第338話

 荒野を駆ける。


 この世界の地図は分からない、私が知るのはジンさんに貰った教国の一部だけだ。

 だが私が目覚め、そして体を癒していたあの森は大森林と呼ばれているらしく、事実先ほどジンさんの飛竜に乗っていた時もその一部を確認することが出来た。


 それ故にこの道は迷わなかった。

 この世界で唯一といって良い、きっと信用していいあの人の場所だけは。


「うぁ……」

「っ! ナナン、目覚めたんだ。今安全な場所に……」


 風を切り走る中、背負っていた人物がはたと小さな身震いをし、


 少女の呼吸のテンポが一拍毎に速度を増す。

 過剰に、ヒステリーに、一息吸うごとに劈くほどの甲高い声が入り混じり……


「――ああああアアアアアアアアアアァァァァアッ!!?」


 遂に、断末魔染みた絶叫へと化した。


「やだ……やだあああああああっ!? 離してっ! 離せぇッ!!」

「おちっ、落ち着いて!」


 腕を振り乱し、失った足が空を蹴り、裂ける程に見開かれた目蓋が絶え間ない痙攣と涙を零す。


 狂ったように繰り返される少女の悲鳴が、獣すら眠る月明かりの荒野へ木霊する。

 ともすれば駄々をこねているかのように、その瞳に宿る恐怖に、振るわれる腕へ次々と付けられる傷に気付いてしまえば、もはや彼女が幼子の癇癪などという甘いモノを抱いているわけではないとすぐに理解できてしまうはずだ。


 恐怖。

 恐怖、恐怖、恐怖、恐怖!

 目に映るものすべてが! 己に触れるもの一切が! その喉へ吸い込まれる空気すらもが! 彼女にとっては絶望の対象に過ぎなかった。


 だが彼女は気付いていない。

 私がナナンを手放さないのではない、彼女がコートの袖を強く、固く握りしめていることに。


「ジン! ジンッ! じんっ!!! ベリ! エイルさまっ! だれかっ誰か助けてっ!! だれかっ!?」

「落ち着いて……ゆっくり息を吸って」


 駄目だ、聞こえていない!


 彼女の眼球は目まぐるしく左右へと蠢きまわり、見開き、存在しない恐怖の対象に怯えている。

 見えもしない脅威に、効果などありはしない腕を振り乱し、己の声にすら慄くナナン。

 そして遂に――


「うっ……」


 ごぽり、ごぽり。

 ナナンが口元を抑えるとほぼ同時、その細い指の隙間から黄色染みた物が溢れ出し、白いコートが濁り滑りついた黄色で汚されていく。


「ひ――あ、ああっ、ごっ、ごめっ、ごめんなさい……ごめんなさい……ゆるして……汚してごめんなさいふきっ、拭きますから許して……っ」


 震える手で自分のローブを握りしめ、こちらのコートへと伸ばすナナン。

 拭いたところでこの量の汚れが落ち切る訳もない、ただ塗り広げられるだけだ。

 彼女に分からぬわけもない。しかし混乱と恐怖に塗り固められた思考に正しい理論など導けるはずもなく、ただ目の前の存在全てに怯え媚びること以外を忘れてしまっている。


「おちついて、大丈夫だよ。汚れはすぐ消えるから大丈夫。落ち着いて……深呼吸して……気持ち悪かったら全部吐いて、これで口も拭いていいから。安心して、なにもしないよ」


