第313話

 自分が叫んでいるのか、何かが、誰かが声を上げているのかも分からなかった。

 焼け付くほどの光に満たされた深紅の網膜は、もはや一切の像を映すことは無かった。

 ありとあらゆる感覚がでろでろに解け、何一つ理解することは出来ていなかった。



「……ぁ?」



 あまりに長い静寂の中、ふと自分が目を固く閉じていたことに気が付く。

 いや、もしかしたら気を失っていたのかもしれない。


 眩み、歪む視界を無理やり動かし、右へ、左へ。

 しかしそこに確かにいたはずの人は、影すら存在しなかった。


「……あの人は!?」


 クラリスは、彼女は引く気などさらさらなかった。

 激情に突き動かされ、確実に殺す気で動いていた。


 だが、彼女は何処にもいない。


「どこに……?」


 周囲をぐるりと見回し己の武器を固く握る。


 人の影は何処にもいない。


「あれ……?」


 何か変だ。

 何が変だ?


 ああ、そうだ……


「なんで、なにもないの?」


 なにもない。

 そう、私の視界には、何一つ・・・存在しなかった。


 高そうな椅子や机、ガラス細工に茶菓子のような何か。

 クレストがこの空間で時間を過ごすために用意したであろう調度品などは、つい先ほどまでそこにあった。


 勿論完全な状態ではない。

 私と彼の僅かな攻防でそれらはへし折れ、砕け、床にまき散らされた。

 けれど確かに、すぐそばに存在していた。


 けれど今はどうだ?


 きょろりと周囲を見回すが、そこには何一つ存在しない。

 ぼんやりと輝く私の足元の床が、ただただ周囲の暗闇を一層引き立てている。


 右を向き、左を向き、されど視界は何も変わらない。


「そうだ! カナリアッ!」


 虚空に叫ぶ。

 しかしあの傲慢不遜で、しかし間違いない知識を持つ彼女からすら返事は無かった。


 何かがおかしい。

 なにかがおかしい。

 なにか、何か、なんだ。


 額を伝う汗の感覚が、いやにはっきりと伝わる。


 これはあのクラリスさんが最後にしようとしていた魔法なのか?

 どこかに閉じ込められているの?

 でもそれなら変だ、だって足元が光ってる。

 足元が光ってるってことは、ここは他の人も通るはずの道。


 そう、私達がクレストと会うまでに移動した道の様に。


「傷が」


 ふと汗を拭った己の手のひら。

 違和感から視線を向け……そこにはクレストに切りつけられたはずの傷は、浅くとも確かに存在していた傷は、血の痕跡すらも消え果ていた。



 これじゃあまるで。

 これじゃあまるで……!


