第284話
「あ……」
獣が喉を震わせ、天高く咆哮した。
爛々と輝く瞳がきゅう、と縦に狭まる。
弄んでいた獲物はもはや不要と判断したのか、それとも今目の前に現れた小さな存在を潰した後に再び楽しむつもりなのか、
いや……モンスターに意思はない。
過去、これの元になった存在、その動きをトレースしているだけ。
淡々と目の前の物を殺す機械だ。
影が私の身を覆う。
硬く握りしめられた拳が空へ高々と掲げられる。
この身程度容易く潰してやらんと、それはいっそ無慈悲なほどすんなりと振り下ろされ……
「――ぁぁあああああああアアアアッ!」
この手のひらの上で千切り取られた。
「なんでだよ……」
獣の胸に大穴が開いた。
『ガ……ァ……!?』
薄汚く、これでも動こうとする獣の傷口へ両手を差し込み、真っ二つに千切り取る。
「なんでこうなるんだよ……!」
私たちは、ただ生きてただけなのに。
「ごめん……ごめんね……っ!」
断面から覗く黄色の脂肪、黒々とした血管、絶え間なく滴り落ちる血と体液。
けれどそんな自身の戦いで見慣れたものより、降り注いだ恐怖と憎悪に歪んだその表情が私を狂わせた。
もっと早く出ていれば、あの時目なんか瞑らなければっ、私が薪や実なんて拾いに行かなければっ、この人は死なずに済んだかもしれないのに……!
「人を……生きてる人をっ、探さ……ないと……」
だがその死体を掻き抱き、嘆き喚く暇などない。
血で濡れた頬を涙が伝い一条の線を引く。
彼は死んだ。
名前も知らない、初めて会う、声すら聞いたことない彼は、無数の未練を残して死んだ。
死ねばもう何も考えることも、感じることも出来ない。いくら私がここで後悔しようとも、彼には何一つ届くことはない。
だから今はそんなことをしている暇はない。まだ嘆き悲しみ苦しむことが
傷一つ負っていないはずの口内で、突如として鉄錆の臭いが充満した。
瞼が、眉間が、酷い痙攣を繰り返す。
もはや吐息を漏らすことすら出来なくなったその身体をそのままに、冷たい視線から逃れる様に私は走った。
.
.
.
生きてる人は? 消えてない人は?
協会裏の避難所だって三千人もいたんだ、きっと助けを待っている人がいっぱいいるはず……
「はっ……はっ……」
そのはずなのに。
「どこ……どこなの……?」
見覚えのある看板、見覚えのある道路標識が隣り合う。
でも、本来それらは同じ場所にあってはならない、もっと離れた場所に存在しているはずの物。
崩れた瓦礫の町でも大通りなら識別が出来るはずだったのに、既に町は私の記憶に残された地図と全く異なる形で。
どこでまちがえた?
「誰か……誰かいませんか……! 生きてる人は……!?」
コンクリートが崩れ落ちる音。
人? いや、モンスターだ。
一縷の望みに縋って目線を向けるも絶望が深くなるばかり。
歯を食いしばり群れ成し押し寄せる怪物共を叩き潰す。
どうしたらよかった?
「誰か……答えてよ……」
あれだけいたみんなはどこにいった?
「なんで……誰も答えてくれないの……!」
協会裏の避難所は? 小学校は? 一か所に数千人も固まっていたんだぞ?
……道が分からない。
皆の様子を見に行かないといけないのに、道が滅茶苦茶でどこを通ればいいのか分からない。
溢れたモンスターによる消滅が既に何度も起こったのだ。
ただ闇雲に走り回った。
路上に飛散する
「っ……ぇぁ……っ」
鼻がバカになりそうだ。
息を吸えば吸うほどに肺へ流れ込む濃密な生臭さ、肺胞の一つ一つに血が満たされているのかと錯覚を覚える。
喘ごうと息を止めようともはやこの血の海から抜け出すことは叶わない。
――ここは本当に……日本なの……?
