らしくないらしい

 碧唯の自室、枕元で耳を劈くようなアラームがけたたましく鳴り響いた。碧唯は寝ぼけ眼でアラームを止めようと細い腕を伸ばすが、その努力も虚しく、充電ケーブルに繋がれていたスマートフォンはフローリングに落ちる。

 結果的にフローリングに響いた鈍い音こそが、碧唯の目覚まし時計の代わりを務めた。


「んんっ」


 とても美少女が発せられるとは考えにくい程の鈍い唸り声をあげ、煩わしそうに這いつくばってスマートフォンを迎えに行く。


 「良かった、大丈夫だ……」


 外傷が無いことを確認し、アラームと携帯のロックを解除した。スマートフォンのホーム画面が視界に入る。そこにあったのは昨日萌咲が碧唯に見せた少女のイラストだった。瞳はガラス細工のように透き通った紺碧の瞳の筈。だのに今は琥珀色に見えた。それが自身の瞳が反射したものだと悟るのと同時に、自身の瞳はこんなにも濁っていたのかと驚嘆する。

 スマートフォンの曇りで瞳が曇って見えていたのだろう。そう頭の中で強引に結論付ける。しかし、そうは言っても疑念は消せない。クローゼット内の内側に備え付けられた姿見で今一度、自身の瞳を見つめる。

 やはり濁った瞳が映っていた。


 何か不満でも、いや、思い当たる節は無いし、萌咲とも変わらず仲良くしている。では何が碧唯の琥珀色の瞳を濁らせているのか、記憶をワンシーンずつ辿っていくと何か詰まる物を見つけた。

 

 それは嫉妬だった。


 碧唯はこの絵を描いた女の子に妬いている、顔も名前も知らないうえに、本当に女の子なのかも分からない。どんなツールを使ったのか、どんな参考書で描き方を学んだのか。そんなもの知ってもこの絵を描いた人物に追い付ける筈なんてない。けれど、それを才能の有無で結論付ける程碧唯の瞳はまだ濁り切っていなかった。


 額と背中から汗が流れ落ちる。肩が大きく揺れるのは呼吸を忘れていた所為か、平静を取り戻そうと深呼吸をしていると、スマートフォンから着信音が響いた。


 萌咲からの電話だ。汗をその場にあったタオルで拭い、画面をスワイプさせ応答する。


『もしもーし碧唯? 』


 相変わらず明るい声色だ。恥ずかしくて本人を前には言えないが碧唯にとっては密かな目標だ。


「碧唯だよ、おはよ」


『おはよー、なんかテンション低くない? 寝起きでしょ』


「まぁ……で、どうしたの? 」


『今日ってさ十時に駅集合で良いんだよね? 』


「十時に駅? ……あ、うん! 」


 壁に掛かる時計に視線を合わせる。時計は丁度九時を指していた。慌ててTシャツを脱ぎ、着ていく服を手に取った。


『さては忘れてたな? 電話して良かったー、間に合いそう? 』


「大丈夫、すぐ支度するからまた後でね! 」


                *


 慌てて支度をした碧唯ではあったが、どうやら少し早く来すぎてしまったようだ。

 辺りを見渡しても萌咲らしき姿は見当たらない。居るのは碧唯と同じような待ち人の待ち人だけ。


 駅の階段を下りながら碧唯は周囲を見渡す。


 着いてから十分は経っただろうか。辺りには先程と変わらぬ顔ぶれが未だ待ち焦がれている。こんなにも待っていると、碧唯の中に一種の安堵感が芽生えた。まるで一つの集団に属しているかのような錯覚に陥る、そういった類の安堵感。所謂、帰属意識というものだろう。


 碧唯はパーカーの紐を人差し指で弄りながら思いに耽っていると、聞きなれた声が彼女を呼んだ。


「お待たせ! 早いね碧―」


 突然言葉を詰まらせる萌咲に碧唯は心配そうな顔で見つめる。


「オフショルパーカーにミニスカ、ニーハイ……ちょっと300枚ほど写真撮って良い?」


「全然ちょっとじゃないよ! そういう萌咲だって」


 連写する萌咲を手で抑えながら碧唯は彼女の恰好をまじまじと見つめた。薄手のカーディガンもロングスカートのパステルカラーでいかにも春の装いといった感じの服装だ。同じ趣味を持った人間とは到底思えない。


「すっごいオシャレじゃん、なんか萌咲の隣歩くの恥ずかしくなってきた」


「ありがと、でもあたしは嬉しいよ! 」


「そう? 清楚系の隣に立つには攻めすぎてる気もするけど……」


「まぁ、大丈夫でしょ。人間そんな他人を目で追う程暇じゃないって、自分を守る事に一生懸命なのさ」


 萌咲の軽くもどこか棘のある回答に流されてしまった。


「……まぁ、いっか」


 こうして碧唯と萌咲は高校生になってから初めての買い物に出かけた。

 

 バイトを始め事もあり、経済的に余裕がある。

 我慢していたものも買うことだって出来る。だからこそ道具を揃えれば自称中学生イラストレーターと同じスタート地点に立てるかも知れない。そんな淡い希望をなだらかな胸に秘め碧唯は萌咲と共に歩みを進めた。