 ありえない・・・・・


「……っ」


 理解不能の恐怖に、じり、と背後へ後ずさる中……ふわり、と頭が布らしきものに触れる。


「カナリア! 何が起こってるの!?」


 それは暗闇に唯一垂らされた蜘蛛の糸だった。


 もし現状がクラリスの魔法によって何かされた結果だとしたら、私に出来ることは皆無に等しい。

 たとえすべてが理論立った術の結果だとしても、その理論を学んだ、ましてや理解すらしていない私が、一体どうやって対抗策を練られるというのか。

 私に出来ることはただ一つ、物理的に殴ることだけ。


 けれどカナリアは違う。

 彼女の技術が、知識があれば。


「……カナリア?」


 しかし、無言。

 姦しいとすら取れる彼女が、間違いなくこちらを私と認識しているにも関わらず、何一つとして口にしないことはあまりに異常であった。


 安堵感から消えかけていた違和感の炎が、小さな疑問を呑み込み即座に燃え上がる。


 ――おかしい……いや、待て。

 カナリアの身長は私と大して変わらないはず。

 じゃあ今私の後頭部に当たっているのは一体なんだ。この柔らかい布地・・・・・・は、一体なんなのだ。


 服、上着だとしたら、それを着ている人間は……私達より断然身長の高い、そう、一般的な成人男性・・・・くらいはあるじゃないか。



「――逃げろフォリアッ!! 後ろだッ!」



「え……?」


 疑問は直ぐに消えた。


「なん、で……なに……が……?」


 いや。

 胸を貫く銀の刃によって、同時に斬り捨てられてしまった。



「やあ、機嫌は如何かな?」



「ゲ……ぇ……」


 低い男性の声が鼓膜を打つと同時、前後すら分からぬほどの激痛が胸元を走った。

 確かめる様に右へ、左へと刃が捻られる度、喉元をえも言えぬ鉄さびの粘液がせり上がり、足元を深紅へと染める。


「なんで……っ!?」

「文字通り世界中から命を狙われているんだ。二重、三重、いやそれ以上に対策をしているのは、当然の事だろう?」

「クレストォッ!」


 必死に後ろを向こうとする視界の端、正面から、先ほどまで探し求めていた彼女カナリアが必死の形相で駆け寄るのが見えた。


「とはいえこれは本当にとっておきでね。ここまで私を追い詰めたのは鮫島君、そして剛力君以来……おっと失礼、君には知らない人達だったかな」

「ぁぁあああああッ!!」


 なんで……死んだはずなのに……!


 背後へ伸ばした手首を男は力強く握り抑えると、新たに手にした刃を肩関節へ添え、

 思考を埋め尽くす疑問符は、絶えず与えられる傷口からの痛覚へ塗り潰される。


 クレストはひどく手慣れた様子で私の背中へと足をかけ、ナイフを抜くと同時に蹴り飛ばした。


「うぐっ……うぅ……うぁあああ……っ!」


 ようやく……漸く届いたのに……!

 やっと全部終わると思ったのに……!

 なんで……なんで……なんで……っ!!


 視界がゆっくり、ゆっくりと色を失っていく。

 指先が狂おしいほどに重い。

 光り輝く床だけがいやに眩しかった。

.

.

.



「――クレストォォォォッ!!!」


 絶叫と共にカナリアが全身へ紫電を纏い、空気を引き裂きながらクレストへと突撃をする。


 計画が完全に狂ったからか、それともまた別の何か衝動的なものか。

 それはフォリアですら見たことのない、後先の考えない魔術の行使。

 空気ですら耐えることの出来ぬ電圧から生まれた破裂音が絶え間なく轟き、クレストを消し炭にせんと彼女は空を駆けた。


 しかしクレストはひどく冷静に、柔らかな笑みすら浮かべ障壁を張ると、恐ろしい形相のカナリアへ変わらぬ口調で語りかける。


「カナリア君、何か忘れているんじゃあないかい?」

「なに一つ忘れてなどいない! 貴様に対する怒りだけはな!」


 一枚目の障壁が吹き飛び、クレストの足元へ砕けた宝石の指輪が散らばる。

 刹那の硬直、カナリアは更に四重の魔法陣を手元へ展開すると、一点へ集中した一撃を……


「――私達は決して終わらない、そう言ったでしょう?」

「……!!」


 するより速く、カナリアの腹部へ燃え盛る三本の槍が貫いた。


「だから言ったじゃないか。君はもっと周りを見なくては、だからクラリス君に嫌われてしまうんだよ」

「くら……りす……」


 ばちり、ばちり。


 二度激しく放電した雷槍はカナリアの手元でふるりと揺れ……魔法陣ごと砕け散った。


「クラリス君、調子はどうだい?」

「はい」


 至って五体満足の様子で現れたクラリスを上から下まで眺め、満足げに頷いたクレストは、ふと足元を何かに引っ張られている感覚に視線を向ける。


「おや」


 白いコートを着た少女だ、とはいえ今は随分深紅に染まっているが。

 胸を貫かれ、片腕を半ば切り落とされなお、ここまで這いずって来たらしい。


 恐ろしい生命力を目の当たりにした男は小さく眉を顰める。


「やめ……て……」

「もしそれで止まっているような人間なら、元々君の前には立っていない。そうだろう?」


 化物・・の手を軽く踏みつけると、彼女はあっけなく気を失った。


『さあクラリス君、仕上げを始めよう。追加の観客が一人増えたが、しかし賑やかなのは喜ばしいことだ』

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