第311話
外の様に匂いも、風も、冷気も熱も存在しないこの世界で、突如鉄さびの臭いが生まれたのは、無意識に汗を拭ったその瞬間だった。
「っ!?」
血だ。
一体いつの間に刻まれたのだろう。
掌には一本の、定規で引かれたかのように真っ直ぐな傷が浅く生まれており、滲んだ血が汗と混ざりコートの袖へと滲む。
何で? いつ? 一体どうやって?
原因は一つしかない。
刃で切り裂かれたような、浅く、鋭い傷は彼の握るナイフ以外から生まれようがなかった。
だが、今の今まで目にしていたクレストの身体能力、そして私の経験からしてこのような傷が生まれるはずはない。
はずは、ないのに。
全身の毛が逆立った。
それは今までの経験から来る、決して見逃してはならない死の気配だった。
「……『アクセラレーション』」
モノクロに染まった景色の中、舞い上がった埃、その一つ一つが視界を過ぎる。
全身を包み込む空気の抵抗、閃くコート、浅く息を吸う。
全てを薙ぎ払う。
肋骨、そして筋肉全てを叩き潰し、捏ね、一体と化す暴力的な一撃に、男の身体は横へ落ちていく。
二度目の浅い呼吸、疾走。
加速した世界の中でなお空を掛けるその肉体に追いつき、空へ叩き上げる。
最後の吐息。
脚が、背筋が、全身の筋肉がミチ、ミチ、と悲鳴を上げる限界の跳躍。
遂に追いついた空中、クレストの顔を垣間見る。
今だ何が起こっているのか理解していないのだろう、ただ衝撃によって開いた口だけが生々しく、黒々とした喉奥をこちらへ見せていた。
「……『スカルクラッシュ』」
◇
『アクセラレーション』を解除し地上に降り立つと、そこは凄惨な光景が広がっていた。
人一人にこれだけの赤黒い体液が詰まっているのか。そう思わざるを得ないほどに塗りつぶされた無職の床。
そして中心に転がっているのは人だった肉塊。
「……え、ひぇ……?」
ひた、ひた、と無言で歩く中微かに聞こえてきた、疑問を含んだような虫の息。
生きている。
内側からへし折れた骨に貫かれた肉は粗雑なミンチの様になり、身体は本来のモノと比べ平たくなり、弾け、それでもなお彼は震えて息をしていた。
ただ一つ、衝撃で外れたのだろうか。彼が右手に付けていた
たとえ自分の身体では見慣れていても、他人が『そう』なっているだけで目を逸らしたくなってしまう。
だが、そう。私がやった。
「……ごめんね」
しゃがみ、武器を置き、勝手に零れた言葉に意味などない。
だが虚空を眺めていた片方だけの瞳が唐突に、ぎょろり、とこちらを睥睨する。
怒りか? 苦痛か? それとももっと何か伝えたいことがあるのだろうか?
しかし表情を表すことの出来る組織や骨格、その大半が砕かれた彼にそれを伝えるすべはない。
「今から、殺すから」
けれど独り言は尽きることなく、足元に転がしたカリバーを再び握る。
きっと苦しいだろう。
きっと痛いだろう。
だから早く終わらせてあげないと、殺してあげないと。
何を偉そうに、自分が彼をここまでやったんじゃないか。
仕方なかった。
私の世界を守りたい私と、自国の利益を守りたい彼。
彼が最初に手を出してきて、進行形で私の世界は崩壊していて、仲良くお話をして決めましょうなんて時間は塔に過ぎている。
敵である彼を私が殺して魔天楼を止めるか、私達を殺して彼が己の国を守るか。
単純な二択で、私が勝った。
ただそれだけ。
「苦しいよね……痛いよね……」
殺せ、殺せ、殺せ。
早く殺せ。
こいつは私の世界を壊した人だ。私の大切な人たちを奪った人だ。私の大切な物を壊した人だ。
そんなの分かってるのに。
本当に殺すべきなのか?
彼を苦痛から解放する、実に聞こえの良いお題目だ。
だが本当は早く殺してしまって、目の前に横たわる罪から目を背けたいだけなんじゃないのか。
全部を守るなんて言いながら誰かを殺す矛盾が脳内をぐるぐる駆け巡る。
一つだけの目が私を見る。
見る。
みる。
睨む。
みてる、みてる、みてる、みて、みて、みて、み
巨大で透明なナニカに、クレストの身体は叩き潰された。
「……あ」
半ば浮きかけていた腰から力が抜ける。
指先から、足から、気力が消える。
自然、仰向けになった私の視界に広がったのは、先すら見えない漆黒の空とカナリアの顔。
そこに見慣れた不遜な表情はなく、ただ悲壮と苦痛の入り混じった、形容のしがたいモノを貼り付けた彼女が経っていた。
「かナ、リア……」
「それでいい」
「私は……わた……し……は」
声が震えた。
見開いた目から塩辛いナニカが零れだす。
泣けばすべてが消えて無くなるわけじゃないのに。
カナリアがやって来たというのに、私は立ち上がる気力すらわかなかった。
ぼんやりと宙を見つめ、ただ顔の横を伝い毛髪へ染み込む生温い感触を受け……ふと、カツカツという奇妙な音に視線を向ける。
カナリアからだ。彼女が身体を揺らし歩くたび、足音の様に周期的な音を立てているらしい。
だが、彼女は常日頃から裸足だったはず。
気力の湧かぬ首をどうにか捻りじっと見つめると、そこには右足を覆うように、いや、補うように添えられた氷らしき塊があった。
「カナリア……足が……」
「気にするな。現状はどうしようもないが、時間さえあればどうとでもなる」
そんなはずはない。
何度も経験したあの苦痛を、悶え苦しむほどのそれを、カナリアは表情にほとんど出さず、しかし無意識にだろう、口の端を震わせ、何ともないかのように振舞いなおも口を開いた。
「無理なのは分かっていた、それでいい。きっと貴様は長らく悔いるだろう、だが覚えておけ。止めを刺したのは私だ、そして他の皆を守ったのは紛れもなく貴様だ」
カッ、カッ、カッ、カッ。
無機質な甲高い音が周囲を動き続ける。
暫くは私も、そしてカナリアも無言であったが、瓦礫を押し倒し、何かを蹴り飛ばす彼女の様子にたまらず口を開く。
「……何か、探してるの?」
「うむ、どうしても探さなくてはいけないものがある……貴様も手伝えるか?」
もう、カナリアの顔はいつも通りだった。
どこか自信があって、偉そうで……でも少しだけ悲しそうで。
だからす、と伸ばされたその腕を私は……掴んだ。
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