13 - イスファハール編 バラのジャグジーと石窯パン

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サイードと深い関係にあるという姫君の話に動揺するマリー。

彼との距離を測りかねながら懸命に専属料理人の仕事に打ち込むが、彼とはどうにもぎくしゃくして……?

作:ケイ・ブルー(Kay Blue)

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 急に疲れを感じながら、マリーは後片付けを終えて部屋に戻った。

 厨房で動きまわったから汗だくだ。

 部屋に足を踏み入れたとたん、バスルームのほうから芳しい香りがした。

 不思議に思って覗いてみると、ぜいたくにもジャグジー付きの大きなバスタブにお湯が沸き、しかも色とりどりのバラの花びらまで浮かんでいた。

 お風呂の誘惑には抗えず、すぐさまコックコートを脱いでたっぷりとしたお湯に浸かった。

 たちまち筋肉がほぐれ、体の芯まであたたかさが沁みわたる。

 香油でも入っているのか、お湯がとろりとしてほんとうに気持ちがいい。

 眠ってしまいそうになってあわてて体を起こし、名残惜しいながらも十五分ほどで切り上げてお湯から出た。

 バスタオルもふかふかで大きく、その肌ざわりはため息が出るほどだった。

 体に巻きつけ、洗った髪もタオルでひとまとめにしたところで、ノックが聞こえた。

「はい?」

 答えながらドアに急ぎ、アイーシャだろうかと少しだけドアを開ける。

 そこにいたのはサイードだった。

 マリーの心臓がどくんと跳ねた。

「少しいいか?」

 彼はそう言いつつもすでに一歩足を踏み入れ、マリーはとっさにさがって彼を入れてしまった。

 すぐに自分の格好に気がつき、内心うろたえる。

 けれどサイードのほうはまったく平然としているように見えた。

 下手に気にするそぶりを見せればかえって気まずいと思い、マリーはできるだけ自然にふるまおうとした。

「今夜の食事はすばらしかった」

 サイードが口を開いた。

「ファイサルも感動していた。この国で最高の料理が食べられたと」

「そんな。ほめすぎだわ」

 思わずマリーは微笑んだ。

「でも、うれしいわ、満足してもらえて。ここの厨房はなんでもそろっていてすばらしいし、見たことのないような道具もあって勉強になるし、食材も……あっ、そうだわ、明日はぜひ市場に行きたいの。この国の食材を見たくて――」

 サイードはふっと笑った。

「まったく、きみはほんとうにいつでも料理なんだな」

 眉尻をさげ、おどけた顔をしてみせる。

 しかし急に表情が変わった。

「こうしてコックコートを脱いだあとでも……」

 瞳がきらりと光り、手を伸ばしてマリーのほつれ髪にふれる。

 マリーがはっとして手を上げ、サイードの手に指先が当たった。

 サイードの手が髪の毛から離れ、人さし指の先が彼女の首筋をかすめた。

 さらに鎖骨から肩へとなぞっていく。

 彼の指先がふれたところが燃えるように熱い。

 サイードの手がマリーのむきだしの肩をつかみ、力強く引き寄せた。

 そのまま彼の唇がおりてきて、まだ水気の残る彼女の唇に吸いつくように重なった。

 一瞬でマリーの体に火がつく。

 お風呂であたたまった体が、いっそう熱をもって沸きたった。

 しかしそのとき、午後に厨房で覗き見た、使用人の娘の下卑たしぐさが脳裏をよぎった。

 スカートをつまみあげて脚を見せ、しなをつくるようなしぐさ。

 そしてカーミラ姫という名前。

“昔からサイードさまにご執心なんだよ……”