                *



「うーん、デジタルねぇ」


 電気街を練り歩きながら感心したように萌咲が声をあげる。ただ、この声のあげようはよく分かっていない時に発するもの、いわゆる相槌というやつだ。


「うん、一応確認するけど萌咲さん、話の内容理解してます? 」


「失礼な、一割は理解してるよ! 」


「それを”理解してない”って言うんだよ。」


 分かりづらい説明をしてしまったが故に萌咲は理解出来なかったのかもしれないと反省の意を込め、軽く咳ばらいをし話を総括へと持ち込む。


「要は液タブを買えば私も絵上手くなるのかなって、ほら、私アナログは向いてないから」


「そうかな? 」


 萌咲が何かに引っ掛かったように首を傾げる。


「そうだよ、描き方の基礎だって出来てないし」


「碧唯、それは違うんじゃない? 描き方なんて少しずつ学んでいけば良いんだよ、向いてないからって言うのは理由にならないと思う。ちょっと言い方キツいかもだけど、それって逃げてるんじゃないかなって、あたしはそう思うなぁ」


「逃げてる? 私が? 」


 萌咲の発した言葉は碧唯の心の奥底にまで突き刺さった。逃げてる事は自分でもよく分かっていた。しかし、逃げてるという事実からさえも碧唯は逃げていたのだ。上手くいかない、難しい、分からないと言い挑む事すらせずに自分にとって都合の良い道に逃げていた。それを今、萌咲に気付かされた。


「そうかもね、ありがと、もう少しだけ頑張ってみる」


「うんうん! 」


 そう頷く萌咲の表情は目元まで笑っていて何故だか幸せそうで、見てる碧唯も何だか元気が出た。



 そう思ったのも束の間、さっきまで笑っていた筈の萌咲の表情が曇り始める。


「萌咲? 」


 今までにはない萌咲の不安げな表情に碧唯も翻弄される。


 途端、萌咲は碧唯の腕を力強く引っ張り走りだした。


「ちょっと萌咲! どうしたの? 」


「……ごめん」


 萌咲に引っ張られ転ばぬように体勢を立て直していると、再び萌咲の表情が視界に映る。

 大きく見開いた瞳孔が微かに揺れていた。




                 *




 「ねぇ萌咲、私に何か隠し事してる? 」


 なんて言えれば良かったのだろうが、生憎今の碧唯にそんな勇気は持ち合わせていなかった。寧ろ言う隙すら萌咲は与えてくれなかった。

 曇った表情を見せたのはほんの一瞬で、何かの見間違いなんじゃないかと思うくらいに今の萌咲は碧唯の知るいつもの萌咲に戻っていた。


「碧唯? おーい、碧唯さん? 」


 萌咲の囀るような声が不意に碧唯の鼓膜に響き咄嗟に返した。


「っ! はいはい、碧唯さんだよ」


 心配させまいと碧唯は咄嗟に笑顔を作る。


「ねぇ、ゲーセン行きたくない? 」


「いいけど」


 目の前にそびえ立つゲームセンターを目標に脚を進めようとしたその時、またもや萌咲が碧唯の腕を引っ張った。今回も何かから逃れるようだった。


「萌咲? 」


「そっちのゲーセンじゃなくてあたしが行きたいのは向こうのゲーセン」


「同じ系列の店舗じゃん」


「……そっちは目当ての景品じゃないんだよ、あっち限定の景品が欲しいの! 」


 取って付けたような苦しい言い訳をする萌咲に碧唯が抱いていた違和感は確信へと変わった。


「そ、じゃああっち行こう」


「うん、ごめんねさっきから腕引っ張ってばかりで、痛くなかった? 」


「……あー、痛いわー、腕折れたわー」


 わざとらしい碧唯の反応を見て萌咲は安堵したように笑みを浮かべた。


「大丈夫そうだね」


「うん、私は……ね」


 この言葉が今の碧唯に出来る萌咲に対しての探り、勘繰りだった。

 これ以上先に踏み込んではいけない気がした。

 何かを失う予感がしたからだ。それはきっと碧唯が萌咲に対して抱いてる何かだ。きっと一方的な判断で、考えで導き出した感情、いわゆる”らしさ”というやつだろう。萌咲だって知られたくない筈だ、悟られたくない筈だ。ならば彼女が促す通りに、そうして碧唯は萌咲の思うがままに従った。


 萌咲が指さす方向のゲームセンターにつま先を向け、何かが起きた位置から真反対に歩みを進めていく。





                *



 萌咲は碧唯の腕を強く引っ張ってしまった。けど、今は手をつないでいる。

 けど、脚運びだけはどうにも変わりそうにない。自身の変化なんてとうに察してるだろうに。今更何を隠そうとしているのか。否、隠してるのは萌咲も同様だ。


 事実、たまたまクラスメイトを目撃し、恥ずかしくなって逃げただなんて言えるわけがない。碧唯にこんな事を打ち明けたら、きっと彼女碧唯は原因は自分だと思い込み自己嫌悪に陥り、自分と距離をとるかも知れない。なら隠しておいたほうが良いに決まってる。多少なりとも彼女は心配するかもしれないが、いつもの北邑萌咲を振舞っていればきっとその心配もなくなるだろうから。


