数多く存在する取るに足らないくだらないもの。

 碧唯は屋上へと続く階段の踊り場の隅に蹲りただ泣いていた。

 親友の絵を台無しにしてしまった事への罪悪感、この事が萌咲や他の人々に知られたらという恐怖、昔のように戻りたいという願望

 はたまた誰かに見つけて欲しいからだろうか、様々な思いがこみ上げる。だが、それでも何故自分は泣いているのか、碧唯には分からなかった。

 このまま泣いていても解決する筈もない。いつかは明るみに出る事でそれに向き合わなければならない。にもかかわらず、それすらを頑なに拒み”悲劇のヒロインを演じ続けろ”と、もはや天使か悪魔かすらも分からぬ囁きを盲信するしかなかった。





「碧唯ー? 」


 しばらくすすり泣いていると、今最も逢いたくない、もとい、見つけて欲しかった人物の声が聞こえた。そして、その声は徐々に碧唯の元へと近づいてくる。

 逃げようにも逃げる場所はもうどこにも無い。



「わ!ビックリした……何やってんの碧唯」


「萌咲……ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい、……ごめんなさい」


 耐え切れず碧唯は萌咲に抱きつく。


「え、何どうしたの? 」


 惨めに泣きつく碧唯を見て萌咲は困惑を隠せずにいる。


「萌咲の絵、滅茶苦茶にしちゃった……勝手に妬んで勝手に恨んで、それで、筆で萌咲の絵をグシャグシャにした……」


「何で……なんでそんな事したの? 」


 萌咲の肩が微かに震える。それと同時に碧唯もまた声を震わせ動機を告白する。


「羨ましかった。綺麗な花に付く汚い虫みたいな絵じゃなくてさ、好きな物を自在に、楽しそうに描く萌咲が羨ましかった……その反面、妬んでたんだ。

 中一の女の子が描いたイラストあったよね、あれ見た後さ、凄い悔しくて、憧れて、何故かムカついたの、多分嫉妬してた。その後に萌咲の絵を見たら同じような感情が湧いて……何が違うんだろうって、中一の女の子と違って萌咲はずっと私と一緒にいたのに、どこで差が開いたんだろうって、萌咲は平気そうな顔して綺麗な絵を描くのに何で私はこんな汚い絵しか描けないんだろうって」


「でも! でもこの間の碧唯の絵、上手だったよ! 」


 萌咲が弁明するが、その想いが届く事はなく碧唯は声を荒げる。


「知ってるよ! そんなの私が一番知ってる、でもあんなの私の絵じゃないんだよ!

 薄々気づいてはいたよ、教科書通りに絵なんて描いたって部長が言ってたように有象無象のつまらない絵が出来るって事ぐらい、独創性の欠片もないありふれた絵になる事ぐらい私だって馬鹿じゃないんだからそのくらいの事気づいてたよ!! それ見て萌咲が私の絵を褒めなくなった事も気づいてた! でも……でもさ、昔みたいに褒められるにはああするしかないでしょ! 少人数の身内に褒められるより、大人数の有象無象に褒められる方が良いって思ったから、有象無象はお世辞なんて言わないから!! 」


「じゃあ何、あたし達がお世辞で言ったって碧唯は思ってるの!? 」


「……だって萌咲は優しいから」


「言う訳ないだろ! 親友にお世辞なんて言わない、碧唯だってそうしてきたでしょ? 」


「お世辞なんて考えた事無かった……だってどこまで行っても私は下手なままだったから。でも、そんな私でも有象無象になってまで頑張って、努力して、苦労して描いてきたのに、なのに―」


 碧唯は持っていた筆を落とし、その場に膝から崩れる。


「……あぁ、結局才能なんだって思うと凄く腹が立った、萌咲が憎かった。でも、そんな事で親友の作品を台無しにする自分が憎い、私は私が嫌い、他人より優れてるって思い込んで勝手に優越感を抱いてた昔の自分が嫌い。