 コートを握りしめるナナンの力が弱くなった瞬間を突き、するりとそれを脱ぎ丸め、彼女へと渡す。


 どうせ私の身体には照り付ける太陽の暑さも、ましてや夜の刺すような寒さもさしたる問題ではない。

 名残だ、ただ普通だったときの。


 それに不幸中の幸い、とでも言えばいいのか。

 相も変わらず錯乱してはいるものの、精神状態が恐怖から怯えに塗り替わったのだろう、暴れることだけはやめてもらえた。


「大丈夫だよ」


 嗚咽とえずき・・・を聞き、すっかり座り込みコートを抱え丸まる蒼い背を撫でる。


 まあこのコートは例え泥だらけになろうが、自分の血まみれになろうが数時間もすれば綺麗になるので良いのだが……ナナンから話を聞くのは不可能だろう。

 クラリスがいたこと、そして夜にも関わらず厩舎の一つにすら明かりが点いていなかった時点で大方の予想は出来るが。


 今、一番の心配はジンさんだ。

 あの時点でナナンが『中枢』から連絡を取った、ということはナナンはその場で何かを目撃したということ。

 きっと凄惨な光景だっただろう。残酷な行為だったのだろう。

 そしてクラリスが撤退していない以上、その場にいったいどれほどの人数かは分からないものの敵がいる可能性が高い。


 大丈夫だろうか。


「気付いてくれた?」


「今から貴女を多分安全な場所に連れて行く、その後私は教国に戻る。今中枢・・にジンさんが向かってるから……」


 この時、私は言葉選びを遂に失敗してしまったことに気付いた。


 『中枢』

 これは今まさに彼女が見てきたばかりの、トラウマにすらなり切れていない景色の正にそのものを指す言葉じゃあないか。


「しまっ……! 兎も角逃げよう! 大丈夫だから!」


 焦りが口調に伝わり、一層焦りを生み出す。

 それを聞いたナナンの喉は再び大きくひくつき、表情筋がくしゃりと酷い収縮を始める。

 

 だが様子がおかしい。

 今度の彼女は月明かりの下ですら一層顔色が見る間に悪くなり、ぶつぶつと何かを吃音にもにた物言いで絞り出している。


「いし……くろいいし……っ! みんな……みんなっ」


 は、と息を強く吐き出し、くたりと彼女の全身の筋肉が弛緩をする。


「ナナン! 大丈夫ナナン!?」


 まさか。


 再び彼女の喉元に指先を軽く押し当て、最悪の予想は避けられたことに小さく肩を撫でおろす。


 気絶だ。

 過呼吸のせいか、それともあまりに引き攣り過ぎた喉によって呼吸すらまともに出来なかったのか。


「……暴れるよりは、こっちの方が良いよね」


 彼女には時間が必要だ。

 折れた自分の心を繋ぎ直す時間が。

 見た景色が色褪せてしまうほどの時間が。


 どれだけかかるかは分からない。だが今のナナンには己自身と向き合うのではない、ただ混濁した意識の中で微睡むべきだ。


.

.

.



 二度、ノックをした。


 その小さな家は草原の端、森との境界に位置していて薄い明かりが灯っている。


 三度目、中指の背が扉より触れるよりはやく、内側へと木製のそれが思い切り引き寄せられた。


「――フォリアっ!」

「この人を預かってほしい……多分目が覚めたら混乱で暴れるけど、悪い子じゃない。休ませてあげて」


 中から男が飛び出し、有無を言わさず彼の両手へと彼女を抱かせる。

 少しの罪悪感。

 それはナナンを彼女からすれば見知らぬ男へ渡すためか、それとも彼が私の頼みなら断らないと分かっていて有無を言わさず彼女を預けているからか。


 ナナンの握りしめているコートをそっと引き抜き、再び羽織る。

 綺麗なものじゃない。

 だが何かが引き締まるような感覚に一度目を瞑り、ふかく吸い込んだ息を吐く。


「っ、このローブの紋章、教国の……しかも団長だろう」

「……ナナン、私はそれしか知らない」

「何度か、時が戻ったね」


 まるで尋問だ。

 違うところは、男の声色に負の感情などが介入する余裕すらないということ。


「待ちなさい」


 草原へ身を乗り出した私の肩へ、彼の手が触れる。


「協会のコートは確かに時間があれば浄化されるとはいえ、気持ちのいいものじゃないだろう」

「――!」


 瞬間そよ風が身を包み、袖や胸元に見えていた汚れが純白へと変わる。


「……ありがとう。『アクセラレーション』」


 二度目は振り向かなかった。

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