有象無象

 翌日、美術室の前に一つの影が落ちていた。

 和泉碧唯だ。手には直筆の入部届が握られている。

 あれ程絶望し、恥を晒し、身の程を知ったというのに碧唯自身にも分からぬ感情が彼女自身をここまで運んだのだ。


 ふと、何物かが碧唯の名を誰かが呼びこちらへ向かってくる。北邑萌咲だ。


「やほ、碧唯ちゃん! 」


 ポニーテールをなびかせ嬉々とした表情で大きく手を振る萌咲に驚きつつも挨拶を返す。


「や、やほ。萌咲ちゃん」



 北邑萌咲の底なしの明るさに碧唯はついていけない。彼女はあの後も他の上級生達とは昔からの親友のように話していた。それもそのテンションを一切変えることなく常に保ちながらだ。

 そして今日もそれは変わらず、碧唯に挨拶をする始末だ。


 きっと優しい娘なんだろう、誰にでもこんな風に接しているんだろう。疲れないんだろうか。いや、もしかしたらこれが平時なのかもしれない。

 もしそうなら、やはり彼女と自分は住む世界が違うんだと結論付け、全自動で壁を築き上げていった。


                  *


 その日も昨日と変わらず各々がグループを作り思うがままに活動を続けていた。

 萌咲と部長以外に知人の居ない碧唯は、やむを得ず部長の右隣の席を確保する。

 すると、その時を待っていたかのように部長が口を開いた。


「和泉殿、昨日私が言った事分かっただろうか? すまんな、熱くなるとつい説明下手になってしまってな」


「あ、いえ。有象無象、ですよね」


「ふんむ、覚えてくれていたか! いやぁ、実は私も有象無象が嫌いなんだ。故に私怨に動かされ熱く語ってしまってな、すまぬ!! 」


 大袈裟なくらいに勢いをつけ腰を曲げ、碧唯に深々と頭を下げた。


「あ、いえ。気にしないでください。けど、どうしてそんな有象無象に拘るんですか? 」


 そう碧唯が尋ねると部長は数秒程沈黙し、先程までのテンションが嘘であったかのように落ち着いた調子で語り始めた。


「私はな、小学校の頃苛められてたんだ、人と話す事が苦手で誰とも話さないでいた。すると必然的にグループが出来、私はどこのグループにも属さない日陰者になってしまった。」


「そして、時が経つに連れ、クラスの皆が私を拒むようになっていき、次第にそれは苛めに発展。最初は一人が私の靴を隠し、二人が私に水を掛けた、しまいには顔も知らぬ他クラスの連中が私の教科書やスケッチブックを破った。さて、ここで問題だ。私はそいつらに聞いたんだ、どうしてこんな事をするのかと……何て答えたと思う? 」


「……ごめんなさい、分からないです」


「それだよ、”分かんない”んだ。大正解。周りの皆がそうしてるからと言って私を苛めていたそうだ。その時私は悟った。集団は人を狂わせるんだ、正しいことなのか合っている事なのか分からずに事を成す。分からなくなったら周囲を見て判断するそれが正しいんだってな。」


「何も苛めに限った話じゃない、同じような自らの意志を持たない薄っぺらい思考を抱いた者が有象無象なんだ。きっと誰だろうと有象無象になる可能性はある。だが、君にはそうなって欲しくない。分からないからと言って他者を模倣しないで欲しい。


「この先心無い奴が君の画風を批難する事もあるだろう。けれど君は『自分は自分だ』って貫いて欲しい。君の絵は蝶なんだよ。大輪の花なんかよりも美しい一匹の蝶なんだ」


 部長は真剣な眼差しで碧唯に語りかけた。


 だが、碧唯は彼女の言葉を全て理解する事が出来なかった。どうしてこうも私に親身になってくれるのか、どうしてほぼ初対面の時分に辛かったであろう過去を打ち明けるのか、分からない事だらけの中で唯一分かった事があるとするならば”有象無象にならない事”だけだ。




                  *



 晴れ渡った5月の正午、別館校舎の少し薄暗い廊下を二人並んで歩く。


「そういえばさ、今日の美術何するんだっけ? 」


 ブリックパックに入った紅茶を飲みながら萌咲が問う。


「今日はデッサンだね、先週削った鉛筆を使うっぽい」


 スマートフォンに書かれたメモを碧唯が立ち止まり読み上げる。


「あぁ、あのやたら鋭いやつ? あれ折れたら絶対危ないよね、目に刺さりそう」


「ははは、だよねぇ、特に萌咲。ま、刺さったら一緒に眼科行ってあげるよ」





 無事中学を卒業し萌咲と同じ高校に進学する事になった。


 萌咲とは対極的な性格ながらも、喧嘩をする事は殆ど無く、互いが互いを尊重し補い合うことが出来る、そんな仲だ。

 そして近頃は萌咲によるものか、碧唯にもその明るさが移ったようだ。未だに自分の絵と他の人の絵を見比べる事はあれど、あの日部長に言われたように『自分は自分だ』とそう割り切れるくらいには成長した。