 部活に入って他人より自分の描いた絵が劣ってるからって自分の絵を破り捨てた自分が嫌い。

 褒めてくれた萌咲や部長を疑って信じなかった自分が嫌い。

 部長の言葉を半分しか理解出来ないで、分かった気でいた自分が嫌い。

 萌咲が悩んでるのにそれを気づいてあげられなかった自分が嫌い。

 認められないからって部長の言葉を、思いを踏みにじって有象無象になった自分が嫌い。

 萌咲が元気づけようとしてくれたのにそれを鬱陶しく思った自分が嫌い。

 他人の賞賛をあたかも自分のもののようにした自分が嫌い。

 親友の作品を妬んで酷い事をした自分が大っ嫌い。

 自分可哀想で悲劇のヒロイン気取ってる私が死ぬほど嫌い!! でも……多分心のどこかでこうして自己否定する方が楽だって思い込んで開き直って肯定しようとしてる自分はもっと嫌い!!! 」


 辺り一帯に碧唯の声が響いた。




 微かな沈黙の後、いつものように落ち着いた調子で萌咲が沈黙を破る。しかし、夕日の逆光でその表情は読み取れないでいた。


「碧唯はさ、褒められたいからあの画風を棄てた。……合ってる? 」


「……合ってるよ」


「あたし達の誉め言葉がお世辞に聞こえて、褒められてるような気がしなかったの? 」


「うん」


「だから皆に褒められるように皆が好きそうな画風にしたの? 」


「……そうだよ」


「そっか……ごめんね」


 踊り場の床に一滴二滴としずくが落ちる音が聞こえた、それは粘り気のある油とは違って碧唯の頬を伝うものと同じものだった。


「教えないだなんて言ってごめんね、もっと早く言えば良かったね。あたしが憧れた人って言ったの、あれって碧唯の事なんだよ」


 自分より劣っている筈の人間に何故憧れを抱くのか、碧唯には萌咲の告白の意味が分からずにいた。


「あたし、同じ画風の絵ばかり練習しててさ、気付いたらその画風でしか描けなくなってたんだ。オリジナルなんて全く描けない。それこそ有象無象だった……でも、中学に入った時、初めて碧唯の絵を見た時、『こんなに自由に描ける人がいるんだ、同い年なのに凄いな、格好いいな』って思ってさ。

 だからこれは独り善がりで勝手な押し付けになっちゃうけど、そうやって後ろ向きでネガティブな事ばかり言ってる碧唯がすごく嫌い。

 他人に流されて他人に好かれようって安泰を取ろうって考えてる碧唯が大嫌い。

 それはあたしも一緒……でもね、『有象無象なんかにならないように』って頑張ってる碧唯があたしは大好きだよ」




 世辞なんて関係なしに自分の絵を好きって言ってくれる人がいる。一匹の美しい蝶だと言ってくれる人もいる。影響を受けてくれてる人もいる。

 にもかかわらず碧唯ははそれらを全て否定し分からないフリをずっとしてきた。

 一度自分の絵を嫌ってしまえばいくら人に批難されたって開き直れば傷付かなくて済む、これ以上泣かないで済む。その方が都合がいいからだ。だが、それらを繰り返していった先にはもう何も残るものはない。


 

 夕日に涙を照らしながら、泣きじゃくり、嗚咽を吐き、鼻をすすり、震える声で碧唯は萌咲を呼ぶ。


「萌咲……」


「なに? 」


「まだ私一人じゃ絵の一枚も描けない。だ、だから……萌咲の隣で一緒に描いても良いかな? 」


「良いよ、でも消すのはナシだよ。最後まで一緒に描こ」


「うん」


 ━━逆光で見えなかった萌咲の表情が初めて見えた。


 ――影で見えなかった碧唯の表情が初めて見えた。


 あどけなさが残りながらも。


 大人っぽいかっこよさがありながらも。


 煌びやかで。


 どこかまだ子供っぽくて。


 純粋な雲一つない唯一無二の笑顔だ。

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