第310話

「――だから嫌だって言ってるじゃん、しつこいよ」


 躊躇は、あまりなかった。

 私の手のひらの中で男の右手は、案外小枝の様にあっさりと握り潰された。



「――――――――ッ!!?!」



 絶叫が響く。


 狂ったように叫び暴れ悶える彼。

 長くその手を握っていることも出来たが、肉の内側で砕けた骨の感触、そして何より僅かな会話の時間で生まれた嫌悪感からつい手放してしまう。


 瞬間、隙を逃さんとばかりに素早く後退りした彼は、息も絶え絶えに右手を抱え……血走った眼をこちらへ向けた。


 距離にして五メートルほどだろうか。

 相手も、そして私自身も互いに互いを知らぬ状態、次の動きも分からぬ状態で下手に行動も出来ず、静寂の睨み合いが始まる。


「――貴方の話すことは間違ってないと思うよ」


 沈黙へ切り込んだのは、私だった。


「偏見で一括りにしてさ、話した事すらないのに怖がって……近付くことすらしてくれない」


 思い出すのはあの日々。

 まだ私が何も知らず、暢気に、けれど必死に『ただの探索者』として生きていた、半年程度しか経っていない過去。


 ああ、確かに彼の言う通りだ。

 でも……


「……でも、全員じゃない」


 そうだ。

 私は出会ってきた。

 たった一年で、けれど両手では数えきれないほどの人々と。


 力もないくせに、虚勢を張って私を守ろうとした人がいた。

 勝てるわけもないのに、一人でモンスターを引き付けた人がいた。

 口は悪くとも、今できる限り全てに自分を捧げ、見ず知らずの世界を守ろうとした人がいた。

 死ぬのが分かっていて、それでもと恐怖を飲み込んで、私を見送った人たちがいた。


 性別、年齢、生まれ、あらゆる点で相異なる人々が、それでも互いに理解して歩み寄ることが出来た。


 それが全てだ。

 それだけで、理由は十分だ。


「だから守るよ、出来る限りの全員を。話すのは、理解し合うのはそれからでも遅くない」


 人の手を握り潰してしまった気持ち悪さは消えない。

 生々しい感触が残り続ける左手を固く握りしめ、小さく息を吐いた。



「貴方を殺す」



 それは跳躍か、唯の疾走か。

 彼が必死に取った距離は、二度地面を蹴り飛ばせば零になった。


「――!」


 鼻先すら触れてしまいそうなほどの距離、彼の瞼が見開かれる。


 遅い。

 彼の頭上へ無機質の死が降りかかる。


「――んぬゥッ!」


 しかし生と死の一瞬、白銀の一振りが活路を開いた。


 ナイフだ。

 どこからか取り出した大ぶりの刃で器用に受け流し、クレストは間一髪圧殺から逃げ延びた。


 だが衝撃全てを殺しきるにはあまりに筋量、そして刃渡りが足りなかったのだろう。

 不出来な独楽の様にくるくると回転、宙を舞い、地を転がる。


「それが君の答えか!」


 濁った叫びが彼の喉から飛び出した。

 彼は頭部から目へと垂れる血を、歪に折れ曲がった右手で擦り振り払い、ナイフを逆手に構える。


「話して全てが終わるなら私だってそれが良かった」

「だが提案を蹴ったのは君の方だ」

「そこに私が求めた答えはない」


 第二撃。

 素早い踏み込みと頭上からの強襲、しかし彼の靡く髪を打ち据えるだけに終わる。


「いつでもっ、自分が望む答えを手に入れられるとっ、思わない方が良い!」

「手に入らないなら手に入るまで戦うだけっ!」


 はやく、はやく、はやくはやくはやくはやくはやく終わらせないといけないのにっ!

 はやく魔天楼を止めないとっ、壊さないとっ……!!


 攻め手に回っているはずなのに焦燥感が背中を焼いた。


 攻撃が、届かない。

 彼の身体能力は明確に劣っている。にも拘らず一発、一発と打ち込む度、明確に距離が開いていく。

 蹴り、薙ぎ、殴り。思いつく限り繰り出された攻撃であったが、次第に彼は、回避に僅かな余裕すら見せた。


 力では勝っている。

 速度も一方的だ。

 彼の身体能力全てが明確に私より格下であるにもかかわらず、手負いの男に何一つ届かない。



「――『ストライク』っ!」



 その時、男の瞳がキュウ、と弧を描いた。


 金属同士が擦れ合い目前を火花が舞う。


 虚空を強かに打ち付ける軽い感覚、一際大きく跳ねる心臓。

 一撃をどうにかあてることだけに集中し、加熱していた精神へぶっかけられた冷や水。

 瞬間、意識せずして溢れ出した冷や汗。一撃を完全に受け流されてしまったと認識した途端、僅かに固まりかけた思考は一転して恐怖と混乱へと叩き落された。


 まずいまずいまずいまずいまずッ!?


「グゥッ!?」


 衝撃が腹から頭へ突き抜けた。


 くの字に折れ曲がり見たのは、つややかなダークブラウンの革靴が鳩尾へめり込む一瞬。

 だがそれも吹き飛ばされたことで視界から消えてしまった。


 空中をサッカーボールの様に飛ぶ体は最早私には制御が効かない。

 上下も分からぬままに蹴り飛ばされた私の身体がどうにか地上を思い出したのは、クレストの座っていた椅子や机を巻き込みバラバラに砕いて緩衝材としてからだった。


「硬度と軟性を備えたこの合金すらへし曲げるか、これでも可能な限り受け流したんだがね。恐ろしい身体能力だ……まるで人の形をした化物だな」


 荒々しい呼吸、全身から滝のような汗を流しクレストが吐き捨てる。


「これでは使い物にならないな、加工・・が壊れてしまったよ」


 凹凸の目立つ刃を一撫でしてため息。

 ぞんざいに握りしめていた柄を放り投げると、彼は虚空から瓜二つのナイフを引きずり出して再び握りしめると、のろのろと立ち上がる私へ視線を投げた。


「……けふ」

「怪我は無し。頑丈だね、呆れるほどに」


 やられた。


 音、様相共に派手な吹き飛ばされ方の割に、さほど痛みのない下腹部を抑え立ち上がる。

 張り付かせた笑みに僅かな驚きと辟易の色を混ぜ込んだクレストが、無事な左手で新たに取り出したナイフを弄び、深々とため息を吐く。


「あり得ない、君ほどの幼い子がそれほどの力を……いや、しかし目の前に存在するのだからどうしようもない、か」


 やはりというべきか、クレストの膂力は脅威とはいえなかった。

 いや、探索者ではない一般人からすれば私、そして彼のどちらもが脅威になりうる身体能力であることは間違いない。

 だが私には事実、思い切り内臓のつまったお腹という弱点を蹴り飛ばされたにもかかわらず、このように平然としている。


「……鍛えてますから」

「勘弁してくれ。これでも私は自己鍛錬を怠らない方なのだが、君には追い付けそうにない」


 頬を伝う生温い感覚。

 それは動いたことによる熱気か、それとも緊張からの冷や汗か。


 外の様に匂いも、風も、冷気も熱も存在しないこの世界で、突如鉄さびの臭いが生まれたのは、無意識に汗を拭ったその瞬間だった。

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