16 - イスファハール編 急変

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突然飛び込んできた、イスファハール国王の危機の知らせ。

マリーにできることはなく、とにかく気丈に振る舞おうとする。

しかしイヴォンヌの言動に、否応なく不安をかき立てられて……。

作:ケイ・ブルー(Kay Blue)

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「なんだって?」

 瞬時に部屋の空気が凍りついた。

 サイードはファイサルに駆け寄り、ただならぬ表情で兄と額を突き合わせて抑えた声で話を始めた。

 しばらくのち、ファイサルは深刻な顔でうなずいて部屋を出ていった。

 マリーたちのほうに戻ってきたサイードは、眉間にしわを寄せて重々しい声で言った。

「父が国境付近の過激派グループに襲われたらしい」

 一同が息をのむ。

「ファイサルはこれから、ただちに国の重鎮たちを秘密裏に招集する。ぼくもそれに加わって、かならず父を救い出す。絶対に彼らの思いどおりにはさせない」

 彼の瞳は揺らがなかった。

「でも、どうするの? お父さまはご無事なの? どうやって救い出すの? わたしたちはどうしたら……」

 マリーはうろたえた。

「きみたちは王宮から出ずに待機してくれ。武装グループが市街地まで攻め込んでくるようなことにはならないと思うが、なんにでも絶対はない。なにより身の安全を考えてほしい」

「こわいわ、サイード! なんておそろしい!」

 イヴォンヌが大げさにおびえた様子でサイードのもとへ行き、抱きついた。

 サイードは彼女の両肩をつかんで少し距離を取り、やさしく言った。

「だいじょうぶだ、ここにいればなにも心配はない」

 そんなふたりを見て、マリーの心はざわついた。

 イヴォンヌがこわがるのは当然だ。

 サイードが彼女を落ち着かせるのも当たり前のこと。

 テロリスト襲撃のニュースを聞かされて、落ち着いていられる者などいない。

 頭ではわかっているのに、ふたりの親密な様子を目にすると、胸が苦しくなるのは止められなかった。

 サイードは一同を見まわして言った。

「これからぼくは情報収集にあたらなければならない。すまないが、これで失礼する。きみたちはくれぐれも王宮から出ないように。用事があれば、なんでもハミルに言いつけてくれ」

 最後にマリーを見ると、きびすを返して出ていった。

 あとに残された一同は、どうしたものかと顔を見合わせていたが、イヴォンヌがどさりとソファに腰をおろした。

「とんでもないことになったわね」

 長い脚を組み、背もたれに体をあずける。

 そこへハミルが進み出た。

「すぐにお部屋をご用意いたします。のちほどご案内しますので、それまでこちらでお待ちください」

 イヴォンヌとピエールのそれぞれに軽く会釈して出ていった。

 マリーは父親をうながしてソファに座った。

 思いがけず父親と話をする時間ができ、ずっと聞くことができなかった母親のことを尋ねた。

 ピエールの手に手を重ねる。

「ねえ、お父さん。お母さんの話をほとんどしてくれなかったのは、お母さんを恨んでいたからなの?」

 しばらく沈黙したピエールは、ゆっくりと話し始めた。

「いや、恨んでたわけじゃない。おれは母さんを愛してた。美人で、男勝りのがんばり屋で、面倒見がよくて――すぐに惚れちまった。おれのほうから猛アタックして、やっと結婚してもらったようなもんなんだ」

 ピエールはつかの間マリーと目を合わせたが、また目をそらして話をつづけた。

「当時はおれも若くて、せっかく一緒になったのにフランをうまく支えてやれなかった。焼きもちばかり焼いて、意固地になって。もっとおれが度量の大きい男だったら、違う結果になってたかもしれない」

「ううん、だれかが悪かったわけじゃないわ。お母さんもきっといろいろつらかったと思うの。一流の料理人の世界でやっていくのは想像以上に大変だっただろうし、お父さんを大事にしたくても、サイードのお母さまにもついていてあげたかったんだろうし……人を思いやるのはむずかしいことだわ。離れていれば、なおさら」

 マリーは父親が握っているペンダントにそっとふれた。

「でも、お母さんはちゃんとお父さんを愛していた。“いちばん大切なもの”って、サイードのお母さまも書いてらしたんだもの」

 思わず目頭が熱くなる。

 ピエールも目の縁を赤くしていた。

「悪かった、マリー。おれは不信感や嫉妬に囚われて、赤ん坊のおまえとも向き合うことができなかった。おまえを施設に入れるしかなかった自分の弱さがいやで、酒に逃げて。おまえと暮らすようになってからも、負い目を感じれば感じるほど、おまえにきつく当たっちまった」

「でも、お父さんはわたしを引き取って一緒に暮らしてくれたじゃない。放ったままにはしておかなかった。たしかに、あまり仲良くできなくてさびしいと思ったこともあったけど……」