                   *


 昼休みの終了を告げるチャイムが鳴り響く中、高校生になった碧唯と萌咲は油と絵の具の臭いが入り混じった美術室で授業を受けていた。


 週に一度、二コマだけある美術の時間。

 担当の教師も温厚な人物で、授業内容の説明も自身の経験談を交えながら説明してくれる為か、とても分かり易く未だに画力の上がらない碧唯でもそれなりに上手く描く事が―


「……」


 震える右手で鉛筆を握りながら、A3サイズの画用紙を穴が開きそうな程見つめる碧唯。そんな奇怪な光景を真横で見ていた萌咲は恐る恐る疑問を口に出す。


「あのー、何してんすか碧唯さん」


「んー、何でもない」


「何でもないヤツが画用紙睨みつけないでしょうに」


「じゃあ、そういう趣味という事で」


「苦し過ぎない? 」


「だって」


 萌咲の冷静な指摘に唸り声をあげたかと思うと、今度は机に突っ伏す。


 高校生となった碧唯に新たに苦手な物が出来た。

 輪郭を描く事は出来るが、そこから陰影をつけるのが難しい。鉛筆を寝かせるように影を描いてもうっかり輪郭からはみ出してしまう。

 それを直す為に消しゴムを使うと、かえってその部分だけが白くなってしまい修正痕が浮いてしまう。そんな負の連鎖が碧唯にため息を吐かせる。


「はぁ、デッサン難しいなぁ」


「だよねぇ、手汚れるしその汚れた手で紙触るともっと汚れるし、あーもう、ムカツク!! 」


「えっ? 」


 苦しんでいるのは自分だけだと思い込んでいた碧唯は、萌咲の見せる想定外の反応に驚きを隠せず声を上げる。

 自分だけが一人取り残されていた訳ではなかったのかと。常に傍に居る友人が悩んでいるという事実に、微かに頬が緩み胸を撫でおろした。


                 *


 昼休みを告げるチャイムが鳴った後、クラスメイトの大半が教室を待ち焦がれていたかのように飛び出し、購買や各々が望む場所へと駆けていく。


 それに合わせ碧唯もお気に入りの場所、校舎の屋上へと脚を運ぼうとしたが、現実はそんなに甘くない。

 第一、外はまだ冷たい風が吹いており、安全上立ち入る事は出来ない。それでも何とかして屋上に入るのが格好いいのだろうけど、それが青春とやらの醍醐味なのだろうけど。

 そもそも、立ち入り禁止という事は誰も足を運ばないという事だ。当然掃除をしに来る人も居ない訳で、掃除が行き届いている筈もなく、そんな場所で昼食を摂るのはいかがなものか。と、自分に言い聞かせ、今日も碧唯は教室で昼食を摂ろうとしていたが。


「いつもコンビニ飯だね、碧唯って」


 ふと顔を上げると目の前の椅子に、碧唯の顔をキョトンとした表情で覗き込む萌咲が座っていた。


「だめ? 」


 煩わしそうに碧唯が返答をしても、そんなことはお構いなしと萌咲が続けて喋りだす。


「ううん。ねぇ、その唐揚げと苺交換しない? 脂っこいもんばっかじゃ飽きるでしょ? 」


「唐揚げ食べたいって素直に言いなよ。はい、あーん」


「あーん」


 萌咲が大きく口を開け仕方なく唐揚げを爪楊枝に刺し運ぶ。


「あいがふぉ《ありがとー》ん、美味しいね! 」


「そりゃ良かった、とはいえ冷めてるけどね」


「美味しいものはある程度時間が経っても美味しいもんだよ。あ、そうだ、見てこれ」


 萌咲の持つスマートフォンの画面にはツインテールの女の子が描かれたイラストが表示されていた。

 細かなアクセサリーまで省略する事なく丁寧に描かれていながらも、鬱陶しさを感じさせない情報量、透き通るような青色の瞳、さらっとした曲線を分断に用いて束ねた髪。

 まるでこちらを見つめているかのような少女のイラストに、思わず碧唯は頬を赤らめその場で固まる。


「碧唯? 」


「すごいっ、可愛いっ」


 視界に広がる美しい光景を前に碧唯の語彙は失われていく。


「でしょ? これ中一の女の子が描いたんだって」


「え」


 そして、語彙と共に言葉を失った。


 三つも年の離れた女の子が自分よりも遥かに優れた絵を描いている。

 それに時分のように狭い世界で優越感を得ている訳ではない、こうして世界に向けて彼女は発信し、見知らぬ誰かを感動させている。


 何故だろうこんなにも綺麗なイラストを見て感動しているというのに物凄く気持ちが悪い。

 悔しさと嬉しさと憧れ、色んな感情が混ざっていくのを感じる。これが嫉妬というやつだろうか。複雑に絡み合った感情の中で碧唯は手を伸ばした。




「苺一個もらうよ」


「あ、それ一番大きいやつ! 」


「対価としては充分だと思うよ」

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