第356話
「これはお前が捨てた力だろ」
ぞぷり。
肉を絶つとも違う。
例えるのならそう、少し硬い豆腐に棒をめり込ませたかのような、ほんのちょっとばかしの抵抗と共に切っ先が男の胸へと滑り込んでいく。
血すらも零れることはない、もしかしたらそもそも彼の身体はもはや人間のものではなくて、血が流れていないのかもしれない。
人を刺したかのような実感は無かった。
胸元の刃を必死に握りしめ、フラフラとよろめき後ずさるクレストの姿を見ながら、私はただ、ああ、やっと終わったのだとどこかぼんやりとした思考の中で確信した。
「っぁ! ぁひぐぁあッ!? なんっ、だこれはぁ!?」
吸い込まれていく。
おおよそ一メートルほどはあるだろう切っ先は何故か彼の身体を突き抜けることなく、見る間に激しい赤光を撒き散らし彼の胸元へと吸い込まれていく。
彼の必死の抵抗は全て無駄に終わった。抜き取ろうとしていた柄は実体を失い、もはや彼の手では握りしめることすら叶わなくなってしまっていた。
いや、握りしめる余裕もなかった、か。
「うげ……ぇ……!! っあァッ!?」
口から泡を吹き、胸を抑え苦しむクレスト。
限界まで見開かれた目蓋と苦痛から頬へと爪を立て呻くその尋常ならざる姿。
真っ赤に染まった眼でこちらを睨みつけ、地面をのたうち回る彼の胸元からは深紅の多重魔法陣が展開され、蒼白い光の玉が煌々と灯っている。
「げ……あ……! なんだこれは……!? この俺に何が起こってる……!?」
「その剣はカナリアが創ったもの、貴方の力を完全に封じるためにね。確か……そう、超小型の魔天楼みたいなものだって言ってたかな」
「魔天……楼……だと!?」
目を引ん剝いた男が己の胸元を凝視する。
「貴方の魔力を、『記憶』を、全てを抜き取るまでそれは止まらない……まあ抜き取った後も半永久的に稼働し続けるけど」
そこには掌に包みこめる程度の小さな輝きが、彼の身体からまるで溢れ出すかのように渦巻き浮かんでいた。
魔力だ。でも感じる量は非常に少なく、もはや彼の身体には大した量存在していないことがはっきりと分かる。
「まさかこれ、が……!? ならッ!!」
男の伸ばす手が閃光を放ち弾き飛ばされる。
彼の身体は既に変性が進んでいる。一般的な人間同党の魔力をある程度許容する肉体から、一切を受け入れることは出来ず取り入れた先から放出してしまう体質へと。
「あ、アア……クソッ…………こ、れが……」
次第に伸ばす腕の精彩が欠けていく。
膝は震え、言葉を紡いでいた口元はだらんと開きうめき声ばかりを垂れ流し、目線は不安定へと。
これが終わり。
これが全てを足蹴にしてきた男の末路。
崩れ落ちるクレストの前に手を伸ばし――
「返せ、これは私たちのものだ」
輝きを、握り掴む。
「うっ……」
指先から駆け抜ける衝撃。
この『記憶』の大半を占めるのは、クレストが魔天楼から取り入れた膨大な魔力に含まれていたもの。
誰にとっても猛毒だ。自分の存在を侵食し、過剰にため込めば食いつぶされる。
もちろん、私にとっても。
「――『リアライズ』」
光球を胸元へ当てたまま告げる。
瞬間、あれだけ激しい抵抗を示していた輝きはいともすんなりと胸元へ吸い込まれ……
「うっ……げぇ……っ! アァっ……ぅあ……っ!」
コートが真紅に染まる。
いきだ。
いきを、すわないと。
「す……ぅ……は……ぁ……大丈夫、だいじょうぶ……誰も見捨てたりなんてしないから……っ」
目を閉じたら暗闇に堕ちてしまいそうになる。
目を開けていたら何も見えなくなってしまいそうになる。
息を吸えば塗り潰されてしまいそうになる。
息を吐き出せば何もかもが零れ落ちてしまいそうになる。
「『アイテム……ボックス』」
無意識に縋ったのは、相棒だった。
一体いくらだったっけ。あの人に一万円をもらって、どこかで買ったんだっけ。
全てが始まったあの日からずっと握りしめてきたこの安っぽいゴムのグリップ。
それが今の私にとって何より馴染みがある感覚で、これを握っている限りはまだ保っていられそうだった。
歩け。
歩け。
私は
「だってやっと、全部そろったんだよ?」
この世界に送られた時ずっと考えていた、何でカナリアは私をここへ送ったんだって。
だってそうだ。私はこの世界の土地勘も何もないし、例えクレストの時を戻す魔法が届かないことを理解していたとして、どうせ捜索の手は必ず伸びる。
それならカナリアが逃げた方が絶対にいい。力しかない私を送るより、彼女の知識をもって新たな一手を創り出した方が絶対に良いはず。
そんな事、あの頭のいいカナリアは分かってるはず。
じゃあなんで私なの?
それだけが疑問だった。
それだけが私の思考を埋め尽くしていた。
「ここで、いいや……」
壊れかけた単純なおもちゃみたいにぎこちない動きで歩いた先は、この回廊の端っこだった。
視界の先には何も見えない。黒くて、暗くて、呑みこまれそうなほどの深淵。
別に場所はどこでもよかった。私の予想が当たってるなら、私そのものが
「ふぅ……きっついなぁ……」
二冊の本がふわりと宙を舞い、丁度全身が収まる程度の小さな魔法陣が私の正面へ展開された。
風も無いのに髪が巻き上げられ、全身の服がひらめく。
なら、そこには理由が必ずある。
彼女なりの勝算があったんだ。カナリアじゃなくて私を送った方が良いと、そう計算したからこそ私をこちらに送った。
そしてそこまで私が気付くことが出来ると確信していた、それ以外にあり得ない。
つまりあの時点で、クレストとの初交戦をした時点で情報は全て与えられていたはず。
私じゃなきゃいけない理由。
他の人と違う、カナリアとも違う、私だけの理由。
頭は良くない、凄い魔法の知識もない。
力はあるけどそんなの幾らでも代用はある。
権力もないし……まあ、向かう先が異世界だからあったとして意味はない。
おしゃべりだって苦手だし、私は……私は、ただの馬鹿で、迷ってばっかりで、必要な決断もまともに出来なくて、何をしてもダメな事ばっかりで。
そんな私が、他の人と明確に違うところなんて一つしかない。
そう。
「この身体の、魔力との親和性さえあれば……きっと、できるはず」
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