#1:有象無象コンプレックス
花に付く虫
「はぁっ……はぁっはぁっ……」
夕焼けに染まった校舎を油と手汗が染み込んだ筆を片手に、普段の端整な顔立ちからは想像できないくらいに顔を涙で濡らし、少女はただひたすら、がむしゃらに走った。
自分のしてしまった事への後悔、そこから生まれた罪悪感、少女はそれら全てを否定して逃げ出した。
自分がこんな事をする筈がない、やったのは自分じゃない、事故だ、故意なんかじゃない。こんな筈じゃなかった。何度も何度も繰り返し自身に言い聞かせながら少女は冷たい床を蹴り上げ走り続けた。
*
同じ園服を着た子供達が画用紙とクレヨンをぎこちない手つきで握り、各々が思うがままに絵を描いている。
目を輝かせながらクレヨンを奔らせていると、一人の女性が碧唯のもとにやってきて感心したように声をあげる。
「碧唯ちゃん絵上手だね!それお魚さんでしょ? 」
幼稚園教諭の小倉先生が彼女の描く絵を感心したようにまじまじと見つめている。その視線を察知したのか、碧唯は満面の笑みを浮かべた。
「うん! じょうずでしょ? 」
画用紙を小倉先生に嬉々として見せると、それに呼応するように園児達もこぞって小倉先生の元へ集っていった。
*
辺りがすっかり暗くなり帰宅を促す放送が町内に響き渡る頃、碧唯は食卓の席に着き夕飯を今か今かと待っている。
「聞いたよ碧唯、小倉先生に絵褒められたんだって? すごいじゃん! 」
碧唯の母がそう褒めると、鼻をふんすと鳴らし誇らしげに碧唯が答える。
「うん、あおいちゃん上手って! 」
「へぇ、凄いなぁ絵の才能あるかもな? お父さんもお母さんもお絵描き上手くないからうらやましいなぁ」
碧唯の父も感心したように声を上げた。
*
小学校に上がると碧唯は自身の画力に自信を持つようになった。
その証拠に、絵日記を描くたびに先生から花丸をもらい、母の日や父の日に似顔絵を描いてはスーパーやコンビニに飾られていた程だ。
図工の時間では誰よりも早く筆が進み、誰よりも目を惹くような絵を描き、保護者面談の際も母の前で褒められる始末だ。
誰が広めたか、同じクラスの生徒からも注目の的になっており、碧唯はまるで漫画家にでもなったような気分に浸っていた。
「ねぇ、あおいちゃん! ねこ描いてねこ! 」
「うん、いいよー」
「じゃあ次おれドラゴンな! 」
「おれも! 」「おれも! 」
この頃から碧唯の中には絵に対する確固たる自信が芽生え始めていた。
そして、それと同時に優越感をも感じ始めていた。
*
そして小学校では終始漫画家を気取ったまま卒業する事となり、碧唯は中学生になった。
入学式を終え、教室にて担当教師の挨拶が始まる。
小綺麗なリクルートスーツを着た若い女教師のようだ。何処かぎこちない挨拶をし生徒から暖かな拍手で迎い入れられ、さっそく周囲に和やかな雰囲気が漂っていた。
だが、そんな雰囲気の中に馴染むことなく、碧唯は思考の海に沈む。
挨拶も終わり解散となった途端、碧唯は真っ先に入部届を貰い脇目も振らず美術室へと駆けていく。
この美術部に入って自分の好きな事をして、好きな物を描きたい、自分の夢を叶えたい、自分の作品を見てほしい。そんな一途な思いが碧唯を動かす。
希望を胸に美術室前の壁に寄り掛かっていると、突如として正面から髪を一本に結わいた少女が碧唯に声を掛けた。
「ねぇねぇ、アタシと同じ新入生? 」
セーラー服には碧唯が身に着けている物と同じ、新入生の証明である赤いコサージュが飾られていた。セーラー服の白に赤いコサージュがよく映えている。
「あ、うん。もしかして……えっと、なんて呼んだらいいかな? 」
「あたし、
「へぇ、萌咲ちゃんって言うんだ、私は
「うん、よろしく碧唯ちゃん! 」
一人では少々不安だったこともあってか、彼女が声を掛けてくれた事によって碧唯が期待の裏側に抱えていた僅かな不安を和らげることが出来た。ほっと胸を撫でおろしていると美術室の戸が開き、顧問と思わしき人物がどうぞと碧唯たちに声を掛け誘導する。
