19 - イスファハール編 告白と決意
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「きみを妻にする」――サイードの言葉は信じられないものだった。
気の迷い? それともからかわれている?
カーミラ姫とイヴォンヌの次にということ……?
国王の前でサイードが語った思いとは……。
作:ケイ・ブルー(Kay Blue)
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「マリー、待て」
談話室を出て少し離れたところで、サイードはマリーに追いついた。
カートを押す彼女の腕を、片方つかんで止める。
「離して。わたし、お茶を取りにいくから」
マリーはうつむきがちに視線を泳がせ、サイードと目を合わさないようにして言った。
「お茶などどうでもいい。きみがいなくては話にならない」
サイードは彼女の両肩に手を置き、自分のほうを向かせた。
「さっきの話は聞いていたな?」
真剣なまなざしでマリーに尋ねる。
「話? 話って……ああ……カーミラ姫のこと?」
マリーは青白い顔で小さく言った。
「違う」
即座に否定された。
「ぼくの父上と、きみのお母さんのあいだになにもなかったという話だ」
サイードの両手にぐっと力がこもった。
マリーは彼を見あげた。
「ええ、それはもちろん……そんなことあるわけ――」
彼女が言い終わらないうちに、サイードの声がかぶさった。
「これでなにも問題はない。きみを妻にする」
「ええっ?」
マリーは目を丸くした。
予想もしなかった言葉に、ぽかんとして口が開く。
「な、なにを急に……」
「急?」
サイードは心外だと言わんばかりに眉間にしわを寄せた。
「急なことなどなにもないだろう? きみはぼくのものだ」
思考が半分停止してうまく返事のできないマリーの手を、サイードは力強く引いた。
あまりに突然のプロポーズ――。
これはプロポーズなの?
マリーはぐいぐいと引っ張られながら、必死で頭を働かせようとしていた。
“妻にする”という言葉に、心が一瞬、歓喜の声をあげたことは否定できない。
彼女はサイードを愛している。
愛する人から妻にすると言われて、うれしくないはずがない。
けれど、そもそも妻になるかどうかなんて彼女の気持ちには関係なかった。
そんなことは考えたこともない。
とにかくサイードのそばにいたい、一緒にいたい。
マリーにとってたしかなのは、それだけだ。
でも、そんな気持ちだけで一緒にいられる相手ではない。
それがわかっているからこそ、マリーの喜びは一瞬にして消えた。
彼にはカーミラ姫がいる。
イヴォンヌもいる。
わたしだけにしてほしいなんて、とても言えない。
かといって、それでかまわないと言えるほど軽い思いでもない。
感情が揺れ動いて思考がまとまらないうちに、マリーはサイードに手を引かれて談話室の国王の前に戻ってきてしまった。
「父上。ぼくはカーミラ姫とは結婚しません」
きっぱりとした宣言が響いた。
マリーは耳にした言葉がすぐには理解できず、目を見開いてサイードを見あげた。
「どういうことだ?」
国王がきつく眉根を寄せて、息子をにらんだ。
「ついこのあいだまで」
サイードは大きく息を吸ってから話し始めた。
「ぼくにとって、結婚などどうでもよいことでした。然るべき時期が来れば、イスファハールの国益になる女性を娶って王家を存続させ、自分は自分なりに外交と事業に打ち込めばそれでいい、それで自分の役目は果たせると思っていました。そのことになんの不満も疑問も感じていなかった。カーミラ姫は昔からよく知っている相手ですし、父上もそうだったと思いますが、なにをせずとも女性は次々と近づいてきますしね。だが……」
マリーをいとおしげに見やる。
「このマリーと出会って、ぼくはそれまでとは変わってしまった。なにがどうとは、自分でもわからない。ただ、それまでの人生では得られなかったものが手に入るような気がして、どうしても手に入れなくてはいられなくなったんです」
いま一度、彼は父親に顔を向けた。
「父上、ぼくはマリーと結婚します」
マリーは息をのんだ。
「待ってちょうだい」
イヴォンヌが勢いよくソファから立ちあがった。
「サイード、いったいなにを言い出すの? おかしくなってしまったの? こんな――こんなつまらない料理人を相手に――どうやってたぶらかされたのよ? 目を覚まして!」
サイードのもとへ大またでつかつかと歩み寄り、彼の腕にそっと手をかけた。
「あなたとわたしは相性ぴったりだったはずよ。お互いのことをよく理解してて――わたしなら第二夫人だって第三夫人だってかまわないの。一人目の奥方は、お国に近い人でなければだめなんでしょう? わたしなら無理も不満も言わないし、パパの会社だって力になってくれるわ。その女は愛人にでもしておけば問題ないじゃない!」
「きみはなにもわかっていないな」
サイードは静かな声で言った。
「これはぼくの問題だ。ぼくの意識がこうである以上、きみの出る幕はない」
「父上」
サイードは国王に顔を向け、まっすぐに父親の目を見据えて言った。
「ぼくには四人もの妻は必要ありません。ましてや愛人などいらない。ぼくはもう、マリーしかほしくないんだ。国の掟に反すると言うのなら、王族の名を剥奪されてもかまいません」
