第355話

「みつけた」


 少女が両腕を伸ばし、その細い指が空間を断絶していた障壁へと触れる。

 さして力を入れているようには見えない、実に自然な動き。

 だが耳を覆いたくなるほどの激烈な爆音と共にぐじゃりと歪んだ障壁、耐えきれずに生まれた隙間へ彼女はするりと体を滑り込ませ、ちらりとクレストへ視線を流す。


 妙に甲高い悲鳴が上がった。

 それは自分自身の喉が引き攣った末に絞り出された、狂乱にも似た感情の発露であると気付いた時には、既にそれは目の前に立ちふさがっていた。


「あ……あぁ……!」


 見間違いや勘違いじゃないッ!

 確実に捨て置いてきたはずの存在がッ、世界と共に微塵へと変わったはずの少女がッ!


「悪いけど、貴方だけは逃がせないから」


 少しざらつき、少女然とした見た目にそぐわぬ低い声。


「あっ、あの術から逃げ出して来たのか!? どうやって……殺してどうにかしたのかッ!?」

「捨てた張本人があの人を気にする必要なんてあるの?」


 もしクレストが普段と同程度、いや、その半分でも冷静なら気付くことが出来たかもしれない。

 少女の足取りが精彩を欠いていることに、彼女の視線が僅かにぶれていることに、指先は震え声には張りが無いことに。


 だが今の男にとっては全てが恐怖以外の何物でもなかった。

 ふらりとして重心の安定しない歩みが、淡々として表情の変わらぬその顔つきが。



「……ぁぁぁああああああアアアアアアッ!!!!!」



 臨界点へ達した恐怖心が男を絶叫させた。


 小さな金属音を立て抜き取られた鋭利な刃。

 魔法を操ることは出来ずとも、訓練と実践の果て男には神経の一本にまで刻み込まれた短剣術がある。

 最後の最後に頼ってしまうのは至極当然であった。


 やはり甘いッ!

 そして効いているッ!


 すんなりと首元へ刃がめり込んだ瞬間、一縷の望みを見た男に喜色の表情が浮かんだ。


 どれだけの膂力を持っていようと、どれだけの規模の魔法を自在に操ろうと、万物は魔力から構成されている。

 ならばこのナイフは必ず通用する。物質を魔力へと還元するこの刃なら、例え怪物であろうと切り伏せることは出来るッ!

 所詮は子供の小さな首、このままかっ斬り捨ててしまえばッ!!



「なっ!?」



 しかし少女は怯えも逃げることもせず、男の片腕を握りしめ……ねじり回した。


「ィああああああッ!!?」


 刹那、飴細工のように砕け散る骨格、筋肉の許容範囲を軽く超え捻られる表皮。

 だがそれだけでは済まなかった。以前の彼女であれば離していたであろうその掌を、彼より一層の力を掛け固く握りしめた。


「捕まえた」

「っ……!」


 視線が交わる。

 刹那、背筋を駆け抜ける冷たい感覚、無重力の世界へ放り込まれたかのように底のない絶望。 


 殺される……っ!!


 躊躇いは無かった。

 心臓にまで届くほどの鋭く凍てついた目に晒されたクレストは、己の肘関節へ刃を振り下ろす。

 激痛や腕の一つへの執着が、それ以上の絶望を齎すと無意識に理解していた。


「ぅああああッ! クソがァッ!!!!!」

「あっ」


 痛みが神経を通じ脳が理解するよりも早く、血の噴水を気にすることもなく男は背を向けた。


 逃げろ! 逃げろッ!

 例え横隔膜が引き攣り、喉が渇き果てようともここから全力で逃げろッ!


「あ、が……っ!?」

「これでもう逃げられない」


 だが現状の理解がどれだけ完璧であろうと、もはや問題の解決に何一つとして手助けにすらなりはしない。

 蹴りが男の足を打ち砕き、勢いそのままに倒れ伏したクレストの首を掴み上げた少女の顔が目の前に現れた時点で、彼がそれを理解するためにそう時間はかからなかった。


 酸欠に喘ぐ魚の如くぱくぱくと、ただひたすらに口を開き天を仰ぐ男。

 少女に向かって必死に片手に握りしめた刃を振りかざすも、彼女はその斬撃を避けることもなく真正面から受け続け、刻まれた傷口は瞬きの合間に消え失せる。


 もしかしたら、一度魔力を大量に摂取し変異した今のクレストならば、己の首を掻き切ろうとも逃げられるかもしれない。

 けれどもしダメなら?

