ハロー効果

 いつも通りの昼下がり。


 西日が差し込む中、今日も碧唯達は油絵を描いていた。


 いつものようにイーゼルを立て、教師が名前を呼び自分のキャンバスを取りに行き、パレットに油壺を挟み筆を用意する。最初の頃は油が臭いだとか滑るだとか騒いでいた生徒も今では当たり前のように準備をし、当たり前のようにどこかしらが油で汚れていた。


 そんな中、碧唯だけは”いつもと違うもの”を鞄から取り出しイーゼルに立てかけると萌咲が不思議そうな表情で私の顔を覗く。


「碧唯、教科書使うの? 」


「うん、あった方がいいかなって」


「へぇ、てかそれ開いた事ないや、名前も書いてすらいないし」


「だよね、私も殆ど開いた事なかったかも」


 萌咲も碧唯もまた開いたことすらない人の一部だった。

 その一部が開いたことがあるとするならば、配られた時落丁を確認した時くらいだろう。現に教師が殆ど口頭や動画を使って説明する為教科書を持ってくる必要はない。無駄に大きく、無駄に分厚いだけの無駄な荷物。そんなレッテルを貼られロッカーや家に置き去りにされる。


 ただ、碧唯がそんな無駄をわざわざ持ってきたのには訳があった。

 少しでも多くの人から、萌咲に認められる為に綺麗な絵を描きたいからだ。

 どうすれば綺麗な色を出せるか、どんな割合で油を混ぜればスムーズに絵の具がキャンバスに乗るのか。今までの自身のやり方がどれだけ悪手で間違っているのか。それを知るために碧唯は持ってきたのだ。きっと教科書で学んだ知識は無駄にはならないだろうから。


                 *


 六月上旬。外は雨風が吹き荒れるなか、二十ものイーゼルが各々の作品を彩っていた。


 碧唯は萌咲と一緒に作品を一点ずつ眺めていく。好きな物、印象に残った風景、飼っているペットの肖像とそのテーマは様々でどれも繊細なタッチで描かれていた。

 しかし、碧唯はよく目を凝らして見ていながらも自身の作品が気になって仕方がなかった。我慢できず横目で自身の作品をが展示されている方角を向く。そこには四人程の生徒が碧唯の絵の前に集まっているのが見えた。

『凄い』や『綺麗』『上手』そんな肯定的な言葉が数メートルは離れているのにも関わらず、賛辞は速やかに耳に届き碧唯の頬を薄紅色に染める。


「嬉しそうじゃん」


 碧唯の様子に気づいたのか萌咲はまるで自分の事かのように嬉しそうな笑みを浮かべていた。


「うん、ありがとう」


 苦労して学んだ時間を思い返し、碧唯はしみじみとする。


 束の間、萌咲の表情は変わり今度は意地悪そうな笑みを浮かべた。


「でもさ、蟹は描かなかったんだね。この絵って碧唯んちの近所の浜辺がモデルでしょ? あそこあんなに蟹が多いのに……これじゃ消された蟹が可哀想だよ? 」


「蟹なんて居ない蟹なんていない蟹なんて居なかった」


「あ、だめだこれ」


「萌咲も一回、蟹に指を挟んでもらえば分かるよ」


「遠慮しとく」


 そんな他愛もない会話をしていると、美術の教師が碧唯に声を掛けてきた。


「いやあ、和泉さんってば随分作風変えたね! 綺麗だったよ」


「ありがとうございます、ちょっと前までのは何か違うかなって」


「そっかそっか、で、あれってもしかして教科書読んだ? 」


「はい、たまには読んでみよかなって」


「ありがとー助かるよ、さっき二年から『教科書いらなくね? 』って言われたから、和泉さんみたいに活用してくれる人がいてホントありがてぇっす」


 背筋を伸ばしキビキビとお辞儀をすると萌咲が教師に声を掛ける。


「先生、あたしの見てくれた? 」


 萌咲の一言に、碧唯はハッとする。その実、碧唯はまだ萌咲の作品を見ていなかったのだ。


「そういえば見てなかった」


「うん、僕も」


「うわヒド、早く見に行ってよね二人共」




 色の三原色をふんだんに用いて、無機質な筈のビルをまるで一種の生物の様に有機的に描くという独特な世界観の絵だった。所々うさぎや猫のペイントがひっそりと描かれている辺り、萌咲の自由気ままな性格が意匠として顕れている。

 

 ふと、萌咲の描いた絵に碧唯は既視感を覚えた。


「凄い」


「えへへ、ありがと! でも全然人来ないよね、はは……はぁ……」


 まるで誰も来ない事を想定していたかのようにワザとらしいため息を吐く萌咲に、碧唯は違和感を投げかける。


「ねぇ、萌咲、なんかこの絵、萌咲っぽさもあるけど若干誰かの影響受けてる? 」


「まぁね、碧唯も画風変えてたしあたしも変えてみよかなって」


「へぇ、ちなみに誰の? 」


「だめ、教えない! ヒントならいいよ。とは言ってもパッと浮かばないもんだね……あ、じゃあ、ヒントは私が憧れてる人! 」


 考えた割にはあまりにも漠然したヒントに思わず碧唯は咄嗟のため息を吐いた。


「そんなんじゃ分かんないよ」


「そりゃあねぇ? 教える気ないもん」


 またも意地の悪い笑みで萌咲が答えると、教師が手を三度叩き席に着くよう促す。


「はい、無事皆さんのが完成したという事でね、この中から一人コンクールに応募してみようかなと思います」


 そう教師が告げると、萌咲が教師に質問を投げかけた。


「先生、コンテストに応募する人って全員に知らされるの? 」


「まぁ、良い結果だったら美術室の前に飾ろうかなって思ってるよ。それで知ってもらう感じかな。その前に出展したという旨は選ばれた本人には報告するけどね」



 碧唯の胸の鼓動はしばらく止まらなかった、自分の作品が選ばれる確たる証拠なんてものはないが『もしかしたら』という根拠の薄い、淡い、微かな、仄かな期待が、希望が彼女の鼓動の動力源になっているように思えた。


