第288話

 氷の如き冷たさ、ピクリともしないその体。


 ――まさか。


 再びむくりと鎌首をもたげた最悪の考えであったが、彼の震える瞼と喉に裏切られた。


「う……」

「い、生きてる……っ! 大丈夫! 今から治すからね! そのまま意識保ってよ!」


 虚空から片手で小さな瓶を取り出し、少し下品だが歯で噛んで栓を引っこ抜く。


 ウニは一度ダンジョンに潜っている。

 つまりダンジョンシステムによってステータス、つまり魔力を体内に取り入れているということだ。

 一般人には効かないポーションも、探索者ならば利く。


 とろみがかった深紅の液体が、不思議な輝きを湛えとろりと零れ落ちた。


 ドラゴンブラッド、その色と輝きこそが最高級のポーションである証。

 瓶こそ手のひら大の小さなものであるが、その効果は折り紙付きだ。

 回復魔法の使えない私であるが、このの命、そして崩壊を止めるときに重傷を負い死にかけた何人をも助けたこの薬は、死んでいなければありとあらゆる傷を治せる。


 ……どうやらこれで手後のポーションは全て尽きてしまったようだ。

 まあ、それでもいいだろう。

 貴重だからと最後まで取っておくくらいなら、目の前の命を救った方が何倍もいい。


「治ったらその分働かせるからね!」


 一滴、二滴。


 私と琉希が見守る中、静かに雫がその口を伝う。

 そして……



 傷は、一切治らなかった。


「は……? なんでっ、ポーションが効かないの……!?」


 確かに小瓶の中身は彼の口に染み込まれていったはずなのに、酷い火傷に覆われた右腕も、抉り取られた右足も、骨の突き出た左足も、全く変化がない。


 唖然、期待の裏切りが思考を止める。


 ――偽物か不良品……?


「っ!」


 しかし呆然としたのは一瞬だけ。

 手の甲に思いっきり咬みつき、躊躇いなく犬歯で噛み千切る。


 刹那の電撃が走ったかのような感覚の後じわじわと膨れ上がる痛み、力を込めた瞬間とぷりと溢れ出す深紅の液体。

 だが右手に握ったポーションの口を擦り付けた瞬間、抉れた肉は逆再生でもするかのように戻っていき、先ほどまで感じていた痛みの欠片すらも消え去った。


 一滴にすら満たない、肌の表面を軽く湿らせる程度の量。

 しかし恐ろしいほどの効き目は一瞥で十分に理解出来、たとえ知識のない人間でも間違いないと頷くだろう。


「本物だ……何で……!?」

「どいてください! 私が魔法でっ!」


 背後で見ていた琉希が私を押しのけ腕を振るう。

 見慣れた輝きがウニの身体を包み込み……


「そんな……今までこんな事一度も……っ!」


 やはり、彼の傷が治ることはなかった。


「そこにいるの……結城か……」

「ウニ! そう、私! どうにかして治すからっ、だからっ」

「何言ってるのか分かんねえ……よく聞こえねえんだわ……」


 掠れた声、薄く開かれた目が虚空を彷徨う。


「姉貴からやっと聞き出したんだ……昨日の夜。まあ、姉貴も本当に詳しいことは……分かってねえみたいなんだけど……真面目っぽい顔しといて頭はアホだからさ……」


 目線は合わず私たちの声への反応は一切ない。

 よく見れば目は白く濁っており、どうやら身体を焼かれた時に視力も失ってしまったようだ。


「地震とダンジョン……三十年前と同じ……ああいや、今はもっとひどい、か? お前達、毎晩なんかやってるのは知っててさ……姉貴の話でやっと繋がったよ……」


 おもむろに、震える両腕が何かを探る様に横へ伸ばされた。

 どうやら何か私に手渡したいものがあるようだが、しかし腕が上手く動かせないようで、藻掻くかのようにその場で地面を撫でるばかり。

 しかしその体の下、肩のあたりから何かがちらりと見えていることに気付く。


 背中に何か隠してる……?


