第351話

「うグっ、クハ……はははっ、ハハハハハハハハハハハハッ!」


 天高く、心の底から溢れ出す愉快な感情がとどまらないと言わんばかりに抱腹絶倒する男。

 摩天楼の基礎部分だろう、攻撃によってどうにか残った場所に這いつくばったクレストは、何かを舐め始めるとその瞬間、背中から黒々とした結晶が生まれ……見る間に全身が歪な風船かの様に膨れ上がり始めた。


 今までは純化魔力によって安全な強化をしていた彼であったが、直接魔天楼の残骸から魔力を取り入れたことで身体が変異し始めたのだ。

 そこまで生き延びることに必死なのか、自分から世界を巻き込むほどの無理心中をしようとしているのに。



『満ちル……満ちル……!』


 鈍く、低く、しかしどこまでも響く地獄の底からのうめき声。

 その顔にもはや人間の感情は無い。

 いや、読み取ることは出来ない、とでもいうべきか。

 既に頭蓋骨としてすら輪郭を読み取ることの出来なくなったそれに、表情といったものが存在するのかすら怪しい。

 彼の背にあった翼もより大きく、不気味に分裂を始め、上部や羽の一部には様々な色の眼が切り裂くように生まれ、ぎょろりと周囲を睥睨する。


 悪魔より悪魔らしく、怪物よりも怪物らしい。

 秩序だって進化を遂げてきた生物の尊厳を侮辱するかのように歪で、狂気的で、悍ましい。


 あれはもはや人と呼んでいいのか。

 かつて人だったと理解できる存在はいるのか。


「――堕ちたね」


 羽ばたくことすらなく浮かび上がったその化物は、無数に全身から突き出した巨大な腕を不気味に痙攣させ、ぼたり、ぼたりと小さな家一つ簡単につぶせるほどの黒々とした水滴を全身からまき散らし叫んだ。


『――夢は終わらなくてはいけなイ。心地の良い目覚めのためにっ、消えろ過去の亡霊がァッ!!!!!!!』


 同時、巨翼が暴風をまき散らす。


 なんという巨体だろう。

 指数関数的に膨れ上がりなお未だに変異を続ける彼の身体は、少し前までそこに聳え立っていた魔天楼と比べても見劣りがしないほど。

 そして一体何の偶然だろう、その上に浮かぶ巨大な肉の王冠らしきものには、宝石にも似た瞳が幾つもはめ込まれ蠢き、黒い涙を零していた。

 もしあれが偶然生まれたというのなら皮肉にもほどがある。


 しかし……それにしても見た目が……


「きもぉ……」


 思わず本音が漏れてしまった。


 もしかして私が魔蝕症で変異してた時、あんな感じでキモイ生命体になっていたんだろうか。

 手とか、足は少しだけ見えてたけど全身は流石に見る余裕が無かったのだが、流石にこれは嫌だ。


『喚ケ』

「これはっ!?」


 下半身に生えた無数の腕たちが地面を掴み上げ、幾本もの触手が大地へと突き刺さる。


『ああ、雪崩れ込ム! もっと、もっと、ダ!』


 ぞ、ぞ、ぞゾゾッ!


 怪物が異音を発し蠢く度、その背中が激しく隆起を繰り返してぼたり、ぼたりと黒い塊を産み落としていく。

 だが産み落とされたそれらはただ留まるわけではない。見る間に様々な姿を変え、漆黒の狼に、竜に、或いは巨大な花に、そう、無数のモンスター達へと姿を変えていった。


 まさか……世界そのものを魔力へと変換し、ダンジョンシステムのようにモンスターを創り上げてる!?


『――結城ィフォリアアアアアアアアアアア!!!』


 ソレが絶叫を突き上げたその瞬間、モンスター達は散り散りの方向へと疾走を始める。

 目の前の障害物一切を力のままに破壊し、走り続けるモンスター達。

 摩天楼は王国の最奥に位置しているとはいえ、怪物たちの移動速度はクレストの魔力故もあって異常だ。


 もし彼が魔天楼の構造を完全に吸収してしまっているとしたら……あのモンスター達も直に消滅現象を起こす可能性がある。



「『マルト・デ・ネーリアスの残響』」



 だが、そうはならなかった。


 戦場に軽やかな音が染み渡る。

 それは私の両の手に抱えられた、光のバイオリンから。


 私にバイオリンの弾き方なんて分からない。

 ピアノはずっと昔、覚えてないくらい小さい頃にやっていただけらしいし、楽譜の読み方すらもうこのすっからかんの頭から飛んでしまっている。

 だが何故か身体は動いた、まるで誰かに動かされているみたいに。


 スキルのそれよりももっと優しくて、もっと暖かなナニカが私の身体を包み込み、ぎこちなくも心地よい旋律が生み出されていく。



「……さあ、こっちに来て」



 潮目が変わった。

 不器用な調べが広がる度、地を鳴らしていた怪物たちの足音が消えていく。

 どれだけ遠くても、例え音を聞くことなど出来なくても、この旋律を聞き逃すことはない。

 そして……ついには黒々として大地を埋め尽くしていた大波が一斉に方向を変え、空に浮かぶ私の足元へと大挙する。


 無数のギラついた視線へと曝されるこの感覚を知って、一体どれだけの人間が恐怖せずにいられるだろうか。

 一体どんな人間ならば、助けを求めることなく凛としていられるだろうか。


「こんな感じだったのかな」


 この魔法を使って私を見送ってくれたあの日、あの二人が見ていた風景は。


 いや、きっとこれより恐ろしかったはずだ。

 きっとこれよりも耐えがたいものだったはずだ。


「……ふぅ」


 『アイテムボックス』から二冊の本・・・・を取り出し、くらりとした眩暈に揺れる。


 酷い頭痛だ。

 一分一秒立つほどに吐き気が沸き上がり、少しでも気を抜けば膝から倒れそうになる。

 少しでも早く戦いを終わらせないといけないのに、ほんの少しですらも動くだけで冷や汗が止まらない。


「『刀』を」


 指先をぶちりと噛み千切り膨れ上がって来た一滴の血、それを本たちへ擦りつける。

 その瞬間、二冊の本が何かをしたわけでもないのにふわりと私の周囲へと浮かび上がると、小さな輝く魔法陣が私の目前へ発生し中から何か一本の棒状のものがせり上がって来た。


 それはかつて一人の老爺が握りしめていた剥き出しの刀だ。


 私は剣だの刀だの、武器らしい武器をまともに握ったことはない。

 けれどもその柄を握った瞬間やっぱり、全てを理解出来た。

 どうやって振ればいいのか、どうやって体を動かせばいいのか……そして、彼が扱っていたあのスキルすらをも。


「薙ぎ払え」


 刀から深紅の炎が噴き上がり、刀身を遥かに超え巨大な刃を作り出す。

 だが激しく噴き上がり続けていた炎は次第にその色を変え、その身を純白の静かな姿へと変えた。


 静寂、さながらゼロ度の炎。



「『無想刀・滅炎』」


 それは、あまりに単純な一閃だった。


 獄炎が全てを呑みこんでいく。

 地も、空も、全てを埋め尽くしていた黒は、理不尽なまでの白によって一切が灰燼へと化していった。


 塵が空気へと溶けていく。

 たった一度の瞬きをするまでにいた魑魅魍魎達は最早影すら存在しない。

 踏みつけられた花が、押し倒された木々が、青々とした葉を微風に躍らせる中、動きの止まったクレストへと肩をすくめた。



「どうしたの? 戦わないの?」

「――! こ、コ、こノ化物がアァァァァァァッ!!!」

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