第314話

『――! ――――!』


 なんだか……うるさい。


「――い! おきなさい!」

「ママ?」


 空いた窓からは朝日が差し込み、ママの髪を明るく透かす。


 なんかへんだ。


「えっと……あれ。オ、ハヨウ?」

「はい、おはようございますフォリアちゃん。学校遅れるわよ」


 じくじくと肩が痛む。

 それに足もなんだか痛い。


「ガッコ、ウ……?」


 ガッコウって、学校?


 なんだかやけにぼんやりとした思考のまま、なんだかぼんやりと歩く。


「何度も声かけたのに起きてこないんだから! ほら早く朝ごはん食べて!」

「え……あ、うん……」


 気が付くと・・・・・そこにはずらりと並べられた朝食。

 こんがりと焼け上がった食パン、半熟のつやつやな目玉焼きと白いドレッシングのかかったパリパリのサラダ、そしてなによりトマトの真っ赤なスープには削られたチーズがたっぷりかかっている。


「――あれ?」


 なんだか……


「――おいしい」


 おいしい。

 そう思った・・・


 何か、変だ。

 おいしい。

 いや、何も変じゃないはず。だってこんなにおいしそうな見た目で、湯気だって立ってアツアツなはず・・だから、美味しいのは当然だ。

 じゃあなにもおかしくないよ。


 自分が一体何を悩んでいるのかが分からないまま、ただご飯を口に運ぶ。


 変だ、へんだ、へんだ。

 じくじくとした手足の痛みと何一つ噛み合わない違和感が、けれどこのぼんやりとした思考に掻き消されていく。


「琉希ちゃんと芽衣ちゃんも玄関で待ってるわ! ほらお弁当は持ったの?」

「おべんとう……まだ……かな?」

「もう……まだ寝ぼけてるのかしら? 髪は整えてあげるから顔洗ってきなさい!」

「うん」


 そう、なんだかずっと寝ていたい気分だ。


「あれ?」


 タオルで拭う間、ふと視線が向いた鏡の中の自分、その見慣れた顔にまたちりりとした違和感を覚える。

 確か何かが頬にあった気がしたのに、今撫でてもつるりとしている。

 そのまま指は胸元へ。けれどそこには、やはり何もない。


「そう、だよね」


 傷、なんてあるわけない。

 だって私別に事故とか合ったことないし、大きな怪我だってしたことない。


「そ、っか。そう、だよね」


 あるわけないよね。

 そうだ、あるわけない。


 なんだか痛い足と手も、きっと寝ている間に寝違えただけだ。


「そうだよね……そうだよね!」


 勉強は嫌いだ。

 でもなんだか、今はそれがとってもしたい気がする。

 いやな事だけど、嫌な事でもできることが嬉しい気がする。

 それに大事な友達が待ってる。


 玄関から二人の楽し気な会話が聞こえた。

 一体何の話をしているのだろう、流行りのお店だろうか。


 ぱたぱた忙しなく廊下を巡り、あれはどこだ、これはどこだと手に取っては置く。

 やっと準備が終わった気がして、なんだかはっきりとは見えない遠くに向かって声をかけた。


「ごめん今行く!」



.

.

.



「――いったい何処に行くんだい?」

「……あぁ」


 零れたそのため息は、一体どういう意味を持っていたのだろう。


「ようやく目が覚めたようだね、おはよう」


 その貼り付けた笑みは、瞼を開いたその瞬間に飛び込んできた。


「――――っ、クレスト……! 『アイテムボック――」


 己の意志に反しピクリとも動かない片手。

 いや、握り損ねたことに気付き慌てて両手すらをも差し出すが、しかしそのどちらもがまるで糸の切れた人形の様にぶらりと肩から垂れ、指先の一つにすら力が入らない。


 無機質な金属音を立て転がるカリバー。

 男はそれにちらりと視線を向け軽く眉を動かすと、感嘆するかのような息を漏らし遠くへと蹴り飛ばした。


「おや、気付いていないようだね」


 カツン、と彼の持つナイフの柄が肩へ触れる。


「――――!!!! ああァああアアアアっ!??」


 痛み、なんてものではなかった。

 視界が真っ白に消し飛んだ。

 脳の許容量を超えたとても小さく、そして圧倒的な衝撃に体はびくりと跳ね上がり、無意識のうちの叫びが喉からひねり出される。


 今の声、私が出したの?


 自分の意識すら疑ってしまうほどの拒絶が思考と口内を埋め尽くした。

 縛り付けられなお激しく暴れる体は脆くも椅子の足をへし折り、無様に地面へのたうち転がる。


「手足の関節は既に抉り抜いてある、動くことは物理的に不可だよ。万が一に備え椅子に縛らせても貰ったけれどね」

「――ぁ!??」

「もう少し頑丈な椅子を用意しておくべきだったかな」


 浅い呼吸を繰り返し這いつくばる私を、男は表情一つ変えずに見下ろす。


「君の存在は脅威だ。意識を失った先ほどのまま、確実に殺してしまうことが最も正しい行動なのだろう」


 声の振動一つすらもが神経へ無造作に触られているように感じた。

 クレストの言葉へ何か返す、なんてまともに出来ない。呼吸の振動が、自分の鼓動が、動きという動きすべてが激痛に変換される恐怖に黙りこくる以外は選べなかった。


 ただ脂汗を垂らし、少しでも痛みを紛らわせるように深く……けれどその実、酷く浅い呼吸だけを繰り返す。


「だが私は君を認めている、信じ難いかもしれないが心の底からね。才能、努力、そして運が無ければ君は決してここに立つ事……いや、真実を知ることすらなかったのだろう。その全てを私は認めているんだ」


 カツ、カツ、と靴音が響く。

 苦痛から明滅する視界の中、どうにか眼球を無理やりに巡らせ周囲を確認すると、クレストは机の上からなにかをひょいと持ち上げ、再び私の元へと歩いてきた。


「この感動を共有とまではいわないが、せめて君に私の誠意を一つでも伝えたかったんだ。だがそう、悲しいことに君は私から地位、名誉、それどころか金貨一枚すら受け取る色気を見せなかった」

「な……ら……」


 叫ぶ気力すらもはや削がれていた。

 それでも開こうとする口を、男はしゃがみ込みそっと抑えると緩やかに首を振った。


「もちろん君の一番の願いは分かっている。けれども私には飲み込みがたい」


 半ば心は理解していた。

 もうだめだ、と。


 無様なこの姿、みじめなこの状況。

 あの記憶は、刺された記憶は間違いではなかった。

 カナリアは……声こそしないが、いや、むしろしないからこそやはり記憶の通り、何かがあったのだ、と。


 だがその事実はあまりに飲み込み難く、耐え難い。

 無駄だと理解していても、ほんのわずかにすら見えない小さな希望があるのではないか。

 錯覚を否定しきれずに息をひそめ、彼の言葉を待つ。


「そこで、だ。僭越ながら一つ、決めさせてもらったんだ。互いに譲ることは出来ず、結局のところ君を殺すのなら最期に、一体君は何を見たい、或いは経験したいのだろうか、熟考を重ねてね」

「なに、を……?」


 転がる私の傍ら、しゃがみ続けたままクレストはそっと微笑む。


「なに、見てみればすぐに理解できるさ。そう、君たちの国では確か……百聞は一見に如かず、というのだったかな?」


 そうにっこりと弧を描く彼の目は、どこまでも昏い色をしていた。

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