 自分よがりな思いを胸に秘めながら、不安げな表情をした碧唯の頬をつついた。


「どしたの碧唯、何か考え事? 」


「ん? あ……いや、私クレーンゲーム下手なんだよね、だから萌咲に任せる事になるかも」


「任せるって言ってもあたしも下手だよ、今まで一回も景品取れた事ないし」


「こりゃ幸先悪いね」


「まぁ、何とかなるでしょ」


 根拠のない謎理論が萌咲の口から発せられた。だが、この理論が、この考え方が、北邑萌咲を形成してきたのかも知れない。


                 *


「ね? 」


 デフォルメされた少女の人形を大事そうに抱えた萌咲が笑い掛けると、困惑した様子で碧唯は大きな景品用の袋を広げた。


「凄いね萌咲。三回目で取るなんて」


「そうだろうそうだろう? もっと褒めても良いのだぞ? 」


「調子に乗るからこの辺で」


「えぇー、承認欲求の強い現代の若者なんだからもっと褒めてよぉー」


「ははは、なにそれ」


 まるで子犬のように縋った萌咲の姿を見た碧唯は、ゲームセンターの騒音を盾に何かを呟いた。


「本当に萌咲は凄いと思うよ、私より絵も上手いし社交的で可愛くて、私に無いものばかり萌咲は持ってる」


「そりゃどうも」


「っ!? 」


 碧唯は肩を大きく揺らして距離を取った。


「聞こえてたの? 」


 本当は何一つ聞こえてなんていなかったが、ここで一つ萌咲はかまをかけてみた。


「聞こえるように言ってたんじゃないの? 」


「いや、そういうつもりじゃ……」


「聞かれたくない事は頭ン中で思ってるだけにした方がいいよ、まぁお陰であたしの承認欲求は満たされたので良しとします! 」


 けれど、何となく萌咲を褒めているような気がした。それがいつも振舞っている北邑萌咲としてなのか、それとも萌咲あたしとしてなのかは分からないけど。



                 *


 結局、一度はクラスメイトとすれ違ったがそれ以降逢う事はなく、碧唯とは有意義な一日を過ごす事ができた。

 萌咲自身も途中からクラスメイトの事など忘れ、自分らしくいられていたくらいだ。


「じゃあまた学校でね! 」


「うん、じゃあね萌咲」


 名残惜しみながらも繋いでいた手を離し、互いに先程まで握っていた手を振りながら別々の方向へと歩んでいった。

 今日一日の出来事をアルバムをめくる様にワンシーンずつ辿る。

 頭の中のアルバムを閉じても、もう少し彼女の姿を見たいという欲求が萌咲を埋め尽くしていた。

 『きっと変に律儀な碧唯の事だ、もしかしたらまだ自分に向けて手を振っているんじゃないか』そんな淡い期待を抱きながら振り返る。

 が、視線の先に碧唯の姿は無く、平坦な道だけがあった。

 

 心のどこかで分かっていた。走って逃げていったわけじゃないという事も、自分が執着しすぎているという事も。だが、そのつまらない平坦な道を見て寂しいと思ったのは紛れもない事実だった。

 控えめな大きさをした自身の胸がキュッと締め付けられるような、そんな違和感が萌咲を襲った。


                 *



「ただいまー」


 鍵を開け、声を上げながら玄関の戸を開ける。


「久しいな、可愛いな、美しいな萌咲よ!! 実に三か月ぶりか? お兄様に何か言う事があるんじゃないのかね? んん? 」


「あー、おかえりお兄ちゃん。ちょっ、邪魔だしスーツで玄関に座んな! 」


 ひょろっとした身体に猫背という如何にも不健康そうな体格の兄、北邑凪きたむらなぎが玄関で待ち伏せをしていた。


「いやいや、スーツよりも妹の方が大事だ」


「ありがと、でもそういう問題じゃないから! 動けこのシスコン! 」


 力いっぱいに凪の背中を押し、リビングにぐいぐいと押し込む。


「待て待て待て待て妹、そんなに押したら私が転ぶ恐れが」


「転びたくないなら自分で歩きなよ、お母さんこのシスコンなんとかして! 着替えたいから! 」


 咄嗟に兄を支えていた手を離すと、兄は情けない悲鳴をあげながらゆっくりと尻から転倒した。


「おわぁぁ! あぁ、この感覚も久しい、そして何より態度、これでこそ帰ってきた甲斐があるというもの!! 」


「…………」


 何のためらいもなく気色の悪いセリフを、吐き出す兄に恐怖を憶えながらもその中に混じった萌咲らしいという言葉に違和感を覚える。



 らしいとは何か、萌咲の中で思考が渦巻く。

 碧唯の前でも元気に振舞い、碧唯が求めているであろう北邑萌咲を演じている。そんな事碧唯は望んでなどいない筈なのに。

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