第349話
「今の私ですら急性の魔蝕症を発症するとは、膨大な記憶の集合体だ。フォリア君……これは魔天楼の
「……っ!」
『
実の所、その正式名称を私はつい最近まで知らなかった。
正しい名前を聞いたのはたった数日前、ジンさん達『第一の槍』へ私の目的などを話したまさにその時だ。
「純化を行った際に生まれる大量の記憶、それを貯め込んだ廃棄物……四か国、いや、五ヵ国の数十年分程度はありそうだ、一体これを何に使おうと思っていたんだい? いや、当ててみせよう。謎解きは得意でね」
不味い。
地に伏し、下から眺める男の嗜虐的な嘲笑。
全身を走る苦痛とはまた別の、しかしじっとりとして張り付くような汗が背筋を伝う。
そう、これは純化魔力とは真逆、魔力の中に存在する大量の記憶を抜き取り廃棄する為に蓄えられていたもの。
触れるだけで膨大な記憶が流れ込み一般人ならば即死。魔力量が多い、つまりこの世界で魔法使いと呼ばれるカナリアや、ナナンですら急性の魔蝕症を起こし距離を取るなり、専用の治療をしなくては命に関わる。
その一つ一つが魔天楼一棟毎に備え付けられており、安全な純化魔力を作る傍らで何十年という期間蓄えられてきた。
「私を殺す為だろう。これだけの量の記憶だ、魔蝕症の発症など直ぐに通り越し、全身の細胞が変異と暴走を起こすのは間違いない。即死だろうね、現状で君が打てる最大の手だ」
あれを、廃憶核を取り戻さないといけないのに、体がピクリとも動かない。
まるで暴走しているみたいだ。指先が勝手に震え、力を入れているはずなのに触覚は何一つとして働いていない。
霞む視界。けれど意識だけは落してはいけない、それだけは駄目だと無理やりに落ちてくる瞼を引き上げる。
いくつか地面に転がった黒い石。
どうにか伸ばした震える手は、地へめり込むほどの力で踏みつけられた。
「うっ……あぁ……!」
「絶縁体の袋へ入れてあるとはいえこんなもの、長時間持ち歩くだけでも危険だろう。しかしやはり君は素晴らしい、知識なんてまともにないだろうにここまで思いつくとは。だが親には教わらなかったのかな?」
こんなに近くにいるのに!
絶対に逃げられないほど近くにいるのにっ!
意味をなさぬ吃音だけがふつふつと喉を通り過ぎていく。
締め付ける様に首元へと回された腕。頬を掴み上げた指先へ男が力を籠めると、関節の削れる低く不気味な音が頭蓋内へ反響し、私の口元はいともあっさりと開いてしまった。
「マナーとして、まずは主催が料理に手を付けるべきだとね。毒が入ってたら大変だ、賓客にしっかりと安全な事を見せつけてくれたまえよ!」
映っている。その表面に、私の顔が。
小袋にたっぷりと詰め込まれた黒い石が、もう目の前に。
私の吐息が表面に吹きかかり、白く曇る。
「ああ、失礼。怪物にマナーを求めるのは酷だったかな? それに君の両親は私が手を回したんだった。これは参ったな! ハハハハ!」
ざらり。
冷たい感覚が流れ込んだ。
.
.
.
