Day17「東京タワーはどこから見える?」/錯覚

「――或果」

 由真の声は少し低くて、本人はそれが嫌だと言っていた。或果みたいに高くてかわいい声が出せたらいいのに、と唇を尖らせていた。でも私は由真の声が好きで、優しく名前を呼ばれる度に体の芯が熱くなるような気がした。

 初めてのキスは夏の日だった。そのとき放送されていたドラマで、焦れったい恋愛模様を繰り広げていた二人がとうとうキスをするシーンがあったのだ。ああいうの憧れるよね、なんて他愛のない話が加速して、じゃあしてみる? なんてことになって。

 キスは秘密の味がした。私は現実から逃れるようにその甘い果実に溺れ、由真はそれに応えてくれた。友情でも愛でもない、名前のない曖昧な戯れ。それで私は満たされていた。

 由真と過ごした美しい日々。壊したのは誰だったのだろう。

 私は前に進もうとした。けれど私を阻むものの力はあまりにも大きかった。私一人ではどうにもできなくて、つらくて、苦しかった。だから。

『抗わなければよかったのだ。抗わなければ、こんなに苦しむことはなかった』

 由真に出会ってから世界は煌めいた。けれど同時に苦しむことも増えた。世界スキュラの言うことは確かに正しいのだろう。

『抗わなければ、このまま全てを美しい思い出に変えることもできる』

 もうそれでいいのかな、と思ってしまう。これ以上突っ張っていたって私の夢は叶わない。たとえ父が許してくれても、才能なんてないのだから。だったらこのまま、ここにいても。

『何も考えなくていい。そうすれば苦しいことは何もなくなる』

 目を閉じる。そうだ、その方がいい。だって苦しまない道が見えているのに、そちらを選ばないなんて愚かだろう。抗うことは苦痛を伴うものだ。

 私は平穏な日々が欲しい。この美しい思い出の海の中に沈んでいけば、幸せに生きていけるだろうか――。


 私はただ楽になりたかった。それなのに、どうして。

「由真……」

 私の目の前には由真が倒れていて、映像でしか見たことのない血が流れていた。それは残酷なまでに、どこまでも現実でしかなかった。幸福な思い出は全て錯覚に過ぎなくて、全てを壊したのは私自身だったのだ。

「……っ」

 撃たれてもなお、由真は立ち上がろうとする。どうしてそんな無理をしようとするのか。こんなに苦しむくらいなら、立ち上がらなければ、そうすれば穏やかに生きられるのに。

「……或果」

 低く、少し震えた声で由真が言う。撃たれた場所からはまだ血が流れていて、そこに触れた手も、その手で触れた顔も血塗れになっていた。けれどその中でもその目は爛々と光っていて。

 ――初めて由真を、怖いと思った。

 けれど私の口からは、私の意思とは関係なく言葉が出てきてしまう。もう私の体は私のものではないのだ。

「ここから先には行かせない」

 由真が進めば、世界が何もかも書き変わってしまうから。暖かな思い出に耽溺することすらできなくなるから。けれど由真は、血に塗れた姿で、ゆっくりと――笑みを浮かべた。

「私を止めたいなら、それでもう一発撃てばいい」

「……っ!」

「たとえ殺されたとしても、私は私に嘘をつきたくない」

 何て凄絶な笑みを浮かべるのか。苦しみから逃れようとして、一番好きだった人を撃ってしまった私にはとてもできない表情だ。それに気圧されてしまって、私はその場から一歩も動けなくなる。呼吸すらも奪われてしまいそうだ。

 私は震える手で、銃をそっと下ろした。私に止められるわけがない。私には確固たる信念も、傷ついても進むという覚悟もありはしなかった。

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