 服は既に千切れ、鋭く尖ったコンクリート片が彼の腕へと食い込んでいくのが見ていられず、彼の身体をそっと抱き上げる。


「これは……っ!?」


 彼の背、まるで何かから隠す様に覆い隠されていたのは、端を紅く染め、ほのかに輝きを保つ紙束であった。



「……それ、大事なんだろ? もっと大切にしろよな……入ってた金庫の上半分抉れてたぜ」


 触覚だけは多少残っているのだろう、再び地面へ寝かされた後、どうにか吐き出す様に伝えられた事実。


 彼は実のところ、園崎さんをずっと問いただしていたらしい。

 彼女は笑ってごまかすばかりであったが、完成と同時に語り出した事実に驚愕し、しかし納得もした。

 姉が幼い頃、よく陰鬱な表情を浮かべていたことを知っており、同時に何か小さく、しかし大きな違和感がここ数か月続いていたのだ。


 失われた親代わりの存在、世界の理不尽な構造、『消滅』という災害。


 全てのピースが埋まった直後起こった地震で、真っ先に思いついたのがその『消滅』であった。

 どんな硬いものでも、丈夫なものでも――己の信じていた存在であっても失われてしまうのならば、もしかしたら漸く生まれた希望も容易く飲み込まれてしまうのではないか、と。


「正直超ビビってたけどな……少し漏らしたかもしんねえんだけどさ……気付いたら銃持って、ここまで走ってたんだわ」


 そして、事実として滅多なことでは破壊されないはずの金庫が抉れ、自分自身それが『前からそうだった』と考えている事に違和感を覚え、事実の認識をした。


 間違いなくここでその『消滅』が起こったのだと、放置すれば間違いなく失われてしまうのだと。


 金庫と比べれば軽いものではあるが、当然これにも軽い保護の魔法がかけられており、汚れはあれど損傷はない。

 しかし金庫が抉れていた、その言葉を信じるのならば、彼がそこから取り出しこうやって隠さなければ、きっと失われていただろう。


「持ち出しといて死にかけてちゃ意味ねえよな……でも、お前が来てくれてよかった」


 自嘲気に鼻を鳴らす彼。

 何かを探す様にさまよっていた瞳も、次第に動きが鈍くなっていく。


「オレさ……多分、誰かに憧れてたんだよ……」

「……っ!」

「名前も……顔も、声も……全然覚えてねえんだけど……だから探索者になろうとして……でも駄目だった。馬鹿やったよ、一緒に行ったダチは皆死んじまったし」

 

 もはや私たちに出来ることは、彼の言葉を一言一句逃さぬように耳を澄ますことだけであった。

 すると不思議なことに風の音も、どこかでモンスターが暴れている音も、すぅっと消え去っていく。

 小さく掠れ、本来なら聞こえないはずのその声が鼓膜へ鮮明に伝わる。


「やっぱすげえよ、お前達。正直ギリギリまでビビっちまってさ……トラウマっつうの? ……全然うまく戦えなかった」


 グリップの先がひしゃげた銃に目線が向く。


 その傍らには小さな魔石。

 恐怖に飲み込まれ、しかし乗り越え倒したのだろう。


「やっぱり、最期までウニ呼ばわりしてんのかな……」

「ウニウニ言い過ぎて本名忘れちゃったよ……」

「鍵一、な……頑張れ、お前が最後の希望みたいだしよ」


 一瞬、彼の瞳が私を力強く見つめた気がした。


「なあ結城――オレ、最期くらいはあの人みたいになれたか? 少しは、カッコよくさ」

「鍵一……? どうしたの……ねえ……っ」


 すぐに、弛緩する。


 そして、もう二度と彼の口が動くことも、瞳が揺れることはなかった。


 全幅の信頼を置いていたポーションも、絶え間なくかけ続けられた回復魔法も、彼の命を救うことが出来なかった。

 異世界から来た人間故なのか、生まれつきの体質なのか……それとも、身体は死せども希望を繋ぐ為、魂がほんの少しだけこの世界に留まっていたのか。


 仮面の下、潤む雫が視界を覆う。


「ああ、かっこよかったよ。……後は私達に任せて、必ず救ってみせる。何もかもを、絶対に」

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