくてもいい。誰かのSOSが聞こえないような人間になってしまうくらいなら。

「いいか、或果。今は確かに苦しいかもしれないが、それはそういう時期だからだ。大人になればどうしてあんな馬鹿馬鹿しいことで悩んでいたんだろうって思うようになる」

「私はそんな大人にはなりたくない。だってそんな人になったら――もう、由真の傍にはいられなくなってしまうから」

「君は柊由真のことを思っているのかもしれないが、彼女だってじきに気付くはずだ。そうやって突っぱねるから余計に苦しくなる。上手くやる方法はいくらでもあるんだ」

 結局何もわかっていない。由真は苦しみから逃れるために従順になるような人ではない。おそらくこれからも。それは苦しい生き方だろうし、これから先も何かとぶつかり続けてしまうのかもしれない。けれど大人になったら楽になる、なんて理由で、今この瞬間の由真の叫びから耳を塞ぎたくはない。

 誰もがそうやって賢しら顔で語っていたら、きっとこの世界の片隅で由真の心は殺されていっただろう。私たちは大人からしてみれば愚かな闘いをしているのかもしれない。そのせいで犠牲もそれなりにあった。けれど闘うことで守りたいものが確かにあったのだ。

「私たちは今、この瞬間を生きてるのに――今死にそうな人が助けてって言ってるのに、明日になったら海も穏やかになるから大丈夫、なんて言ったらおかしいじゃない」

 どうしてそんな簡単なことに気付いてくれないのだろう。誰もが通る道だと大人は言うけれど、それは大人になれたから言えるだけだ。その前にこの荒れ狂う海で溺れ死んでしまったら、もう何も言うことは出来ないだろう。

「私の道は私だけのもの。もう誰にも選ばせない……!」

 叫んだ瞬間、幽霊船から汽笛が鳴り響いた。骨の姿の海賊たちが船の上で松明を掲げている。あのとき読んだ小説では、好きでもない婚約者に連れ去られた主人公を助けに行くために骨の海賊たちが立ち上がるのだ。そして豪華客船に乗っていた主人公に、海賊の首領が恭しく手を差し出して言う。

 ――さあ乗りなさい。この幽霊船は少々乗り心地は悪いが、どこにだって行くことが出来る。

 私は弾かれたように船に向かって走り出した。これが私の答えだ。どこにだって行ける幽霊船は、きっと私を由真のところに連れて行ってくれる。信じるのはしたり顔で語る大人たちや、世界を支配する人工知能なんかではなく、私が描きたくて描いたこの絵だ。

 私はありったけの力を込めて叫んだ。

「連れて行って。私を、由真のところまで……!」

 ――お安い御用さ。さあ、追手が来る前に早く乗るんだ!

 骨の海賊の声が響く。私は頷いて、海賊の真っ白な手を掴んだ。

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