手を繋ぎ頭を潰された肉塊。
子供を抱きかかえ、諸共に上から刺し貫かれた肉塊。
焼かれ、瞳は白く濁り、未だ剥き出しになった頭蓋骨から煙の燻ぶる肉塊。
体の上半分だけが滑らかに切り取られ、その残骸は何処にも存在しない肉塊。
もはや姿かたちすら分からない、地面に張り付いた染み。
皆、死んでいた。
無数の死に様、夥しいほどの死体。
しかしその表情一切が恐怖と絶望、苦痛に彩られている。
ダンジョンシステムは世界の救済機構だ。
世界へ無数に入る罅を塞ぎ、崩壊を可能な限り引き延ばす。
初期の構想からは少し離れてしまっているものの、結果的にはボスを倒すことで罅を再び塞ぎ直し、一層の事崩壊を先の事に出来るのだから、これが無ければきっと今の時点でこの世界は存在していない。
――だが、いっそのこと、ダンジョンシステムなど存在せず、次元の崩壊によって無慈悲に消し去られた方が、彼らにとってはまだ幸せだったかもしれない。
背後で瓦礫が崩れる。
ぞりぞりと地を這う無数のナニカは百足に似ていた。硬い装甲に全身を覆われ、無数の蠢く瞳と牙がてろりとした粘液を零す。
まただ。
次から次から次から次から……っ!
「わたしの……」
深紅に濡れた
軋む鋼の甲殻、僅かな溜め。
そして、一直前に飛び込み開かれる大顎。
「邪魔をするなッ!!」
粉々に砕けたソレは小さな石を遺して塵へと変わった。
くそ、くそ、くそ、くそっ、くそっ!!
ふざけんなよ……なんなんだよ……!
パァンッ!
「鉄砲のおと……?」
静寂を切り裂く一発の銃声。
ナニがそれを扱う? モンスターなわけない。それを扱えるのは知性を持ち、扱い方を何らかの方法で知った……
――ひとだ。
人だ……人だっ!!
生きてる人がいる……まだ戦ってる!
きっと安心院さんの言っていたあの銃だ、あの銃なら普通の人でも崩壊であふれたモンスターと戦える……!
琉希だって、ほかの探索者の人だって!
そうだ、町の人が全員死ぬわけない!
きっと一か所に集まって、皆が必死に守ってるに違いない!
「どけ」
道を阻む物を潰した。
「邪魔」
蹴り倒した。
一体どれだけ沸いているのだろう。
一心不乱に一つの方向へ集中する怪物どもを潰して、殴って、蹴って、ただただ音のする方向へ走り続けた。
絶対にこの先に皆がいるんだって、何百何千と恐怖に震えてる人がいるんだって、だから絶対に守るんだって。
「皆っ! ごめんっ! もう大丈夫だからっ、私が戦うから!」
でも、やっとたどり着いたそこには、一目でわかるくらいに見知った顔すらいなくて。
モンスターの首を切り捨てた馬場さんが、刀を軽く振り払いにこりと笑った。
「おぉ……有難い、老骨には
そこには、和菓子屋の人がいなかった。
焚火に当たって何度か話した人もいなかった。
皆のために急ごしらえの食堂でご飯を作っていた人も、退屈そうに避難所をぶらついていた子も、あの人も、あの人も、あの人も、あの人もあの人もあの人もあの人もあの人もあの人もあの人も。
「なに、言ってるの馬場さん……? 避難所には三千人もいたでしょ……? だからご飯も薪も足りなくて、私が取りに行って……!」
いない。
たった数十人しか、そこにはいなかった。
「はっは、何をおっしゃる。ここには
視界の端で、園崎さんが諦めたように首を振る。
彼女だけが覚えている、その意味。
「――っ!」
なんっ、でだよ……
「……ぁぁぁぁあああああああああァァっ!!」
なんで私たちは、普通に生きることすら許されないんだ。
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