知らない癖に

 早朝の委員会を終え、萌咲が教室へと歩みを進めている最中、下駄箱に通ずる廊下から何者かが萌咲の名を呼んだ。

 萌咲が振り返るとそこにはピンク掛かったショートヘアの少女が居た。


「北邑さーん、おはよぉ!」


「おー、おはよー」


 その続きは敢えて口には出さなかった。

 萌咲には声を掛けて来た少女の名前が分からないのだ。正確には憶えてないというべきだろう。憶えている事と言えば、この少女がクラスメイトである事、何度か話した事があるという事だけだ。

 そして、確かなのは彼女が部活上がりという事だけ。


「凄い汗だね、部活上がり? 」


「そそ、北邑さんこそ委員会の帰り?」


「うん、来週の木曜に体力測定やるんだって」


「いいねぇ、姉ちゃんから聞いたんだけど、下手すりゃ午後の授業潰れるらしいじゃん。やったね!」


 萌咲と負けず劣らずの眩しい笑顔を見せる少女。それとは対称的に萌咲の表情はあまり芳しくない。


「北邑さんはあんま嬉しくなさそうだねぇ、もしや運動苦手? 」


「それもあるんだけど、あたし保健委員だからさ、自分の番終わったらずっと記録係に回されるんだよね」


「マジか、なんかごめんなぁ」


「あ、いや別に良いんだよ


 名前が出てこない。


 ……謝んないで!」


「お、おぅ。まぁキツかったら言ってよ、ウチが代わったげるから」


「気持ちだけ受け取っておくよ」


「そか、じゃあウチは部室寄ってくからまったねー! 」


 名も知らぬ少女は大きく手を振り、教室とは真反対の廊下へ消えていった。


「はーい、またね。はぁ……」


 安堵のため息をつき、自販機の前に立ち、小銭入れから取り出した硬貨を投入する。

 他人との会話というのはこんなにも疲れるものだっただろうか。

 萌咲の中に蓄積された疲労と不安が頭の中で渦を巻く。


 少なくとも中学の頃はこんな事なかった筈だ、恐らく先程のクラスメイトの様に自分から率先して話しかけ、気も遣わずに話せていただろう。いつから自分はこんなにも内気で他人の名前も覚えられないような薄情者になってしまったんだろうか。萌咲はかつてのような自己嫌悪と、自販機から出て来た紅茶を抱え再び教室へと向かった。