扉をくぐった先には、活き活きとした表情で絵を描く生徒達の姿があった。
各々が思うがまま絵を描くその光景はまるで幼稚園の時に観た光景そのものだった。
だが、それ以上に煌びやかなものが碧唯の視界に映っていた。
そこにあったのは部員達が描いた繊細な絵の数々だった。不意に碧唯の瞳から一粒の涙が零れる。
「碧唯ちゃん? 」
不思議そうに萌咲が碧唯の顔を覗く。碧唯は無意識に流れた涙に驚きつつも慌てて真新しいセーラー服の袖で涙を拭った。
「あっ、ごめんね! なんていうか、感動しちゃって」
顧問と思われる教師が笑いながら碧唯と萌咲に声を掛ける。
「おやおや、セーラー服初の汚れが涙とは青春だねぇ、このまま入るなら早速あそこの空いてる席に座るといいよ」
顧問が指さす席にたどり着くと、そこには太く黒い縁の眼鏡を掛けた生徒がいた。
「ふむ、主らが新入生だな! よくぞ参った美術部へ! 」
あまりに独特な喋り口調でどう反応を返すべきか困惑していると、そんな事はお構いなしと立て続けに話し出す。
「私がこの部を牛耳る……こほん、この部を導く者、剱持である。よろしく頼むぞ」
変人だと思いつつも内心、接しやすい先輩だと感じ、碧唯の抱えていた緊張の糸は解けていった。
そんな安堵もつかぬ間、顧問が手を叩き注目を集めると、それぞれの席に白いA4サイズのコピー用紙を配りだした。
「それじゃあ隔週恒例のお絵描き大会を始めまーす、制限時間は部活が終わる三十分前なので四十分間ですねー、テーマは自由、始め! 」
唐突な出来事に混乱していると萌咲が部長に問いかける。
「ぶ……部長、これは? 」
「ふむ、これは我らが当主…あ、顧問の事な…当主が言っていた通り、お絵描き大会だ。今回のテーマは自由な故、好きに描いてくれてたまえ。書き終わったら各自後ろにあるクリアファイルに作品を入れるのだ、諸君らは右の縦二列を使うのだ…まぁ、皆も所詮は落書きで描いてるからそう気張らんでも良いだろう」
「はい! 」
「ありがとうございます! 」
そうして碧唯達は思い思いを形にしていき作品をクリアファイルに入れていった。
最後に碧唯が席を立ち、クリアファイルに作品を入れ、席に戻る前に部員ひとりひとりの絵を眺める。
教室に入って最初に飛び込んできたような可愛らしい絵であったり、格好いいと思えるような絵が所狭しと並んでいる。それぞれ描いているものが違うにも関わらず、そのどれもが繊細な線で描かれており、一つの調和が生まれていた。それまるで一輪の花のようで―
しかし、碧唯にはその花の中に一つ”虫”が付着しているように見えた。荒々しく酷く歪んだ線で描かれた絵。その絵がこの調和された空間を穢しているんじゃないかとそう思った。
その絵は他でもない。碧唯の絵だった。
ふと碧唯の中に今まで考えもしなかった考え脳内に湧き始める。
―みんな嘘ついてたんだ。”碧唯ちゃん上手だね”って。でも違う。
「私なんかが絵なんて描いちゃいけなかったんだ……」
嫌悪の矛先は自分の絵に向けられた。
―こんな絵、早く棄てなきゃ。みんなの迷惑になっちゃう。
紙が引き裂かれる音が美術室に響き渡り、散り散りとなったコピー用紙が宙を舞う。
狂気とも思える行為を目の当たりにした美術部員はざわつき始める。
「どうしたの? 」
「なんかあったの? 」
「良かった、あたしのかと思った」
そんな声に背を向ける事なく碧唯はその場に立ち尽くす。自分の事を奇怪なものを見るような眼差しで見る者、軽蔑の眼差しで見る者。
はたまた、自分の作品でない事を知り、安堵の表情を浮かべ他人事のように処理する者。
そんな事、振り返らずとも感じる、吐きそうな程に厭な視線だ。
そんな視線に耐え切れず床に落ちた"虫"の切れ端を拾い集め、この場から逃げ出す準備を整えた。
残るは机に掛けた自身の鞄を取って立ち去るまでだ。授業を除けばここに来ることは二度とないだろう。そう考えていた矢先、先程も聞いた明朗な声が碧唯の元に届く。
「待って! 」
北邑萌咲だ。