 描き方を変え、懸命に教科書と睨めっこをした結果大勢の人が見てくれた。賞賛の声を上げてくれた。それだけでも気分は良かったのだ、まるであの時を彷彿とするようで。だが、彼女の承認欲求はまだ満たされていない。もっと多くの声が碧唯には必要だった。これまでの無様を帳消しにするくらいのもっと大きな声が。きっとその賛辞を浴びる事こそが今の碧唯にとっての目的であり幸せなのだ。



                   *



 碧唯と萌咲は放課後の夕暮れに染まった浜辺にいた。

 萌咲がローファーと靴下を脱ぎ、海の方へと歩みを進め年甲斐もなくはしゃぐ。その様子を眺めながら、碧唯は堤防から浜辺へと続く階段に座り思いに耽っていた。


 碧唯が画風を変えようとしていたその時からきっと萌咲も画風を変えようと思ったのだろう。

 美術の教科書と睨めっこしている間にも萌咲は何も見ることなく、”憧れてる人”とやらの画風を真似しながらも自身の良さを出しながら描いていた。


 一体この差は何だろう。さほど変わらぬ環境に居たというのに、萌咲は他者の良いところを吸収しつつも楽しみながらも自らの特色を発揮している。それはきっと一種の才能で、多くの人が羨み賞賛するようなもの。だが、賞賛は碧唯の方が遥かに多かった筈だ。だのに碧唯はまだ賞賛が多かったという事実を受け入れきれずにいる。


 絶えず湧き出す否定的な思考の上に碧唯は得体の知れない、形ある何かが乗っかっているのを感じた。

 恐る恐る手を頭上に乗せると、その何かは碧唯の指を軽く挟んだ。


 この鋭い六本の脚に磯臭い鋏。嫌いなものだからこその勘なのか、遺伝子が警鐘を鳴らしているのか、瞬時に頭上に置かれたものの正体を見破る。


 蟹だ。


 そして実行犯は目の前にいる控えめな胸をした茶髪赤瞳の少女だろう。


「萌咲? 」


 そう声を掛けると萌咲が気まずそうに言い訳を始める。


「あ、いや……今なら蟹乗っけてもバレないかなって……ね? 」


 萌咲なりの気遣いなんだろう。碧唯より器用な割にどこか不器用な彼女なりの。


「萌咲」


「なに? 」


 蟹の甲を摘まみ、萌咲の鼻を挟んだ。


「いっ……」


 涙を浮かべながら必死に蟹の鋏を開き遠くへ蟹を飛ばす。


「ごめんって、話し掛けても上の空だったから生存確認をしようと」


「ご覧の通り健在ですよ」


「はいはい。で、何考えてたの? 」


 碧唯に左に詰めるよう手で仰ぎ、萌咲は碧唯の隣に座った。


「……絵」


「いつも絵の事考えてない? あとネトゲか」


 小さくため息をつき半ば呆れたような顔で碧唯を見つめる。


「だってそれくらいしか私にはないから」


「後悔のないように高校生活送りたいんじゃなかったの? 」


「だからこそ―」


 萌咲は声を荒げようとした碧唯に手をかざし制した。


「ずっと絵とネトゲだけで高校生活過ごす気? もしそうなら絶対後悔するよ。楽しい事だって他に一杯あるんだよ! あたしは碧唯と一緒に楽しい高校生活を送りたい! 」


 眉をひそめいつか以来の真剣な面持ちで碧唯の顔を見つめるが、碧唯はただ耳に入ってきた言葉を読むだけだった。


 きっと才能も余裕もある萌咲だからこそ言える主張だ。

 自身の才能を見い出していない碧唯にはこの時間すらも本来は惜しいくらいだった。けれど、それだけでは身が持たない事は碧唯自身がよく知っている。その為に気休めとして碧唯はネトゲをしているのだ。これ以上の余裕はない、碧唯にとってはこれが精いっぱいなのだ。


「後悔なんかしないよ、しないようにさ、今から努力しなきゃいけないんだよ。私は萌咲みたいに天才肌じゃないから人一倍、何十倍も努力しなきゃダメなんだよ! 」


「いやいや、天才肌なのは碧唯でしょ、部長だって言ってたじゃ―」


 今度は碧唯が萌咲の主張を遮った。


「あんなの、ただのお世辞に決まってるじゃん、部員を確保したいが為の嘘。私が天才肌な訳ないでしょ……」


 感情を抑制しきれずに取り乱す碧唯。その様子を見た萌咲は落ち着いた調子で声を掛けた。


「……ごめんね、やっぱこの話はナシ! 」


 そう碧唯を諭し、強引に碧唯の拳を開くと、手を握って引っ張った。

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