                *


 鍵を職員室から借り教室を解錠する。

 誰も居ない事を確認すると、速やかに自分の席に着席し顔を机に突っ伏した。


 碧唯と居る時は疲れないというのに、この差は一体何なのだろうか。そう物思いに耽っていると、つい最近聞いたばかりの声が萌咲を呼ぶ。


「きーたむーらさんっ! 」


 目を細めながら声のする方向へ顔を向けると、そこに立っていたのは先程のクラスメイトだった。


「あ……えっと」


 名前が出てこず、はぐらかすような話も浮かんでこなかった萌咲は困惑し始める。


「もしや、ウチの名前憶えてない? 」


「え、あっ」


 必死に誤魔化そうと試みるが、どうにもここから無傷で脱する方法が見つからない。結果的に萌咲は遂に抵抗を辞め首を縦に振った。


「やっぱしかぁ、北邑さんウチと話すときいつも困ったような顔するからねぇ、もしかしたらウチの名前憶えられてない説が急浮上してきたんだよねぇ」


「ごめん! そんなつもり無かったんだけど、そう見えたならしょうがないか」


「これから憶えてくれりゃあいいよ。という訳でウチは緋山 結乃ひやま ゆのって言います」


「ひやまゆの……ごめん、漢字でどう書くの? 」


「糸辺に是非の非に山、わざわざメモなんかしなくても良いのに」


「いざ名前書くとき書けなかったら失礼じゃん。あれ、ひってどういう字だっけ」


「そういう事ね、もし北邑さんが良いんだったらスマホ貸して、ウチが代わりに打つよ」


「良いの? ありがと」


 そう言いながら自身のスマートフォンを緋山へ手渡す。


「ほい、サンキュー……よし、どうぞー」


「ごめんね、あたし漢字苦手でさ」


「いやいや、ウチもだよ。それより―


 スマートフォンを萌咲に返すと、緋山の口角は微かに上がった。


「北邑さんもその作品好きなんだねぇ、ふふふ、何を隠そう実はウチもなんだよね、ほらっ! 」


 そう言って緋山は自身のスマホを鞄から取り出し、萌咲に大量のグッズとDVDが映っている画像を誇らしげに見せた。

 だが、その作品はお世辞にもあまり知名度の高いアニメではないが、グッズの多さと言い、彼女の煌びやかな瞳といい彼女の作品に対する熱意が萌咲に伝わってくる。

 そんな熱にあてられてか、萌咲自身がかつて言い放った言葉を思い出す。


『好きな物は胸張って言わなきゃね』


 恥じる事なんて無い、自分を殺す必要なんて何処にも無い。碧唯に指摘され薄々は分かっていた筈だった。だが、理解出来たのは今この瞬間だった。


「あたし、やっぱりバカだ」


「突然の自虐? 」


「うん、まぁ、そんなとこ! 」


 空を覆っていた曇に光が差し込むのと同時に、碧唯が教室の扉を開ける。


「おはよー」


「おはよ碧唯! 」


「ん? おはよー、えっと……和泉さん? 」


 萌咲に続いて緋山が確認するように碧唯に挨拶をした。


「え、うん和泉だよ。確か、緋山さんだっけ? 」


 返すように碧唯も緋山に確認を取る。


「そそ、ウチら改めて友達になったんだよね、友達っていうか同じアニメが好きな同志ってところか」


「同志? 萌咲の見てるアニメって……」


「これだよ」


 自身のスマートフォンのホーム画面を碧唯に見せると、碧唯は困ったように薄い反応を示した。


「あー、それか、萌咲がこの前勧めてきたやつ」


「その様子からして碧唯まだ見てないな? 」


「マジか、布教するよ」


「分かった分かった、今度一から見てみるよ。あ、ちょっとトイレ行ってくるね」


「うん」


「いてらー」


 そう言いながら碧唯は鞄を自身の机の上に置き教室を去った。



 薄暗い冷たい空気が走る早朝の廊下、碧唯はネクタイピンを外し手元でカチカチと音を鳴らしながら歩いていた。


 教室を出る直前、何の気に無しに談笑する萌咲と緋山が視界に入った途端、碧唯の中でどす黒い何かが蠢いたような気がした。

 まるで、自称中学生イラストレーターの件で感じたモノ、所謂嫉妬に似た類の何かだ。


 トイレから戻ると、萌咲と緋山は飽きることなく談笑を続けていた。



 自分と話してる時、萌咲はあんな楽しそうな表情をしていただろうか。そんな考えが真っ先に浮かぶ自分に嫌気が差し、理性が『仲のいい友達何て一人や二人出来て当然だろう』と諭し、栞が挟まった小説を手に取り落ち着こうとする。


                *


 昼休みを告げるチャイムが校内に鳴り響き各々が待ってましたと言わんばかりに一斉に動き始める。

 そんな流れをものともせず、碧唯はその場に座って鞄からレジ袋とペットボトルの紅茶を取り出し、三頁しか進んでいない小説と睨めっこを始めた。


「碧唯、お昼食べよ」


 聞きなれた声が碧唯の耳に届き振り向く。

 しかし、そこには待ちわびた人物と願っても居ない人物が立っていた。

 緋山だ。


「和泉さん、ウチも御一緒してよい? 」


 碧唯の心の隅に湧いたどす黒い感情が再び音を立てた。

 だが、その感情の力を借り『邪魔をするな』などと緋山を糾弾する程の勇気など碧唯にはない。


「……よい」


 そうして感情を内に押し殺しながら緋山の介入を渋々承諾した。


「よっしゃぁ、サンキュ和泉さん! 」


「いえいえ」


「そういえば和泉さんと北邑さんって中学時代同じクラスか何かだった感じ? 」


 間髪を入れずに緋山が碧唯と萌咲に質問を投げかけると、萌咲が答える。


「んー、どっちかっていうと同じ部活のよしみかな」


「え、何部だったの? 」


「美術部だよ」


「へぇー、でも今は美術部入ってないんだよねぇ、何で? 」


「この学校の美術部って彫刻とか絵画とか結構ガチ寄りの美術部じゃん? それに対してあたし達の中学は美術部とは名ばかりのお絵描き部だったから、何て言うかこう、あたしたちが入る隙なんてないかなって」


 萌咲が淡々と緋山の質問に答えていく。そこに碧唯が付け入る隙など微塵もなかった。何せ四年もの間、萌咲と一緒に居たが為に中学時代の美術部に関する知識はほぼ同等なのだ。


「お絵描き部って……普段何描いてたの? 」


「今とあんま変わんないかな、推しの女の子のイラストとか描いてた」


「何か勿体ない中学時代だなぁ、二人共めっちゃ美人なんだから彼氏の一人や二人作れば良かったのに。それに、今からでも充分に間に合うよ! 」


「ありがと、でもあたしは作らないな。あんまりそういうのに憧れてないっていうか、ときめかない」


「私も、小学校の頃の担任の先生が男の人だったんだけど、凄く恐い先生でちょっと男性恐怖症みたいな所あって……」


 思いもよらぬ返答に緋乃は慌てて話題を変える。


「そっか、ごめんデリカシーな部分触れちゃって……えっと、良かったら何だけどウチ北邑さんの絵見てみたいかも」


「ん、いいよー、こんな感じ」


 萌咲は躊躇なくノートに描かれたイラストを結乃に見せたかと思うと感心したようにまじまじとノートを見つめる。


「ほぇーすげぇ……これ全部? 」


「うん、いやはや照れますなぁ」


 一般人の目からしても萌咲の絵は感心する程に上手いのだと碧唯は改めて思い知った。悔しい反面、自分の友人が褒められた為か嬉しい気持ちもある。


「和泉さんもまだ絵描いてるの? 」


 自分が話し掛けられる事はないだろうと思っていた矢先、不意に碧唯に向けて質問が投げかけられた。


「……うん」


「寧ろあたしより真面目に描いてるよ」


 萌咲からの望んでもいないフォローが入り碧唯は軽く取り乱す。


「ちょっ……、ハードル上げないでよ! 」


「上げてないよ、事実だし」


「マジでか、やっぱ上手いんだ! 」


 結乃は碧唯に期待に溢れた視線を送る。


 萌咲の後になんて見せられるはずが無い。きっと愛想笑いとお世辞を浮かべる事だろう。

 そうでなくても自分の絵は萌咲なんかと比べ物にならないくらい下手だという否定的な自負が碧唯にはあった。


「ごめん、今日ノート持ってきてないんだよね」


「じゃあスマホとかに入ってない? 」


「うん、あんまり自分の絵って写真撮ったりしないから……本当にごめん」


「そっか、じゃあまた今度見せてもらおうかなぁ」




 今度なんて永遠に来なければいい。そう言って碧唯は心の中で毒づいた。

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