 マリーは父親の手をぎゅっと握った。

「それに、あのお母さんのレシピノート! あのノートは宝物なの。お父さんはあれを処分せずに、わたしに渡してくれたでしょう? あれのおかげでいまのわたしがあるのよ。ほんとうにありがとう」

「マリー……」

 とうとうピエールの目から涙がこぼれた。

「ねえ」

 すぐそばで、イヴォンヌの冷めた声が響いた。

「親子の誤解はとけたのかしら? それはよかったじゃないの。これでもう、ふたりでフランスに帰れるわよね?」

 困惑顔のマリーに、イヴォンヌはたたみかけた。

「前にも言ったでしょ? サイードがあんたなんかを本気で相手にするわけがないって。この国に来て、もっと身にしみてわかったはずよ」

「あ、あなたにそんなことを言われる覚えは……」

 さすがにむっとして、マリーは言い返そうとした。

「あら、ないって言うの? せっかく忠告してあげてるのに。サイードは王族なのよ。本来なら、あんたたちのような庶民が気軽に話のできるような人じゃないの。身のほどをわきまえなさい。あたしみたいな資産家の娘でさえ、第三夫人や第四夫人でもかまわないって覚悟してるっていうのに」

「えっ……」

 思いも寄らないことを言われてマリーは面食らった。

 第三夫人、第四夫人……。

 たしかにそんな言葉を聞いたような覚えはある。

 でも、自分にあてはめて考えたことはなかった。

 どこか遠いところの話のように感じていた。

「あら、なにも考えてなかったみたいね。彼、ほんとにただの遊びだったのね。いいえ、遊びですらなかったのかも。だって、料理人なんて召使いだものねえ? 一度でもお相手してもらえたら幸せだわ。そういう子、いっぱいいたわよ? たまに声をかけてもらうだけでもいいからって」

 マリーには返す言葉がなかった。

 父親の前でこんな話をされているのも恥ずかしかったが、とにかく言い返せるようなことがなにもない。

 ただ首筋が熱くなるのを感じながら、イヴォンヌを見ていることしかできなかった。

 ピエールも口の出しようがない。

 そこへハミルが入ってきた。

「お部屋が用意できましたので、ご案内いたします」

 助かった。

 マリーはそれを機に立ちあがった。

「わたしは食事の用意をしにいきます。そろそろ夕方だもの。サイードがいつ食事をとれるかはわからないけれど……」

「せいぜいがんばってちょうだい。お食事、期待してるわ。すご腕のコックさん」

 イヴォンヌが真っ赤に塗った指先を振って言った。


 結局、その夜サイードが食事をとることはなかった。

 マリーは彼専用の夕食をこしらえると同時に、ジャマルたちを手伝ってほかの王族に出す食事も用意し、父やイヴォンヌにも食事を出した。

 国王が身柄を拘束されたニュースはたちまち王宮内に広がったが、箝口令が敷かれていてまだ公にはなっていない。

 一般市民の動揺と混乱を避けるため、秘密裏のうちに早急に解決する方法を模索しているようで、王宮内には重く落ち着かない空気が漂っていた。

 片付けを終えて部屋に戻ってきたマリーは、シャワーを浴びたあとベッドに腰かけて休んでいるうち、いつしか眠っていた。

 バスタオルを巻きつけたままという格好でふと目を覚ますと、隣の部屋から人の動く物音と気配がした。

 サイードが戻ってきたのだろうか。

 時計を見ると、夜中の一時半を過ぎていた。

 けれど少しでも話が聞けたらと思い、着替えようと衣装だんすまで行った。

 しかしドレスに手をかけたとき、廊下で人の気配がした。

 隣の部屋にノックがあったのがわかって、思わず廊下に面したドアまで行って耳をそばだてる。

「……話があるの……」

 イヴォンヌの声だ。

「……」

 サイードがなにか答えている。

「……いままで待って……」

 マリーは息を詰めて耳をすませたが、よく聞き取れない。

 ぼそぼそと話し声がつづいたあと、ドアがかちりと閉まる音がした。

 人が立ち去る足音はなく、隣の部屋から複数の人の気配がする。

 まさか、イヴォンヌは彼の部屋に入ったの?

 頭から血の気が引くのがわかって、マリーはベッドまでふらふらと戻った。

 ひどいショックを受けていた。

 おもむろに上掛けを大きくめくり、なかにもぐって頭からかぶった。

 なにも聞きたくない。

 なにが起きているかなんて、知りたくない。

 自分の物音が隣に聞こえないように、そして隣の音も聞こえないように、身動きもせず必死で耳をふさいだ。

 自然と涙がこぼれる。

 苦しい。

 しゃくりあげそうになるのをこらえるので精いっぱいだった。

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