第331話
少女は地を駆ける。
猫のようにしなやかに舞い、荒々しくも勇ましい膂力をもって差し迫る爆槍を薙ぎ払い、風が何にも囚われぬように仕掛けられた捕獲結界を擦り抜ける。
「何故だ……」
飛竜の背に立ちジンは呻いた。
当然だが人体において瞬発力とは筋力から生まれる。
体重の軽重によって速度こそ変わるとはいえ、彼女ほどの速度で動き回れる存在の攻撃が全く破壊力を伴わない……ということは考え難い。
それは彼女が跳躍した地面へ深々と刻みつけられた、小さな足跡からも十二分に理解できるだろう。
行ってしまえばジンは、いや、素の身体能力ならば人の遥か上を行く竜達ですら、彼女の移動速度にはまともに追いつくことが出来なかった。
未だに彼女を追うことが出来ているのは中枢からの指示と転移魔法、そして何よりジンの長年の経験による移動先の推測による点が大きいだろう。
だが、そんなことはどうでもいい。
「なんで反撃してこねえんだよ……」
爆槍に充填するための魔充核を交換していた団員の一人が、苦々しく顔を歪め呟いた。
彼女には間違いなく、この団を容易く壊滅させうる力を持っている。
竜は空を舞っている? 飛ぶことは出来ないだろうから安全?
まさか、そんな妄言を吐く団員は存在しないだろう。
あの少女が本気になれば跳躍でこちらの喉元まで食らい付き、羽虫を叩くように地面へ叩き落とすことは造作もない。
面倒、とも言えないだろう。
数日間追われ続けているのだ、殺してしまった方が早いに決まっている。
何故頑なに彼女がこの一団にその武器を振るおうとしないのか。
「いや、殺す、という考えをまず持っていないのだろうな……あの子は」
ジンが水筒から熱い茶を一啜りしたのと同時、背後で団員の一人がゆっくりと頷いた。
世界を震撼させる龍種と同等以上の魔力を蓄えなお、信じ難いことにその見目同様に思想や行動理念が少女なのだ、良くも悪くも。
勿論その全てが肯定的に受け止められるかは分からないが、少なくとも今見えている限りでは比較的善良と呼ばれる類。
殺すどころかむしろこちらをなるべく傷つけぬように立ち回ってすらいる、いっそ神経質なまでに。
『ジン』
「どうせ殺せはしないですよ、互いにね……団員もやる気が感じられない」
『ええ、分かっています』
『しかし『少女』を国へと招き入れるのはあまりに大きな冒険となってしまう』
「ああ……そうでしょうね」
言うまでもないことだが、彼らは既にかの少女に対して共通語による呼びかけを行っていた。
だが彼女の反応は……皆無とまでは言えぬものの、相当に鈍く少なくともこちら側の言葉の意図は伝わっていない。
独自の言語を操る未開の部族から出てきたというにはあまりに整い過ぎている衣服、そして見知らぬ意匠ではあるが相応に拵えられた履物。
絶えず中枢とは通信が行われているが、やはり彼女の装いから所属の国家、文化が推測されることは無かった。
未知。
そう、文字通り彼女は妙にちぐはぐで、容貌行動身体能力全てが酷く異質。
意思の疎通すらままならず、善性こそ見えていても人知を超えた膂力を持つ彼女を、このまま国へ訪れることを見過ごすはやはり障害となるものが多すぎた。
しかしながら彼女を本気で『駆除』するとなれば、一体どれだけの損害が生まれるか考えたくもない。
身体能力は巨竜を上回り小回りの利く怪物などあまりに常識外れ、本格的な敵として対峙するには最悪の部類だろう。
『彼女を大森林か系譜の森林へ誘導、放逐を行います。防衛体制は一部解除、少し時間はかかりますが援護として『第二』の数人も派遣しましょう』
「了解」
.
.
.