「ハハハハハ!」
誰にあてたのか、空虚な笑いが空気に溶ける。
何千、何万と周囲にいたはずの王国軍は、誰一人として自国の王のらしからぬ振る舞いに驚くことはない。
いや、驚くことすらもはや
物言わぬ骸に感情を求めるほうが酷だろう。
彼らはただ自国を、土地を、家を、そしてなによりもきっと家族を守りたかっただけなのに、全ての想いは初めから踏み潰されていた。
他の誰でもない、彼らの王によって。
「案外大きな変化はしないのか。本人の体質か、それとも異世界人に特有なのか……」
以前実験で狭間の魔力を直接取り入れた人間は、瞬く間に全身が魔石へと変化し最終的には砕け散った。
魔蝕症の最終段階とでも言えばいいのか、その原因とも言えるのが魔力に蓄積された記憶だ。
廃憶核そのものは非常に小さなものではあるが、何十年と中に蓄積された記憶は並大抵の魔石の比ではない。
にも拘らず少女は姿かたちを保っている。
これはクレストにとっては想定外ではあったものの、だからといって狼狽える程の事ではなかった。
姿形があろうとなかろうとどうせ死ぬ、或いはもう死んでいるか。
「ふむ、念のために刺しておこう」
懐から取り出された銀の刃。
クレストはそれを事も無げに二本指でひょい、と投げつけると、地面に倒れ伏した少女の胸元ど真ん中、心臓があるべき場所へと突き刺し……更にその上から強く踏みつけた。
体を足先で小突き、胴体を突き抜けそれが地面にまで刺さっているのを確認すると、漸く満面の笑みを浮かべ、彼はその背にある烏にも似た翼を広げ空へ飛び立つ。
「いい天気だ」
二色の瞳が愉快気にきゅう、と狭まる。
鳥の鳴く声は無い。
活気に満ちた人々の声もない。
ただ無言の肉塊と、まばらに生えた草木が地面に伏す世界で、男は悠然と空を飛ぶ。
戦線を完全に無視しモロモアスを封じられかけた時は大分焦ったが、半ば少女の自爆で勝てたので問題はない。
「まあ、それが無くとも負ける気はしないが」
小さく鼻を鳴らし、男は確かめる様に拳を握りしめた。
計画は全て順調に行っている。
ちらりと視線を向けた先、大森林と呼ばれていたその森の姿は、随分と小さなものへと変わってしまっていた。
事前に配備していた大型のモロモアスと投擲装置、そして話を知らせていない半ば特攻染みた飛行部隊によって随分と消滅したようだ。
少女の協力者の存在は些か気掛かりだが……これだけの危機にも拘らず自身が表に出てこない時点で、戦闘能力やそもそも本人の精神面はたかが知れている。
捨て置いても問題はないだろう。
晴れた空の下、巨大な影が男を覆う。
「そんなに笑顔浮かべて、私のお手伝いが楽しかったの? それは良かった」
頭上に聳えるのは巨大な岩。
それは今しがた息絶えたはずの少女が、空から堕ちてくる姿だった。
「ガっ……!?」
一瞬遅れた反応。
その隙を逃さず伸びてきた腕は男の顔面を鷲掴み、凄まじい膂力で地面へと叩き付けた。
「なぁ、ぜぇ!?」
「うっ……なーんでだとおもう?」
小さく咳き込み、同時に彼女の口元から溢れた鮮血。
しかし少女の口から溢れた赤い液体は口元を伝い……直ぐに漆黒の結晶へと変わった。
それは間違いなく血液の一滴すら魔力に置き換わっている証拠。
人の意思など保っていられるはずもない。
だが今男の前に立ちはだかる彼女は確かに人間の姿を保ち、こちらを不敵な表情でねめつけている。
「『覇天七星宝剣』」
周囲の地面が隆起し浮き上がった石たちが高く掲げたカリバーへと一斉に集まりだし、忽然と巨大な黄土色の大剣へと姿を変える。
「なんだ……その力は……!?」
クレストは探索者協会の会長として長年君臨していた。
確かにダンジョンシステムは未知の範囲も多いものの、一般的に使われるスキルは――当然一周目などの精鋭が使っていたものを含め――把握している。
だがそんな彼ですら聞いたことのない、完全な未知のスキル。
「なるほど、それが君の固有魔法かッ!」
ならば結論は一つ、少女の固有魔法。
だがなぜ固有魔法をこの今の今まで使ってこなかったのか?
ダンジョンシステムによる補助された魔法とは異なり、大概の固有魔法はただ魔力を放出する形をとる為自由度が高い。
にも拘らずなぜこの状況で、先ほど死にかけていた瞬間に使えばよかったものを。
男の脳裏に過ぎった疑問は、更なる疑問と絶句に塗りつぶされた。
「『スキル累乗』対象変更、『断絶剣』」
「だんぜつ……けん……?」
ぶるりと膝が震える。
一体何度その魔法に切り裂かれただろう。
一体何度その魔法の使い手に恐怖し、眠れない夜を過ごしただろう。
「何故だ……? 何故その名を、何故……!?」
武器を構えることすら男には出来なかった。
暗闇にて消し去ったはずの恐怖の対象が、何故目の前に現れているのか認識できなかった。
あの少女が、何故そのスキルの名を謳い……黄金の輝きを纏い天をも突く巨大な剣を構えているのか、理解が出来なかった。
「『断絶剣』」
だがその使い手は、
他の誰でもない、自分自身のこの手で切り裂き! モロモアスで確実に手足を千切り取り! 世界から消し去ったはずだッ!
「何故君がその魔法を使えるッ!? その
極光が、男を噛み潰した。
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