「さっきの破いちゃった絵、見せてくれない? 」
希望も夢も、プライドも全てを一瞬にして否定した碧唯には一人の少女の声さえも否定的に捉えた。
彼女も昔の時分のように優越感を得たいのだろう、下を見て安心すればいい。大声で指さして笑えば良い。そんな投げやりな気持ちで破いたコピー用紙を渡すと、萌咲は机に置かれたセロテープに手を伸ばし器用に修復してみせる。
繋ぎ合わせたコピー用紙を見つめ、彼女は口角を上げ、口を開いた。
「……格好いい」
「えっ? 」
意表をつくような言葉に碧唯は思わず目を丸くした。
「どういう事? 」
”どうせ皮肉だろう”と相も変わらず否定的な思考が湧き出る。
「あたしは碧唯ちゃんの絵が好きって事! 」
何の含みもない無垢な表情で北邑萌咲はそう言って碧唯に笑い掛けた。その笑顔を見た碧唯の中で何かが決壊し、酷く困惑した様子でその場に佇んでいると、立て続けに部長も碧唯の絵を覗き込む。何を考えているか皆目見当もつかない表情に、碧唯の感情は喜ぶべきなのか恐怖すべきなのかも解らずただ額から冷や汗を流すだけだった。
「ふんむ、和泉殿は天才肌やも知れんな」
部長までもが賛辞の声をあげた。
―どうしてこんな絵を…あぁ、勧誘の常套句か。
自らを戒めるかのように脳内で否定に否定を重ねる。
しかし、碧唯の表情にはその思考とは裏腹に大粒の涙が零れていた。
「どっ……どうしたの碧唯ちゃん? 」
「何か無礼があっただろうか」
萌咲と部長が口々に疑問を投げ掛けるなか、碧唯は顔を涙で歪めながら訥々と語りだす。
「だって、こんな私の絵をそうやって誉めてくれて、その……」
碧唯の口からは何一つとして言葉が出ない、『こんな絵を誉めてくれてありがとう』そんな単純な礼だと言うのに、未だに世辞なんじゃないかと疑う自分に嫌悪感を抱く。
そして、加速した自己嫌悪で更に涙を溢れさせたかと思えば、暖かな手が碧唯の涙を拭う。顔を上げ視界に映ったのは部長の姿だった。
「和泉殿、今一度あの絵達を見よ」
促されるまま振り向くと、変わらず散る事のない大輪の花が咲いていた。
「彼女らの絵は確かに上手い、しかしだ和泉殿。新しさを彼女らの絵から感じ取る事は出来るだろうか」
部長の言う新しさというのが碧唯には分からない、だが、一つずつ作品を見ていくと各々の絵柄に碧唯は微かな既視感を覚えた。
「どこかで……」
そう呟くとその返事を待っていたかのように部長が喋りだす。
「そう、私も含めて彼女らの絵は模倣から成り立っておる。とはいえそれはパクリなどではなく自分に見合った画風なのだ、自分が描き易い画風を幾度となく試した結果、自然とその画風に基づいて絵を描く。しかしながら和泉殿はその過程を省いた。つまり自分流の画風を、誰にも真似できない唯一の画風を会得したということ……それ即ち”有象無象”ではないのだよ」
「うぞうむぞう? 」
碧唯が首を傾げると部長は止まることなく説明を始める。
「有象無象とは有りふれたくだらない物事の事で―
「ちょっと部長、私らは有象無象じゃないってば! 次変な事後輩に教えたら処すぞ」
聞き耳を立てていたであろう上級生が部長に向けて笑いながら抗議をする。
「分かっておるから命だけはご勘弁を! 別にそなたらを有象無象と言った訳ではない! とまぁ、誤解を招いてしまったな。一先ず、君にはこの言葉を贈ろう。」
「いいか、君は下手なんかじゃない。他とは違う一線を画した独創性を持っている。だから、どうか有象無象にはならず、自分を卑下せず誇れ」
―この人達はどうしてまだ入部もしてない出会って数分で突然泣き出すようなやつに手を差し伸べてくれるんだろう。こんな奴放っておけばいいのに、冷たくすればこんな面倒くさい奴が入部してくることはないのに。それに、アドバイスなんてしなければずっと見下して優越感を得る事だって出来るのに。
そんな疑問と”有象無象”という言葉だけが碧唯の心に深く刻まれた。
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