Day24「世界には愛しかない」/額縁

 私の名前を呼ぶ由真の声に顔を上げた瞬間、突然闇が裂けて、そこから青空が見えた。


 私は顔を上げてその青空に顔を近付けた。裂け目の向こう側に、こことは別の場所が広がっているらしい。見覚えのある場所だ。青空と、白い花弁を散らす桜の木。ああ、ここは――初めて由真と話した場所だ。

 あの日、由真はどうしていきなり木登りを始めたのか。後で聞いてみたら、上の方が桜が綺麗に見える気がした、なんていう理由だった。それは私が予想していた理由とは全く違っていて、思わず笑ってしまったことを覚えている。由真にはそういう子供っぽいところがあった。

 もし時間を戻せるなら、あの日からやり直したい。由真に出会って私の世界は煌めいた。けれど私自身がそれを壊してしまったのだ。自分の気持ちに正直になればよかった。それは苦痛を伴うかもしれないけれど、由真を失ってしまうよりはよっぽどましだったのだ。

「由真……」

 願ってもどうにもならないとわかっていても、どうしても思ってしまう。もう一度由真に会いたい。会って、ちゃんと謝りたい。

(そこから出たい、或果?)

 不意に、本当に微かだけれど、由真の声が聞こえた気がした。

(これまでのことはもういいから、これから或果がどうしたいか、それだけ教えて)

 微笑んでいるような優しい声。これが本当に由真の声なのかどうかわからなかった。けれど私の心はもう、その声を由真のものとして認識していた。そうだ。世界スキュラは嘘を吐く。だとしたら由真が死んだというのももしかしたら嘘なのかもしれない。

 本当がどこにあるのか、私にはわからない。それならせめて――今度は、自分に正直に選びたい。

「……由真に会いたい。会って、謝りたい」

 世界なんかより由真の方が大事だった。本当は由真の選んだ道をずっと応援していたかった。それがどれだけ苦しい道でも、嘘が嫌いな由真を嘘に慣れさせるようなやり方はもう嫌だ。それがたとえ世界にとって悪だとしても、私が信じたものを守りたかった。

(それなら、手を伸ばして)

 由真の声に頷いて、私は闇の裂け目に向かって、青空を目指して手を伸ばした。

 そのとき、手首を強い力で引かれた。空間が弾け飛んで、世界が鮮やかな色に染まる。そして私は、目の前に広がった景色に目を見開いた。

「由真……!」

「……っ、よかった……或果が無事で」

「助けてくれたの……?」

 私は間違いなく由真を撃ったのだ。あのとき由真が流した涙を覚えている。おそらく由真は私が二発目を撃つことを予想はしていなかったのだ。由真は私を信じようとした。それなのに、私は由真を裏切った。

「どうして……だって、私は」

「理由なんてないよ。助けたかったから助けただけ。それに、ここはまだ助かったとは言えない場所みたいなんだよね。ほら、あそこ見て」

 由真の指差す場所を見ると、そこにはこの空間の終わりがはっきりと見えた。額縁で縁取られた世界。

「これ……私が描いた絵?」

「そうみたい。寧々が媒介があれば何とかとか言ってたんだけど、多分これがそう」

「由真、寧々の話、実はあんまりわかってないでしょ」

「バレた?」

 子供っぽい顔で、由真が笑った。自分で描いた絵だから、私はこの場所のことを当然理解している。これが私と由真を繋いだのだ。私が由真を描いた絵は二つある。一つは美術の時間に描いた絵。そしてこれは父に額ごと捨てられた、私が一人でこっそりと描いた絵だ。よく見れば色使いもまだまだだし、直したいところの方が多いけれど、私は私が知っている一番綺麗なものを残したくて、この絵を描いたのだ。

「今の私にできるのはここまでだから。ここから抜け出すのは、或果が頑張って」

「でも、どうすれば」

「或果がどうしたいかを、強く思えばいい。そうしたら、ちょっと迷うかもしれないけれど、必ず行きたいところに辿り着ける。私も結構迷ったけどね、ここまで」

 照れたように由真が言う。その額には汗が滲んでいて、それがここまでの道のりの困難さを物語っているような気がした。

「私は或果の絵、好きだよ。それに描いてるときの或果も」

「由真……」

「今まで色々やってきたけど、私はまだ将来の夢とか全然わからなくて、だから反対されてもやりたいことがある或果が羨ましかった」

 私は由真が羨ましかった。私にとって由真は太陽だった。未来に向かって手を引いてくれるような、強く優しく導いてくれるような。けれどこれからは、私一人で道を探さなければならない。だって誰かに従って、そして裏切られるのはごめんだから。そうやって本当に大切なものを失うなんて、もう二度と嫌だから。

「私が或果に言えるのはこれだけ。ここからは或果のやりたいことをやればいい」

「……うん」

「でも、迷って迷ってどうにもならないとか、誰かにめちゃくちゃ攻撃されたとか、そういうときはちゃんと呼んで。呼んでくれれば――ちゃんと行けると思うから」

 由真は優しい。けれど優しすぎてたまにとんでもない無理をしているときがあるから、それだけが心配だった。由真は嘘は嫌いなくせに、隠し事はするのだ。しかも本人が思っているよりは隠せていない。

「大丈夫。やれるところまでやってみるから」

「うん。――向こうで、待ってるから」

 由真の笑顔が少しだけ歪んだ。何か痛みを堪えているような表情。ここに来るのに由真はどんな無理をしてしまったのだろうか。私の過ちのせいで、私は彼女に取り返しのつかない傷を付けてしまったのだ。

「ちゃんと待っててね、由真。約束だよ?」

「うん。約束する」

 これ以上由真に負担をかけられない。それに、これは私の未来のための闘いだ。私がやらなくて誰がやるのか。約束、と言って絡めた指が離れた瞬間、桜の花が散るように――由真の姿が消えた。

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