第316話
「ああ……最後の装置が消滅してしまった。ここは幻魔天楼に近かったからね、仕方がないか」
遂にクレストの手が離された。
顔を正面へ向けるため無理やりに掴まれていた前髪が額へ掛かり、不安定な二本足で立っていた椅子が激しく揺れる。
背筋を伸ばすことすらままならない体がぐにゃり、ぐにゃりと左右へ曲がる度椅子の足は小さな軋みを上げ、遂に私の身体は椅子ごと倒れ伏せた。
「フォリア君、私は君の名を忘れはしないだろう。そしてカナリア君、君は間違いなく本物であった。未知を既知へと変える天才、けれど既知を叡智へと変えるのは
クレストの言葉を聞き、クラリスの顔がほんのわずかに
「では私は帰還の準備を」
「ああ、これからは忙しくなりそうだ。君たちもよく頑張った、いい加減終わりにしてあげよう」
満足げな笑みを浮かべたクレストであったが、どこか訝し気な表情へと変わる。
「おや……?」
てっきり喜ぶか、泣くか、私が何かの反応をすると思っていたのだろう。
かつかつとこちらへ再び歩み寄ると、私の顔を確認するかのように軽く蹴り上げた。
だが彼の見た私の表情は、きっと彼の想像していたその全てに、何一つとして一致するものは無かっただろう。
「
私は既に咥えていた、爪楊枝ほどにまで小さくなった己の武器を。
目にも止まらぬ勢いで巨大化するカリバー。
その目標は正しく、直前まで私を覗き込んでいた男の顔の正面ど真ん中。
「ガっ?!」
命中じゃあない、きっとどこかに掠めただけ。
けれど間違いない衝撃が顎に掠め、クレストは間一髪避けるために漆黒の大空を仰いだ。
それでいい、それだけでいい。
時間さえ、数秒でも
「クレスト様っ!」
「大丈夫……顎を掠めた、軽い脳震盪だ」
ぶちり、ぶちりと縄がはじけ飛ぶ。
手足は動かない。胴回りの筋肉だけが、今の私にとって自由にできる筋肉だ。
けれど身体能力は変わっちゃいない。何十メートルも飛び上がり、風の様に駆け抜けられる体の筋肉なら、思い切り体を捩じれば
自由になった体を芋虫の様にぐにぐにと折り曲げ、横に座るカナリアの元へ這い寄り……椅子の足へ垂れたワンピースの端へかじりつく。
彼女は未だに浅い呼吸ばかり、何かしようとする私にすら反応はない。
「ふぁあああ!
再び巨大化、今度は誰もいない通路、暗闇の先へと大きく伸びる。
顎と首の力だけでカリバーの先へと力を籠め、思い切り元へ戻す。
私とグリップ、そしてワンピースの端を噛み締められたカナリアの身体は、まるで地面をカーリングの石みたいに猛烈な勢いで滑り吹っ飛んだ。
通り抜け様、目を大きく見開く二人の姿を垣間見、成功を確信した。
「縮小と拡大……成程、隙を突いて巨大化し口元まで伸ばし咥え、一瞬で小さくして隠し持っていたのか」
二度、三度。勢いが消えぬうちに伸ばし、縮める。
クレストと彼の身を案じたクラリス。たった数秒、それだけで私達は一気に数百はあるであろう距離まで逃げ出すことに成功した。
「ふっ……! ふっ……!」
私はお医者さんでも何でもない。
カナリアの症状がどんなもので、一体彼女がどうダメなのかなんて何も分からない。
けれど少しのダメージでもダメなのなんて流石に分かりきっていたので、一度ワンピースから口を離し、逃げる際中頭を地面へぶつけない様に今度は彼女の襟へとかみつく。
手も足も動かない。
地面にぶつかったって受け身なんて取れないし、転がって、どうにかはいつくばって、また伸ばして逃げる。
カナリアもそうだ。ピクリとも動かない彼女はただワンピースの端を咥えられたまま、だらんと手足を揺れ動かして転がった。
勝ち筋なんてない、どうしたらいいのかすら分からない。
なにも理解しきれない絶望だけだ。
なら、逃げるしかない。
逃げて、にげて、にげて、どうにか逃げて。
いや、私は死んだって良い。怖いけど、いやだけど、苦しいけど、死ぬのは覚悟してきた。
でもカナリアは駄目だ。
この人ならきっとなにか出来る。クレストですら認める才能を、知識を、技術を、全てを使えばどうにか出来る。
何も見えない現状でも、きっとこの人だけは何かが見えている。
たった数日、数週間の関係。
でも私には分かる。
だからどうにか逃げて
「君は何処にも逃げられない、どれだけ距離を放そうと、ね」
「がぎぃ……っ!」
突如、脳天を刺し貫く鈍く激しい衝撃が地面へ突き抜けた。
薄暗く何も移さぬ空中のスクリーン、千切れた紐、椅子、そして二人。
確か遠く、背後に溶けていったはずの景色が、私の周りには広がっていた。
「時間が……戻った……!」
「やはりカナリア君から聞いていたのか」
衝撃からワンピースを
まるで仲良く昼寝でもしている様に、私の後頭部近くでカナリアの頭が激しく地面へ叩き付けられた。
「君の両親も、剛力君も、皆必ず最後まで抵抗をしたがるんだ。現状や未来なぞ大方見えているというのに、何故最後まで諦めないんだろうねぇ。本当は私だって君たちを苦しめたいわけじゃあないんだ、むしろ逆さ」
けれど、私は確かに気付いた。
彼女の尽きかけたように零れる微かな吐息は、明確な意思をもって吐き出されていることに。
「ふぉり……あ……フォリア……」
壊れたテープレコーダーとでも言えばいいのだろうか? それは延々と繰り返されていた。
空耳か? いや、現実だ。
じゃあカナリアの頭がおかしくなってしまったのか?
もはや彼女の意識は存在せず、死に面した身体と脳みその乖離が暴走を産んでいるのか?
私の疑問は、コートが後ろから小さく、つん、つん、と引っ張られていることに気付いたその瞬間、吹き飛んだ。
小さく全身が震える。
その瞬間、彼女は先ほどまで何度も何度も口にしていたものからがらりと内容を変え、途切れ途切れで、けれどはっきりとした意味を持つ文章を吐き出し始めた。
「……反応はするな、聞け」
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