描き消す

 昼下がりの午後、萌咲と碧唯は美術室で授業を受けいた。

 二人の間の沈黙などそう長く続く筈なく、席に座った時点で二人の距離は目に見えて縮まっていた。


                 *


 碧唯はデッサンには向いていないと自覚したこと、この前の中学一年生の女の子が描いたイラストに対する妬みや今朝の件など自身に降りかかる様々なトラブルに苛まれ、精神的に少し参っていた。

 そんな最悪のコンディションの中、今日から碧唯達は油絵に取り組む事になった。

 油絵は失敗してもよほどの時間が経たない限り、ある程度塗りなおすことが出来る。

 碧唯からすれば一発勝負のようなものだったデッサンとは違ってごまかしが効く為多少難易度は下がったと言えるだろう。


「んっ、んんっっっ、はぁ」


 椅子に座りながら碧唯が大きく伸びをすると、萌咲もまたその様子見て同じように伸びをした。

 先程の空気が嘘だったのではないかと思うくらい和やかな空気だ。


「疲れるよねぇ、これ」


 萌咲がそう言って笑っていると、持っていた筆から油が垂れ、萌咲の脇へと流れていく。


「あ、ちょっ萌咲、油!! 」


「え? あぁっ!! 」


 脇に油が流れるのを阻止しようと萌咲の元へ咄嗟に飛び込むと、萌咲が描いた油絵の下書きが碧唯の瞳に映った。


 それは通学路付近にある高層ビルを下から描いたものだった。

 一切の線のブレもなく無機質なビルでありながらも、萌咲らしいどこが優し気なタッチで描かれている。そんな萌咲の絵に見惚れていると、碧唯の腰に萌咲の肘が振り下ろされる。


「ぬぉぉっ!! 」


 あまりの痛みに思わずその場でうずくまっていると、萌咲が血相を変え取り乱した調子で謝罪する。


「ごめん、大丈夫!? 」


「う、うん、大丈夫。油はどう、脇に入んなかった? 」


「まぁうん、お陰様で、本当にごめん! 」


 そんなやり取りをしていると小太りな男が小走りで碧唯達の元へやってきた。


「大丈夫? だから体操服で来いって言ったのに」


 美術を担当している教師だ。芸術やアニメ等に精通し膨大な知識量を保有する言わばオタクだ。


「え、碧唯、言ってた? 」


 萌咲がそう尋ねると碧唯は体勢を立て直し、メモ帳を確認した。が、そのような事はどこにも書かれていない。油絵を描くことすら今この時間に知ったくらいだ。


「ううん、書かれてないね」


「あれー? 先生に言ったんだけど伝達ミスったかな? まぁいいや、まだ時間あるから二人は着替えに行った方がいいかも」


 教師は首を傾げながら二人に着替えてくるよう促す。


「はーい、じゃあ行こっか碧唯」


「そうだね」


                 *


 日の光も当たらない薄暗く冷え切った廊下を二人並んで歩く。

 何の気に無しに碧唯が萌咲の方に視線を向けると、彼女は隣で匂いを嗅ぐよな素振りをしていた。


「何してんの? 」


「んー? やっぱ美術室臭いなぁって」


「あー、油の臭いだと思うよ、ガソリンっぽいやつでしょ? 」


「そうそう」


「でも、まだ若干……あ、二の腕まで油来てたんだ、うへぇ」


 耐え切れぬ臭いに顔を歪ませ鼻をつまむ萌咲、その様子を見かねた碧唯はすぐに腋を洗うよう促す。


                  