 保証はない。確信もない。そして何より……気圧されてしまった。

 例えこの場を凌ごうとも、この広大な狭間の果ての果てまで逃げようと、目の前の存在は間違いなく追い詰め殺しに来ると本能的に確信してしまっていた。


「やめ……て、くれ……! 今私が死んだら……私を待つ人々が……幸福を得るはずの臣民が……未来が……果ててしまうっ! 私の偉大なる恩寵をっ、救済を……ここで途絶えさせてはっ!?」


 媚びた表情が赤い輝き・・・・に照らされ凍てつく。

 感圧式の光る床以外に光源など存在しないはずのこの空間で、深紅の光を放っていたのは――



「――なん、だ……その『剣』は……!?」



 二冊の本から生み出される、血より紅く透き通った一本の剣であった。

 肉体が変化し魔力に対し過敏になった今だからこそわかる、少女の握るそれは唯の美術的価値を求め創られたものではない。

 内部を絶え間なく走り続ける魔術回路の迸り、緻密に編み上げられた立体魔法陣が生み出す多重露光は、並大抵の魔法使いでは決して届くことのない叡智の結晶。


 こんなもの、生まれてこの方魔法を使ったことのない人間が創れるものではないっ!

 あのエルフの研究者か・・・・・・・・・・、王国の研究者が複数人で長い年月を掛け、或いはクラリスでも偶然制作を成し遂げられるかどうか!


 もし唯目の前の少女が己を殺そうとしているのならば、あの常に握っていたバットを軽くこの脳天へと叩き込めばいい。

 いや、そんなことせずとも今この指先に少しでも力を込めてしまえば、並みと比べ多少堅い程度の骨や肉など引き裂けるだろう。


 溢れ出す底知れぬ恐怖に顔の皮膚が張り詰め、こめかみが嫌に痙攣した。


 これはこの少女が創り出したものではない。

 しかし一体この刃の制作が何の目的をもって手掛けられたのか、それはクレストにすら思いも及ばない。

 だが一つ、たった一つだけ、とても単純な事実だけは理解することが出来た。


 わざわざ出して来たのだ!

 こんなものを突き刺されれば、恐らく、いや間違いなく死など甘いほど碌でもない未来しか訪れないということだけはっ!


「い、嫌だ……! やめろっ! 近付けるなァッ!!?」


 少女は口を開くこともなくおもむろに刃を掲げ、クレストの胸元へとその切っ先を宛がう。


 止めなくてはっ! これだけは確実にッ!


「お、お、おおおおおォォォォッ! クソがァッ! こんなものぉっ!!」


 刃を握りしめるッ!

 たった一つ残った片腕へと、全ての神経と力を振り絞り全力をもってッ!


 緊張した感覚神経が指先の筋繊維一本一本が、さして優れているとは言えない刃の上で引き千切られていく感触を明確に伝えた。

 だがそれがどうした。たとえ骨すら断ち切られようとも、これだけは許容など出来るはずもない。


 とまれ! 止まれ! 止まれッ!!


 永遠にも似た須臾の祈り。

 だが彼がどれだけの思考を巡らそうとも、終わりを告げる刃はゆっくりと、だが万力のように捩じり込む力をもって確実に迫りくる。


「ぅ畜生ォッ!!!! 何故勝てないッ! 何故届かないッ!? どれだけのものを犠牲にしてきたと思ってるッ!? どれだけの時間をかけてきたと思ってるッ!! なのに……なのにィッ!! 何故この私が貴様ら如きにッ!!!!」


 皮膚に触れるかというその一瞬、少女がはたと顔を上げた。


「届くわけない。誰も信じなかったお前が、私達に勝てるわけがない」



 その顔は、長い時を掛け繰り返し踏み潰してきたはずの者たちが、必ず最期まで浮かべていたものと全く同じもので。



「これはお前が捨てた力だろ」

「や」

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