融ける
昨日の件を引きずり気分が晴れぬまま碧唯は通学路を歩いていく。
自分の絵の事、絵の描き方、そして何より萌咲の事。分からない事を放っておいた結果、碧唯の脳は混沌を極めていた。このまま放置すればどこかで誤解が生じるかも知れない、或いは既に手遅れの可能性すらある。
梅雨特有の蒸し暑い空気の所為か、はたまた件の所為か、或いは寝不足の所為か、宛名の無い苛立ちが溜まっていく。
今の自分はどんな
そんな鬱屈とした碧唯の心情を知ってか知らずか、赤い瞳の少女は明朗な声で声を掛ける。
「おはよー、碧唯! 」
「おはよ、萌咲」
「寝不足? 」
誰のせいだと。
「誰の―
違う、萌咲に八つ当たりするのはお門違いというものだ。
喉まで出かかった八つ当たりを辛うじて理性で押し込む。
「うん、昨日殆ど寝れてなくて……でも、ちゃんと授業も聞くし今日は体育もないから倒れたりはしないよ」
「そう? 具合悪かったらいつでも声掛けてよ、あたし一応保健委員だし」
「ありがと、だとしたら保健委員としての初仕事だね」
「うっ……別に今までサボってた訳じゃないからね、もう一人の娘のフットワークが軽すぎるんだよ、仮にサボってても来週の体力測定じゃサボれないし」
「まぁ、もしもの時はお願いね」
そう言って碧唯は悟られぬように笑顔を作る。
*
学校に着きホームルームが終わると、クラスの担任が碧唯に声を掛ける。
「和泉、悪いんだけど放課後美術室の掃除行ける? いつも掃除してる4組のメンバーが練習試合で居ないらしくて」
「私一人ですか? 」
「いや、各班から一人ずつ」
もしかしたらコンテストに出品する作品を見られるかもしれない、出展されるのが誰か分かったらこの胸の鼓動も治まるかも。そんな閃きが碧唯の中に生まれた。
「分かりました」
二つ返事で教師の提案を承諾すると、その様子を聞いていた萌咲が話に割り込んできた。
「先生ー、あたしも碧唯と一緒が良いです」
「清掃同じ班でしょ。だーめ、北邑はいつも通り教室」
「うぅ~……じゃあ碧唯、終わったら美術室の前で待ってるね」
「うん」
*
放課後、予定通り他の班と美術室を掃除をすることになった。とはいえ、石膏像であったりイーゼルが並べられてあったりなど、掃除というにはあまりにも手間が掛るものが多すぎる為、結局は軽く箒で床を掃いて、机を塗れ雑巾で拭くという簡易的な掃除となった。
各々が駄弁りながら帰る中、碧唯は作戦を遂行すべく一人美術室に残る。
辺りを見渡した限り、作品らしきものは見当たらない。もう送ってしまったのだろうか、そう思い落胆していると、背後から美術の教師が声を掛けてきた。
「和泉さん? 」
「はっ、はい!! 」
不意に声を掛けられ思わず声が裏返ってしまう。
「どうしたの? もう掃除終わったから帰っていいよ? 」
「あ、いえ。この間忘れ物をしたみたいで、その……イヤホン見ませんでしたか? 」
「イヤホン? 」
「はい……あ、ブルートゥースのコードがないやつです」
咄嗟に浮かんだ出任せを吐く。
「うーん、ごめん、僕は見てないな。捜すの手伝ってあげたいのは山々なんだけどこのあと職員会議があるから……あ、そうだ、鍵預けとくから見つかったら施錠して事務室置いといてよ」
教師は教卓からバインダーとファイルを取り出し忙しなく去っていく。
本当ならバレる事を懸念して一歩引くのも手だが、この鼓動を抑える為、背に腹は代えられない。もし捜しても無かったら潔く諦めよう。諦めてまたいつもの生活に戻ろう。
そう碧唯は決心し、美術室を内側から施錠する。
だが一通り探し回った結果、作品は見当たらなかった。
残るは奥の美術準備室。扉を開けると、目の前にはキャンバスが一枚入る程の大きな段ボールがあった。
「これ……」
恐る恐るダンボールを開け、中に入った木枠を引っ張り出す。
鼓動が早くなり汗が止まらない、それどころか少々熱っぽさと吐き気すらも感じる。それでも引きずっていた思いを解消しなければならないと、覚束ない手つきで段ボールの上蓋を開け木枠を引っ張り出した。
そこにあったのは萌咲の絵だ。
碧唯の頭の中で様々な思考が、単語が、語彙が、怨みが、劣等が、嫉妬が脳を蝕み声にならない悲鳴をあげた。
琥珀色の瞳を大きく開け、萌咲が描いた絵を睨みつける。
「何で? だって……だって、私の作品はあんなに褒められたのに、萌咲の絵なんて誰も褒めてなんかなかったじゃん」
「ふざけんな……ふざけんな!! 」
髪をがむしゃらに搔き乱しながら美術室へ通ずるの戸を乱雑に開け、戸棚の中からテレピン油が入った瓶と筆を取り出した。
入り乱れた憎悪や嫉妬などといった感情が今の碧唯を支配している筈だ。だのに、その行動にはどこか冷静な狂気が宿っているようにも思える。
再び準備室へと戻り、瓶の中身がこぼれる程に筆を荒々しく押し込んだ。
「消えろよ、こんなの…こんな絵、何の価値だってないんだからさぁ!! こんなのより私の絵を……私を見てよっ!!! 」
呼吸を荒げ震える手で、萌咲の描いた風景に筆を強く押し付け、テレピン油が絵画の世界にそびえ立つビル群が徐々蝕み崩していく。
その様を血眼で見つめた碧唯も同様に理性が決壊し、ドロドロと入り混じった感情で形成された笑顔が浮かび上がった。
「…………ざまぁ見ろよ……私を裏切る萌咲が悪いんだ、見下す萌咲がいけないんだ。私を置き去りにする萌咲が―」
思いの丈を吐いた筈だ。精一杯の、力いっぱいの、今まで彼女によって蓄積された怨嗟を吐いた筈だ。
なのに嗚咽が止まらない、それどころか、左目から涙が溢れる。
「あっ……違う、私は。嘘。ごめんなさい……」
ハッと我に返り、目の前の変わり果てた萌咲の絵を見た途端、血の気が一気に引いていくのを感じた。
「私は……私は、私はただ」
*
「はぁっ……はぁっはぁっ……」
夕焼けに染まった校舎を油と手汗が染み込んだ筆を片手に、普段の端整な顔立ちからは想像できないくらいに顔を涙で濡らし、少女はただひたすら、がむしゃらに走った。
自分のしてしまった事への後悔、そこから生まれた罪悪感、少女はそれら全てを否定して逃げ出した。
自分がこんな事をする筈がない、やったのは自分じゃない、事故だ、故意なんかじゃない。こんな筈じゃなかった。何度も何度も繰り返し自身に言い聞かせながら少女は冷たい床を蹴り上げ走り続けた。
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