17 - イスファハール編 自覚

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マリーがサイードとの住む世界の違いを思い知らされるなか、彼は国王救出のため危険地域へと向かう。

そうなって初めて、マリーは自分の気持ちに気づく。

気持ちを自覚した彼女の決意とは……。

作:ケイ・ブルー(Kay Blue)

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 翌朝、五時ごろ目が覚めたときには、すでにサイードはいなかった。

 彼の部屋から人の気配がまったくしないし、コックコートに着替えて厨房に向かうときに部屋をノックしても返事はなかった。

 厨房に行くと、ジャマルからサイードはもう出かけたと聞かされた。

 コーヒーだけ飲んでいったという。

 昨日からろくに食べていないようで、体がもつのか心配だ。

 とにかくマリーとしては、サイードがいつでも食事できるように準備をしておくだけだった。

 イヴォンヌと顔を合わせるのは気が重くて、朝食の支度と片付けが終わってもマリーは厨房でぐずぐずしていた。

 給仕には出ず、自分の朝食も厨房でとった。

 けれど、いつまでも父を放っておくわけにもいかない。

 ピエールの部屋に行ってみたが、そこに父の姿はなかった。

 フランス語の通じる使用人を見つけて尋ねると、ピエールは客間にいるというのでそちらに向かった。


 途中、渡り廊下を通っているとき、中庭から女性の声がした。

 イヴォンヌが携帯電話でだれかとしゃべっているようだ。

「わかってるわ、ここまで来たんだからうまくやるわよ。ママからもパパに言っておいて。結婚さえしてしまえばこっちのものよ。一生遊んで暮らせるわ。しかも彼ならかっこいいし。だいじょうぶ、あたしの体に参らない男なんていないから」

 思わず引き返して壁の後ろに隠れてしまったが、マリーの心臓は破裂しそうに脈打っていた。

 やっぱり……あのふたりは……。

 イヴォンヌのように魅力的な女性なら、あんなに自信たっぷりでいられるの?

 ほかに妻がいても気にしないでいられるの? 

 イヴォンヌが通話を終え、ハイヒールの音を響かせて屋内に入っていくのが見えた。

 気づかれないよう、少し時間を置かなくては。

 壁にもたれて時間をやり過ごすあいだ、マリーの脳内には、抱き合うサイードとイヴォンヌの姿が浮かんできてどうしようもなかった。

 褐色のたくましい手脚が、小麦色の長い手脚と絡み合う――。

 マリーは何度も頭を振り、映像を追いやった。

 こんなことを考えていてはだめ。

 あのふたりのことは、わたしには関係ないじゃない。

 少し落ち着いてから客間に行くと、父親とイヴォンヌがテレビを見ていた。

 国王についてはまだなんの報道もされていない。

 異変が表沙汰にならないうちに解決できればいいが、隠しておける時間はそれほど長くないだろう。

 なにより、長引けば国王の生命が危ない。

 マリーは背筋が寒くなるのを感じた。

 こんなに身近なところで、生死にかかわる事件が起きているなんて……。

 そのとき玄関のほうで人の動きがあった。

 三人ともあわてて廊下に出ると、サイードが大またでこちらにやってくるのが見えた。

 彼の後ろからハミルが小走りに付き従っている。

「サイード!」

 イヴォンヌが真っ先に声をあげ、取り乱したように駆け寄っていった。

「ねえ、だいじょうぶなの? どうなってるの?」

 サイードは厳しい顔つきのまま、身ぶりで皆を客間に戻らせた。

 なかほどまで進んだところでひとつ息をつき、口を開く。

「これからぼくは、国境付近にある過激派グループの拠点まで行ってくる」

 一同を見ながら宣言した。

「ぼくの個人的なコネクションをたどって、やつらと交渉できる可能性のある人物が見つかった。いまの段階では、次期国王であるファイサルが国を背負って事に当たるわけにはいかない。テロリストたちの要求をのむようなことがあれば国の威信にかかわるし、万が一にもファイサルの身になにかあっては――」