「……弱ったな」
胸と右腕から鈍く、しかし激しく走る痛みと共にジンは普段ですら鋭い目つきと額の皺を一層深め、息も絶え絶えに小さく呟く。
少女を随分と森の奥まで追いやることが出来たその時、やはり相当に苛立っていたのだろう、彼女が近くの岩を叩き砕き吹き飛ばして来た。
その威力、正しく砲弾。
竜を自由自在に駆る為日々鍛え上げ、更に爆槍を扱うため軽くではあるが身体能力を魔法によって強化しているジンであったが、流石に面の攻撃を受けてしまえば避けることは叶わない。
致命的な傷こそ避けたが小指はへしゃげ、手のひらには力の一つすら入れることは出来ないだろう。
相棒である竜のサラは意識を失い力なく地面に横たわっている、大きな石片を頭に受けてしまったようだ。
「情けねえ……」
散々死の槍先を向けた己らに対してすら、あくまで岩を殴り飛ばすという間接的な攻撃。
その上こちらが竜から叩き落された瞬間のあの表情、やってしまったのかという驚愕と恐怖、絶望交じりのあの表情。
「情けねえ」
そして己の弱さそのものすら。
これが最も優れていると謳われた一槍か?
「あ、あああああっあぱ、アンタたたっただいっだじょだ!?」
手足を放り出し、鬱々と力なく垂れ下がっていたジンの耳に飛び込む姦しい声。
「……ナナン、わざわざ君が来たのか」
「生きてた……!」
飛び込んできた蒼の髪に、その日ジンは初めて安堵を覚えた。
少女は激しい足音と共にまばらに生えた下草をかき分け木の根元まで寄ると、杖を大きく振るい男を自分の元まで運び、小さくため息を吐く。
「指伸ばすわ、何か噛む?」
「必要ない、慣れている」
「そ」
途端、ジンの額にぶわりと溢れ出す汗。
治癒力を促進させる回復魔法は完全骨折をしてしまった場合、伸ばしてやらなければそのまま接合してしまう。
戦闘直後などで脳内物質が過剰に分泌されている状態ならまだしも、己の無力感に苛まれていた彼は痛く冷静な精神状態、痛みの神経伝達はは軽減なく脳内へと伝達される。
涎を垂らし絶叫し泣きわめかなかったのは偏に、子供の前であるという男の些細な自尊心である。
男という生き物は大体そういった性質を持ち合わせているものだ。
「助かった。体も動かせんし、何より俺は治療は苦手でな」
「ふん、私に治せないのは人の心くらいよ!」
「話は?」
「勿論聞いてるわ。化物を森に追い払うんでしょ? 相手の性格が好戦的じゃないとかで」
少しばかり齟齬がありそうだが、大まかな情報は聞いているらしい。
これならば竜の背で補足の説明を澄ましてしまえば、後は戦場で彼女自身が判断を下していくだろう。
「私は女子供でも容赦しないわよ」
「君も女子供だろう……」
「なら猶更容赦する必要はないわね! もう相手の位置は追跡してるわ、さっさとぶっ飛ばしちゃいましょ! ほらアンタも立つの!」
ぺちぺちとナナンの小さな手が黒鉄の鱗を叩く。
会話を続けたまま柔らかな柑子色の光を受けていた竜が、小さく首を擡げその透き通った若葉の瞳を男へと向ける。
剥がれた鱗はちょっとばかり色の薄い新たなものへと変わり、流れていた血も既に乾いていた。
「サラ、もう少し頑張れるか」
くるり、小さな鳴き声と共に冷たい鱗が優しくジンの手のひらへとすり寄る。
「良い子だ、帰ったらいい肉を買ってあげよう。ナナン、少し急ぐ。サラの背に……」
乗って俺に捕まっていてくれ。
男が少女に伝えるより速く、二人と一匹の上に巨大な翼の影が降りた。
先行したはずの団員だ。だがその表情は残り少ない仕事をこなす程度で終わるにもかかわらず、いやに引き攣り切羽詰まっている。
また、男の額の皺が生まれた。
「団長!」
「ああ、今から」
「いえ、それがっ!」
ああ、やはりか。
「――少女が『箱庭』へ侵入してしまいましたッ!」
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