Day18「音楽室に片想い」/微睡み

「由真?」

 由真の鞄はあるのに、由真の姿が見当たらない。放課後の教室に残っているのは私たちくらいだった。他の人はみんな帰ってしまったのだろう。

 鞄を置いて帰るとも思えないし、と思っていたら、どこからかピアノの音が聞こえてきた。何となくわたしはその音に引かれるように教室を出る。

 四階の一番奥、音楽室の扉から中を覗き込むと、そこにはピアノを弾く由真の姿があった。この前弾いてって言ったら、最近全然弾いてないから嫌って言ってたくせに。

 演奏は少し辿々しいけれど、悔しいくらいその姿が似合っていた。そんなにのめり込めなくてやめてしまったと言っていたけれど、真剣な表情で鍵盤に向き合う由真を見ていると、今からもう一回始めたっていいんじゃないかと思った。

 私にはピアノの巧拙はわからないけれど、由真の音は好きだった。煌びやかな高音と、少し荒々しい低音。ずっとこのまま聴いていたいと思っていたのに、急にピアノの音が止まってしまった。

 こっそり聴いていたなんてバレたら怒られそうだし、見つからないうちに教室に戻ろう。そう思ってそっと一歩を踏み出した瞬間、音楽室のドアが開いた。

「何でいるの」

「鞄があるのに教室にいなかったから……」

「……寧々にバレないように練習しようと思ってたのに」

 それは私が弾いてと言ったから? 首を傾げると、由真は照れたように私から顔を背けた。

「別に隠れて練習する必要なんてなかったのに」

「人に聴かせるのに、何年も弾いてないのにいきなりとか無理」

「完璧主義?」

「そういうわけじゃないとは思うけど」

 由真は私を音楽室の中に招き入れた。どうせ聴かれてたんならいいと思って、なんて言って。私は蓋を閉めたグランドピアノに頬杖を突いて、鍵盤の前に座る由真を眺めた。

「本当にあまり期待しないでよ。全然指動かなくなってたし」

「うん、わかってる」

 私のために練習をしてくれただけで本当は満足だ。でも由真が作り出す世界の中にいたいのも事実。本物の世界を作るのは簡単ではないけれど、音楽が響いている間は、そこにその人の世界が広がる。

 意を決したように、由真が鍵盤に指を置いた。ブルグミュラーの十八の性格的な練習曲集より「空気の精」――最後の発表会で弾いた曲らしい。私はその曲を知らないけれど、踊るような右手の動きが綺麗だと思った。

「寧々?」

 弾き終わった由真が私を見上げる。その目は何故か驚きに見開かれた。

「どうして泣いてんの?」

「……わかんない。何か、いきなり寂しくなっちゃって」

「そう」

 由真は立ち上がって私の隣に並んだ。短い言葉だけれど、由真なりに私を慰めようとしているのはわかる。由真は特に解決策を示してくれるわけではないし、同意もしてくれないときさえある。けれどそっと寄り添って、受け止めてくれるのだ。

「由真……?」

 気が付けば私は由真に抱きしめられていた。由真だって最近は苦しいことばかりのはずなのに、どうして人の痛みまで受け止めようとしてしまうのか。

 きっと、もっと楽な生き方があったはずだ。冷徹に見えて、心の奥底では誰もいなくならないで欲しいと思っていて、そのために自分自身のことは簡単に犠牲にしようとする。

 そんな由真のことが、私は。

「――好き。大好きよ、由真」



 淡い夢から醒めると、胸が痛かった。それなのにその理由はどうしても思い出せなかった。自分の体の一部を無理やりもぎ取られてしまったような感覚がある。

 ベッドに寝転んだままで、私は手首につけた端末に話しかける。ここは静か過ぎて、何でもいいから音が欲しかった。

「何か音楽流して」

 了解しました、という声の後で、部屋のスピーカーからピアノの音が流れ始める。特に指定していない場合は、私が少し前に聴いたものの続きから音楽が流れるように設定してある。けれど普段ピアノ曲なんて聴かないのに、そのときはどうしてそれを聴いたのだろう。勉強中だったのか、それとも――。

「……っ!」

 鋭い痛みとともに、ピアノを弾く誰かの姿が脳裏に浮かんだ。この音源よりも辿々しい弾き方で、けれど音楽は彼女の世界を作り出した。青く透明な小さな球体が弾ける中で、ほのかに橙色と黄色の光が足元から昇ってくるような、私が一番好きな世界。

「由真……」

 朧気だった記憶が輪郭を取り戻す。世界スキュラが由真を消そうとしても、私はそれに抗いたい。好きという気持ちを無かったことにはされたくない。

「探しに、行かなきゃ……」

 どこにいるかはわからない。けれど、あの優しい記憶を片手に、私は一歩を踏み出さなければいけないんだ。

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