さっきから信じられない言葉ばかりがマリーの耳に飛び込んでくる。
しかし、今度ばかりは黙っていられなくなった。
「だめよ!」
考える前に口が動いていた。
「サイード、なにを言ってるの? 国王さまの前でふざけてはいけないわ。王族をやめるなんて絶対にだめ。あなたはなによりもこの国のことを考えている王子よ――今度のことだって、生命をかけて国を守ろうとして……。わたしはそんなに御大層な人間じゃない。あなたに料理をつくってあげられたら、それで――」
「満足か? ぼくがほかの女性を選び、人生をともにしても平気なのか?」
マリーの顔がさっと青ざめた。
「そ、それは……」
あとの言葉がつづかない。
「そらみろ」
サイードは片方の口角をあげて笑った。
「ぼくもそんなことはしたくない。父を救い出すために出発するとき、生きてもう一度きみに会いたいと、心から願った。たとえ生きて帰ったとしても、それまで自分が思い描いていたような未来を生きることは、もはや想像できないと思った。国のために命を捧げることはいとわないが、きみのいない人生を強要される地獄には、男として、人間として、耐えられない。きみのつくった料理を、ぼくは王子ではなく、きみの家族として一緒に食べたいんだ」
「サイード……」
マリーの瞳に涙があふれ、唇が震えた。
「愛している、マリー。ぼくはようやくそのことに気づいた。きみを専属料理人にしたのも、強引にこの国に連れてきたのも、すべてきみを愛していたからだったんだ。そんなことにも気づかなかったとは、まぬけな男だ、ぼくは」
ファイサルが両の眉をくいっとあげて、つぶやいた。
「おれの出る幕はなかったな。自分で気づいてくれたのなら世話はない」
マリーは両手の指先で唇を押さえ、こらえてもあふれる涙をとめどなく流していた。
サイードはイヴォンヌに顔を向けた。
「そういうことだ。きみを妻に迎えることはない。それから、先ほど知らせがあったからいちおう伝えておくが、きみはパリ市警から話を聞かれることになる。マリーを襲ったあの青年を焚きつけたのは、きみだったそうだな」
「な、なんですって?」
イヴォンヌが青くなった。
「おかしなこと言わないで。なにを根拠にそんな――」
「彼が、警察で、そう話したそうだ」
サイードはきっぱりと言いながら、厳しい目でイヴォンヌを見据えた。
「彼は以前からマリーに思いを寄せていたが、気が弱くてなにも行動を起こせずにいた。しかしきみにそそのかされ、どうにかしたいという気持ちになってしまった。マリーに自分を見てほしい一心で、最初は害があるとは言えないほどの小さな行動を取っていたが、それがエスカレートし、とうとうビストロに火をつけた。そんな愚かなことをしたうえ、今度はそのせいでマリーにしばらく会えなくなるとわかって、彼女自身を襲ってしまったんだ。まあ、きみのしたことなどたいした罪にはならないかもしれない。なにかあっても、きみは家の力ですべてなかったことにするのだろう。しかし、そのように卑劣な人間をわが一族に迎え入れるつもりはない」
イヴォンヌは口元を震わせ、無言で部屋を飛びだした。
すぐにでも荷物をまとめて王宮を出ていくだろう。
サイードはピエールの前に進み出て、はっきりと言った。
「お聞きのとおり、ぼくはマリーを本気で愛している。ラクダでも羊でも馬でも、お望みのままにあなたに贈ろう。どうか結婚を許可していただきたい」
あっけにとられていたピエールは、はっとしてわれに返った。
「い、いや……ラクダなんかいらない。おれは娘になにもしてやれなかった、ひどい父親だ。マリーが幸せになるんなら、なにも言うことはない。どうか、よろしく頼む」
サイードはうなずき、ピエールからマリーへ、そして国王へと視線を移した。
「父上、いくら反対なさろうと、ぼくの覚悟は決まっています。ぼくの妻はマリーしかいない」
アブドゥル国王はしばらく沈黙していたが、ひとつ息をつくと、重々しく口を開いた。
「話はわかった。これまでのらりくらりと結婚から逃げて自由を謳歌していたおまえが、とんでもない変わりようだ。そこまで言うのなら、おまえの好きなようにすればよい。いくらわたしでも、息子の幸せを考えずに国の掟で縛りつけようという気はない。だが、ひとつ言っておくぞ。おまえはどう思っているのか知らないが、わたしはおまえの母アレクシアを心から愛していた。わたしなりに、ということにはなるかもしれないが。そして、もうひとつ」
そこで国王はマリーに目を移した。
「おまえのわがままを許そうという気になったのは、相手がこのマリーだからだ。おまえがそこまで惚れ込んだのも無理はない。彼女の目を見れば、彼女がどういう人間なのかわかる」
そう言うと、国王はマリーにウインクして高らかに笑った。
サイードはマリーに正面から向き合った。
「このとおりだ、マリー。ぼくの妻となってほしい。生涯、きみを――きみだけを愛すると誓う」
マリーは引き寄せられるようにサイードの胸に飛び込んでいた。
「ええ、ええ! なるわ、サイード。わたしもあなたを愛しているの!」
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