Day19「AM1:27」/カクテル

 私は誰でもあり、誰でもない存在――なのだろうか。いつの間にか暗い森を出て、私は元いた世界に戻ってきていた。けれど明らかにおかしいことがいくつかある。それが世界スキュラが私に与えた罰なのだろうか。

 おそらく今の私は誰にも見えていない。いや、認識されていないと言う方が正しいのだろうか。透明人間にでもなったかのように、誰も私のことには気付かない。けれど物に触れることはできる。だから物の動きだけで代金を計算する店で買い物することはできた。でも他の人にはどう見えているのだろう。私の姿だけが見えていないとしたらポルターガイストでも起きていると思われていそうだ。別にそんなのどうだっていいけど。

 この状態で行ける場所なんてどこにもなくて、人が少なくて長い時間いる店を転々として、とりあえず死なずに生きていた。

 その状況が二週間続くと、いい加減気持ちも荒んでくる。ここからどう動けばいいのか全く見当もつかない。だからと言って世界スキュラに従うつもりもなかった。もう交渉の余地はない。胸の奥で燻っているのは怒りか。奪われてしまった或果のことを思い出すたびに、治りきっていない傷が痛んだ。

 この傷のせいであまり遠くにも行けない。普通ならこの世界の人間には傷なんてつかないはずなのに、或果の銃は確かにこの体を傷つけた。その理屈は多分、寧々やハルさんならわかるのだろう。

 二十四時間営業のファミレスに籠って、膝を抱える。ここは無人営業の店だから、私でも注文できる。とはいえあまり食欲も湧かなくて、数時間前にサンドイッチを食べたきり、ドリンクバーのハーブティーばかり飲んでいた。そろそろ全種類制覇してしまいそうだ。

 私はどうしたいのだろう。聞かされたこの世界の真実が頭の中で回る。旧世界カリュブディスは人間たちの醜さによって滅びかけている。そしてその世界が滅びないように、道を見つけるために造られたこの世界もまた、人の醜さゆえに見捨てられようとしている。

 人間の良い面に賭けてみようなんて言えるはずもなかった。世界スキュラは確かに私に色々なものを押し付け、支配しようとしていたけれど、そのことを知る前から、漠然と自分はこの世界にはいるべきではないのではないかと思っていた。それは他の人からすれば些細なことかもしれないけれど、私は学校という世界にすら馴染むことはできなかった。

 上辺だけの会話をして、本当の、深い場所なんて誰にも見せられなかった。そんなものを見せてしまえば面倒なやつだとか、空気を悪くするとか、そう思われそうな気がして。誰かが少しでもルール違反を犯したり、間違った答えを出してしまったりする度に冷淡な態度を取る人たちも怖かった。そのくせ、弾き出された誰かを庇うこともできず、ただ一日の終わりを待っていた。

 そのくせ大人たちは本音で話せば分かり合えるなんて嘘ばかりを教えてくる。その前に弾き出されて終わってしまうとみんな知ってるのに。息を潜めて、目立たないようにして、でもそんな風に生きていると、自分が何なのかがわからなくなる。いるのかいないのか、いたところで何か意味があるのか。そんなの今のこの状況と何も変わらないじゃないか。

 この状況はいつまで続くのだろう。もうこのままいなくなったって誰も気付かないだろうけど。

 結局こうして無意味に消えていくだけなら、所詮全てが世界スキュラの作った紛い物でしかないのなら、どうしてあのとき死にたくないなんて思ったのだろう。私が何かしたところでこの世界はいつか終わるのだし、そのときには何も残らない。旧世界カリュブディスのように何か遺物のようなものが出てくるわけでもないのだ。

 それなら、私がいない方が世界はうまく回るのかもしれない。終わるその瞬間まで、せめて幸福で。その方がいいのかもしれない。最初からその道を選んでいたら、或果が酷い目に遭うこともなかったのかもしれない。

 考えれば考えるほど息苦しくなっていくから、戯れにメニュー画面を開いた。けれど食べられそうなものが何もなかった。かといってもうドリンクバーの飲み物を飲む気にもなれない。無意味とわかっていながらも画面をスワイプし続けて、最後にたどり着いたのはお酒のページだった。

 お酒なら飲めるかもしれない、と思った。今まで一度も飲んだことはないけれど。

 名前を見ても味がわからない。甘口と辛口の目安と、色の綺麗さで、ブルー何とかとかいうカクテルを選ぶ。注文ボタンを押そうとした瞬間に、誰かに手を掴まれた。

「未成年でしょうが」

 人の手の温度を感じるのは久しぶりだった。ましてや、自分がここに存在しているかのように見られるのはいつぶりだろう。

「……寧々、どうして」

「あ、ねえねえこのパフェ美味しそうだから半分こしない?」

「いや、今何時だと思ってんの?」

「一時半ちょっと前? 大丈夫だよ、カロリー控えめだよ」

「そうじゃなくてさ……」

 寧々のペースに飲み込まれてしまいそうになるけれど、聞きたいことは山ほどある。私をどうやって見つけたのか。何故見つけてしまったのか。

「とりあえずカクテルはキャンセルしとくね。お酒はハタチになってからだよ?」

「……うん」

「あ、このアップルパイも美味しそうだな……由真、どっちがいい?」

「どっちも別にいらないんだけど」

「そっか。じゃあ私一人でアップルパイ食べるね」

 オーダーをしてから、寧々はゆっくりと息を吐き出した。何故かさっきから私の手首を掴んだままだ。

「……人間には認識されないけれど、人間を識別しない機械なら反応する。でも由真がその機械を使えば機械を操作した人の数と、実際に存在したと認識される人間の数が一人分合わなくなる。そういう場所を絞り込んでもらって、あとは虱潰しに探した」

「でも、寧々にも見えてなかったでしょ?」

「さっき一瞬だけ見えたから。でもこうしてないと見失っちゃいそう」

 手首を掴む力が強くなる。まるで握り潰そうとしているのではないかと思うほどの力だった。

「痛いんだけど。寧々、握力すごいんだから加減してよ」

「あ、ごめん」

「血止まっちゃうよこんなの」

 力は緩められたけれど、相変わらず手は離してくれない。けれど、もう一度寧々に見失われるくらいならこの方がいいと思った。

「触ってれば、ちゃんと見える」

「……そっか」

「ちょっと……何で笑うのよ」

「だってすごい顔してるんだもん」

 しゃくり上げ始めた寧々を抱き寄せる。私が寧々に見つけられるのと、あのままでいるのと、どちらが良かったのだろうと思った。誰かの望んだ道は、誰かの望まなかった道でもあるかもしれない。

 ――それに、このやり方だってそう長くは保たない。

 寧々の涙で肩が濡れていくのを感じながら、私は寧々の背中を撫でる指先をそっと見た。それは一瞬だけ陽炎のように揺らめいて、すぐに何事もなかったかのように元の姿を取り戻した。

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