 トイレの扉が開き、ワイシャツの袖を片方だけ捲り上げた萌咲が姿を見せる。


「お待たせー、行こっか」


「うん」


「あのさ、今朝の事ごめん……やっぱあたし嘘ついてた」


「気にしないで……でも、そうだね、好きな物は胸張って言わなきゃね」


「碧唯は張る程の胸ないけどね」


 悪戯っ子のような笑みを浮かべ萌咲が毒づく。


「どの胸が言うんだか」


 そう呟きながら萌咲の胸部をまじまじと見つめた。


「そういえば、腋の油とれた? ちょっと腋見せて」


「ほい」


 腕を上げ腋を見せる萌咲に碧唯は何を思ったか鼻を近づけ臭いを嗅ぐ。


「っ!! 何してんの碧唯!? 」


「え、だって腋触るのは何と言うかこう……か、官能的というか」


「臭いを嗅ぐ方がもっとエッチだよ!! 」


「えっ、ごめん……」


 互いの顔が赤く茹で上がる。その熱は二人が美術室に戻るまで冷める事は無かった。 

              *


「おう、おかえりー」


 美術室に戻ると、教師がオフィスチェアに深く腰を掛けていた。それに応じるように二人は『ただいまー』と呟きながら各々の席に戻ると、机に一枚のプリント用紙。


「なにこれ」


 萌咲がそのプリントを読むと、目の前の生徒が待っていたかのように声を掛ける。


「なんか、今回は油絵がテスト代わりらしいよ、んで一番良かった人はコンテストに応募するんだって、まぁ、うちには関係ないけどね」


 生徒はカラカラと自嘲気味に笑う。


「へぇー、ありがと! 」


 萌咲が礼を言ったかと思った瞬間、満面の笑みで碧唯の顔にジロジロと視線を送る。


「なに? 」


「碧唯イケるんじゃない? 」


「デッサンよりは得意かもとは言ったけど流石に―」


 頭から否定するのは野暮なのかもしれない。折角見つけだした自信だ、もしかしたら取柄くらいにはなるかも知れない。そう思った碧唯は前言撤回する。


「まぁ、出来るだけ頑張ってはみようかな」


「うんうん、よく言った! 」


 何者にも汚されていない白く繊細な萌咲の手が、碧唯の艶やかな黒髪を優しく撫でると、微かに頬を赤らめながら萌咲の腕を掴み非力な抵抗をする。


「そんなに撫でないでよ、犬じゃあるまい」


「あぁ、ごめんごめん、どちらかというと碧唯は猫だね」


「そういう問題ではないかな」



                   *


 授業が二コマ目に差し掛かり各々が油絵の具の臭いに馴れ始めた頃、ある者は集中力が切れ付近の生徒と雑談を交わしながら筆をゆっくりと進ませ、またある者は写真の資料を流す様にボーっと眺める。


 そんな怠惰な空気の流れを逆行するかのように、碧唯はキャンバスと真摯に向き合っていた。


 浜辺を描いた線画に下塗り用の絵の具を塗る。臭いこそ強烈ではあるが、アクリル絵の具とは違いかなりキャンバスへの乗りが良い。油で希釈しても、余程の油を含ませない限り色伸びも良く掠れた筆に煩わしさを憶える事もない。碧唯は改めて自分は油絵が好きなのだと再確認した。


 下塗りを一通り終え、伸びをしながら横目で萌咲のキャンバスを覗くと、萌咲の油絵には一足先に彩が加えられていた。


「ん、どしたの、覗き魔? 」


 萌咲が不思議そうな表情で碧唯の方に顔を向ける。


「言い方。いやさ、萌咲の絵綺麗だなって」


「そう? ありがと」


「あれ、リアクション薄くない? 」


「んー、なんか物足りないなぁって、もっとこう調和? させたい」


 机に頬杖つき唸る萌咲。碧唯も一緒になって考えていると、外の駐輪場に支柱に絡まる朝顔が視界に入った。


「ビルに植物巻き付けてみたら? 」


 そう萌咲に助言をすると萌咲の曇った表情が快晴となる。


「おっ、それだよ碧唯! ありがと、巻いちゃおう巻いちゃおう! 」


 脚に繋がれた枷から解きなはれたように萌咲は勢いよく碧唯に抱きつく。そして、萌咲の握っていた筆が碧唯のキャンバスを掠め、キャンバスの左端に大きな紫色の放物線が描かれる。


「あ」


 雲一つない晴れ間が一瞬にして曇天になる。いや、雨も降りそうだ。



「本当にごめん」


「大丈夫だよ、泣くな泣くな、萌咲も今年で十六でしょ? 可愛い顔が台無しだぞー」


 萌咲の顔を指で拭っていると、美術の教師がやってくる。


「どうですか、作業は進んでますかって、どしたの? 」


「私の不注意でキャンバスに別の色が」


「おおうなるほど……っし、じゃあちょっと待っててねー」


 そう伝えると教師が教室の右端に設置された戸棚を漁り、一つの瓶を持ってきた。




「はいこれ、テレピン油つってねぇ間違った箇所を……まぁ、実演した方が早いか。筆ちょっと借りるよー」


 テレピン油と呼ばれるその液体を筆に染み込ませ、キャンバスに描かれた放物線の上に塗りたくると、紫色の線が徐々に崩壊を始めた。


「すごい! 」


「ありがと、先生! 」


 それを見た萌咲が教師に礼を言う。


「ん、なんで北邑さんが? 」


「碧唯のキャンバスに描いちゃったのあたしだからね」


「そうなの? じゃあ北邑さん減点」


 バインダーを取り出し、メモする素振りを見せると、更に萌咲の表情が曇る。


「う、しょうがないか」


「ウソウソ、次からは気を付けてね」


 意気揚々と去っていく教師を見て改めて萌咲は謝罪をする。


「ごめんね」


「大丈夫、気にしないで、それに直し方も教わったし。にしても何で紫なんて色選んだの? ビルを描くならグレーだし、それに巻き付く植物を描くんだったら緑の方が良いと思うけど」


「碧唯は頭でっかちだなぁ。まぁ見てなって! 」


 そう言いながら萌咲は勝気な笑みを浮かべキャンバスに筆を走らせた。

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