「やめて!」

 無意識にマリーの口から言葉が飛びだしていた。

「行かないで! そんな危ないところへ……あなたがそんな……」

 彼のほうに足が一歩出たが、それ以上は踏みとどまった。

「いや、これはぼくの役目だ。なんとしても父を助け出す。だいじょうぶだ、ぼくは兵士としての訓練も受けている」

 サイードは覚悟を決めた表情でうなずき、小さな笑みさえ見せた。

 マリーにはそれ以上なにも言えなかった。

 頭のなかでは、行かせたくない、なんとかして彼を引き止めたいという思いが猛烈に渦巻いている。

 けれど、そんなことを言う場合でも立場でもないということはわかっていた。

「では、準備を」

 サイードはきびすを返してハミルに言い、彼を従えて客間を出ていった。

 あとに残された三人は言葉もなく、イヴォンヌはまたソファに歩いていって腰をおろした。

 ピエールがマリーのそばに来た。

「いまはとにかく待つしかない。おれたちにはどうしようもないことだ」

 マリーは力なくうなずき、小さくため息をついた。

「心配だけれど、そうするしかないわね。わたしは仕事に戻るわ」

 父親はイヴォンヌのほうをちらりと見てから、いたわるようなまなざしを娘に向けた。

「おまえと……王子のことはとやかく言いたくないが、深入りはしないほうがいい。もうこれ以上――」

「いやだわ、お父さん、深入りだなんて――そういうことはなんにもないの。心配しないで、ほんとうに」

 早口で目線も定まらないマリーに、ピエールはうなずいただけでなにも言わなかった。


 厨房に戻りながら、マリーは波立ってどうしようもない心を懸命に抑えようとしていた。

 自分の立場くらいわかっている。

 サイードと一度や二度肌を合わせることがあったからって、なにも勘違いはしない。

 これから先、なにかがあるとも思っていない。

 いまはもう、彼が無事に国王とともにここへ戻ってきてくれたら、それでいい。

 そう――サイードが命の危険にさらされる場所へ向かうことになって、はっきりと思い知った。

 わたしは、サイードを愛している。

 好きになってもしかたのない人を、愛してしまった。

 気持ちを自覚したときには、もう終わっていたなんて……。

 ううん、この恋は始まってすらいなかったのかもしれない。

 この気持ちをなかったことにはできないけれど、せめてイスファハールにいるあいだは彼のために料理をしたい。

 だから、どうか無事に戻ってきて。

 最後にもう一度だけ、彼にわたしの料理を食べてもらったら、パリへ帰ろう。

 いつの間にか、涙が頬を伝っていた。

 あわてて手の甲でぬぐうと、マリーは何度かまばたきをしてから厨房に入っていった。


 その日からすでに二日。

 サイードからの連絡はとぎれていた。

 時間が経つのがひどくのろく感じられる。

 少なくとも日に一度はファイサルが状況を知らせてくれるが、前々日の昼前にサイードが国境付近へ発ってから、状況に変化があったのかどうかなにもわからない状態だという。

 もちろんファイサルも情報収集には全力を尽くし、国の重鎮たちと協議も重ねている。

 しかしこのまま状況が変わらなければ、国民に公表せざるを得なくなるだろう。

 さすがになにかおかしいと、マスコミも勘づきはじめているようだ。

 国王と第二王子の身を案じて王宮内には重苦しい空気が流れていたが、人間は生きていればおなかがすく。

 王宮内の食事をつくらなければならない厨房では、ふだんと変わらぬ仕事があった。

 マリーはできるだけ悪いことは考えないようにして、とにかく食事づくりに打ち込んだ。

 手や体を動かしているほうが気がまぎれる。

 昨日ジャマルから、カーミラ姫の来訪が延期になったと聞かされた。

 このような事態では当然のことなのだろうが、サイードと近しい関係にある姫君と会わずにすむと思うと、ほっとして、それでまた自己嫌悪に陥った。

 ふと、サイードの母親のことを考えた。

 十八歳という若さで、倍以上も年齢の違う異国の王に嫁いだ彼女は、いったいどんな気持ちだったのだろう。

 貴族の娘でありながら第三夫人という地位に甘んじ、この王宮で暮らすというのは……?

 毎日、どんなことを考えていたの?

 そして、そんな彼女のそばにマリーの母親もいたなんて。

 ふたりが生きていてくれたらよかったのに。

 女性として、マリーはふたりにいろいろ話を聞いてみたかった。


 午後に入ったころ、にわかに王宮がざわつき始めた。

 あちらこちらで使用人たちが集まり、声をひそめて言葉を交わしている。

「ファイサルさまの周囲が急にあわただしくなったようだ」

「なにか動きがあったのか?」

「どこかから連絡でも――?」

「まさか、国王さまやサイードさまの身になにか――」

「しっ、めったなことを言うもんじゃない!」

 王宮内の空気の変化は、厨房にいるマリーにも敏感に感じられた。

 言葉がわからないのでもどかしく、フランス語のできるジャマルに聞いてみた。

 しかし使用人たちの話は憶測ばかりで、ジャマルにもたしかなことはわからないということだった。

 さらに1時間ほど経ったとき、突然、ハミルが大広間を開ける準備をし始めた。

 マリーがこの王宮に来てから、まだ一度も使われるのを見たことがない最大級の部屋だ。

 時を同じくして、使用人たちに大至急、大広間に集合するようにとの指示が出された。

 使用人が続々と大広間に集まり始め、もちろんマリーもそちらに向かった。

 あっという間に大広間が人で埋め尽くされた。

 使用人がひしめき、緊迫した空気が満ちている。

 皆、不安げな顔で言葉を交わしたり、顔を見合わせたりしていた。

 ほどなくして、真剣な面持ちのファイサルが足早に入ってきた。

 皆の視線が第一王子に集中した。

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