第308話

 走った。

 走った。

 右も、左も分からない漆黒の中を、ただひたすらに走った。


 目印なんてものはない。

 どれだけ走ったのかなんて分からない。

 ただカナリアから貰った小さな懐中時計が時を刻む音と、私の吐息、そして足音だけが微かに響く中を駆けた。


「……大丈夫」


 足元は踏みつける度に光を零している。

 これこそが本来は魔力だけが犇めく空間で、唯一人為的に敷かれたこの道を踏み外していない証明。


 そう、大丈夫。

 私は間違っていない、これが一番正しい。


 だから走って、はしって、走り続けて――



「――えっ!?」



 唐突に、世界が割れた。


 足元からの薄ぼんやりとした光ではなく、明確な指向性をもって放たれた鮮烈な輝き。


「うっ……」


 暗闇になれた瞳への刺激に、たまらず首を逸らし片手で覆う。


 だが、それでも何かが聞こえる。

 クラシック、という奴なのだろうか。落ち着きのある荘厳な無数の楽器による音の重なりは、この超自然的な存在である次元の狭間という環境において、奇妙な調和がとれている。


 そして光に目が慣れたところで、ふとそこに自分以外の生物が存在していることに気付いた。


 人だ。

 背中をこちらに向けていてはっきりとは分からないが、垣間見える体格や骨格は男性的なもの。

 彼は中空に浮かぶ数多のディスプレイ――とは言っても私達の知る機械的なものではなく、半透明の近未来、或いは魔法的な何かだ――を、革張りの椅子へと深く腰掛け、退屈気に頬杖をついて眺めていた。


 一体何を見ているのか。


 色とりどりに移り行く映像は、どうやら一つの画面において半分ほどが蒼……つまり空に覆われているということは、流し目でも確認することが出来た。

 だが、じっくりと目をやる余裕がない。

 目の前の、この、突如として現れた異様な人間に、私の目が釘付けになってしまっていたから。



「やあ、早かったね・・・・・



 突然上がった男の声に肩が震える。


「こんにちはお嬢さん。おや、カナリア君はどうしたのかな?」


 彼はゆるりとその艶やかな革張りの椅子から立ち上がると、柔らかな笑みを浮かべ、小さく首を傾げた。


「ああいや失礼、何も言わなくとも結構。クラリス君と会ったのだろう……だがふむ、君のような幼い子を一人先行させるとは思いもよらなかったが」

「……カナリアはすぐに来る」

「そうかい、それは楽しみだ。」


 それは、あまりに思い描いていた像とは異なっていた。

 この場に私が踏み込んできたことを激怒するでもなく、取り乱すわけでもなく、それどころかまるで親しい友人へ話しかける様に、彼はゆっくりを歩みをこちらへと寄せてくる。


 違和感がない。

 忌避感がない。

 それどころか初対面のこちらを落ち着かせ、闘争心の牙をゆっくりと削り取るような感覚。


「そうそう、名乗らないのも失礼だね。カナリア君から既に話は聞いているとは思うが、私はクレストという」


 再び笑みを浮かべ直し名乗ったその名、決して忘れることはない。

 その深い笑みの奥にある、翡翠色と緋色の瞳、間違いなくかつて垣間見た記憶の通り。


 全身から汗が溢れる。


 にもかかわらず、そう、目の前に恐怖を抱けない。

 決して彼は私に攻撃なんてしてこない、とても優しそうな人じゃないか。そう考えてしまうのが、それこそが真の恐怖だった。


 私は中学生の頃、あのママがいなくなってしまった頃に虐められていた。

 あの時、誰も助けてくれなかった時、虐めていた張本人が浮かべていた笑みと同じ匂いがする。

 綺麗で、自分の事を何も悪いとだなんて思っていないような、純粋な笑み。


 彼は一歩、一歩とこちらに近付き、目線を合わせる様に目前でゆっくりとしゃがんで――



「――どうか、君の名前も聞きたいな」

「ッ!! 近寄らないでッ!!!!」



 気付いた時には、数メートル後ろにまで飛びずさり、絶叫していた。

 何に恐怖を感じているのか、歯が噛み合わない。


 なんだ、なんだ、なんだ、なんなんだこの人は!?


「私達から貴方に対する要求はただ一つ! 摩天楼を止めて! 今のこの災害を終わらせるためにッ!」


 まともに話していれば、私の全てが奪われてしまうような気すらした。

 ここまで協力してくれた人たちの犠牲も、いくつもの許せない事実も、この沸き上がるような怒りも全て、すべてうまく丸め込まれるような気がした。

 ただ、彼は近付いて話しただけなのに。


 食われる。

 気迫で、勢いで押しやらなければ、私という存在そのものが食いつぶされる。


「そうか、君も崩壊で知り合いを……?」

「ママも、大事な友達たちも、優しくしてくれた人も……ッ! だから早く止めてッ!」


 一体どうして私はこんなに切羽詰まって叫んでいるのだろう。

 自分ですら理解の出来ない混沌とした恐怖の中、クレストはぽつりとつぶやいた。


「そうか……辛かっただろう」


 男は、クレストは泣いていた。

 わざとらしく嗚咽を上げるわけではない。ただ、目の端から一筋の水滴を零し、心底痛まし気に顔を歪め、左手で口元を覆っていた。


 彼は本気だった。

 本気で心の底から共感し、悲劇に涙を流していた。



「は?」



 脳が理解を拒む。

 顔の筋肉が痙攣を始め、口は馬鹿みたいに開いたままで、無自覚に瞬きの回数が増える。


 摩天楼という存在を創り、隣の世界にまで影響を与えるというリスクを、知っていてなお流したのは彼だ。

 それどころか他国の創り出した魔天楼を破壊し、何億、何十億という人を、莫大な面積の土地を、世界そのものを削り取るような影響を『分かっていて』与えたのも彼だ。

 今、私の住んでいた日本がモンスターに蹂躙され、削り取られ、何もかもが奪い去られるようになっているのも、彼が仕向けたせいだ。


 全部、この男がやった。


『カナリア君から既に話は聞いているだろうが』


 カナリアが文字通り全て話したと理解した上で、己の名を名乗ったのだから間違いがない。


 それを、まるで悲しい事件が起こった後の被害者の友人のような態度で、彼は悲しんで見せた。


「けれど君は一つ勘違いをしているようだ」


 あまりの行動に思考の止まった私の前で、彼はなおも続ける。


「私は別に君たちを苦しめたり、或いは快楽目的等の私的な理由で殺しているわけじゃない。悲しいが、残念だが、仕方のない事なんだよ」


 そう、釈明や命乞いなどではなく、事実を説明するかのように彼は胸の前で指を絡めた。

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