 マリーはサイードの背中にまわしかけた手を彼の胸に置き、ぐっと押しやった。

「やめて」

 目をそらして顔をそむけた。

「こんなこと――王宮のみんながどんなふうに思うか――」

「なにを気にする? きみが魅力的であることに変わりはない。きみが仕事をすることになにも支障はないだろう?」

「支障はあるわ! わたしはここへ仕事をしに――料理をしに来ているの。は仕事に入らないわ!」

 マリーは背を向けた。

「お願いだから、わたしに仕事をさせて」

 なにかが噛み合わない。

 サイードは、なぜマリーが自分の腕に溶け込んでこないのか理解できないというような顔をしていた。

 だが、マリーに拒まれたことははっきり伝わったようだ。

「わかった。きみがいやなら無理にとは言わない。では明日は、朝のうちに市場へ案内しよう。おやすみ」

 サイードが向きを変えて部屋を出ていく気配がした。

 バタンとドアの閉まる音がして、マリーはようやく息をついた。


 すぐ隣の部屋に入ったサイードは、部屋の中央にある巨大なソファにどさりと腰をおろした。

 脚を組み、ひじ掛けに片腕をあずけて手にあごを乗せ、眉をひそめていらだちもあらわに考える。

 マリーの反応はいったいどうしたことだ。

 帰国を歓迎してくれた兄とのおしゃべりもそこそこに切り上げ、少し前にマリーの部屋を覗いた。

 そのとき彼女はまだ戻っていなかった。

 アイーシャに聞くと、厨房で片付けをしているという。

 しかたなくアイーシャにジャグジーを沸かすように命じ、さらにバラの花を浮かべて香油も入れるよう指示しておいた。

 そうして自室に引き返して落ち着かずに待っていたら、疲れた足音が隣の部屋に入ったのが聞こえた。

 ほんとうは一緒にジャグジーに浸かって、湯のなかでマリーをかわいがりたかったのに……。

 しかしまずは疲れを取ってもらおうとがまんしていたのだ。

 このぼくが、だ!

 これほど女性に気を遣ったことがあっただろうか。

 しばらく待って、それでも待ちきれずに来てみたら……。

 タオルを巻いただけの彼女がいた。

 まだ肌から湯気をたてて……。

 肌からバラの香りを立ちのぼらせて……。

 そんな姿で料理の話など始めるから、すぐにでも荒々しく抱きしめたかったのを必死でこらえ、髪の毛をつまんだ。

 が、やはり肌にもふれずにはいられなかった。

 あの誘うような唇は、たしかにぼくの唇に溶け込んできたはずだ。

 なのに、どうして彼女は急にぼくを拒んだ?

 わけがわからない。

 使用人たちがどうのと言っていたが、なにを気にしているのか。

 これほど自制できずに女性を求めたことは、かつてなかった。

 そして、これほど自分の思いどおりにならないことも。

 体の熱をもてあましたサイードは、冷たいシャワーを浴びて早々に眠った。


 翌朝、マリーは五時前から厨房にいた。

 パン生地をこねるためだ。

 発酵に時間がかかるので早くから作業をはじめる必要があったが、朝食を出すのは九時ごろだと言われたからじゅうぶん間に合うだろう。 

 昨夜はあれからなかなか寝つけず、かなりの睡眠不足だった。

 パンの焼けるいいにおいが漂いはじめてしばらくすると、サイードが厨房に顔を出した。

 けだるげな表情でドアに手をかけ、早朝から活気みなぎる場所に視線をめぐらせる。

「サイードさま!」

 ラナが気づいて彼に駆け寄り、若い使用人の娘たちもそわそわしてそちらを見やる。

「ラナ、気遣いは無用だ」

 サイードはつかつかとなかに入り、マリーのいる石窯のほうへ行った。

「今朝こそは、きみと一緒に食べられると思っていたんだが」

「わたしはあなたの食事をつくるのが仕事なのよ。一緒に食べられるわけがないでしょう? さあ、もうすぐ用意ができるから、食堂に行って待っててください」

 なんとなく他人行儀なかたい口調でマリーは言った。

「いや。ここでいい」

「えっ?」

 思わずマリーの動きが止まった。

「ここでいいって……」

「すぐそこで食べられるじゃないか」

 彼があごをしゃくった先には、簡易テーブルと椅子があった。

 使用人たちが簡単に食事をしたり、休憩を取ったりするための場所だ。

 サイードはそこに行って自分で椅子を引き、腰をおろした。

 ラナが大声でなにか言いながら飛んでいった。

 とんでもございませんとかなんとか言っているのだろう。

 しかしサイードは落ち着いた様子でラナになにか言い、ラナを黙らせた。

「いけない!」

 マリーが叫んで石窯に飛びついた。

 少し気をそらしているあいだに、カンパーニュのてっぺんが焦げはじめている。

 取り出し用の鉄のヘラをあわててつかみ、石窯に差し入れた。

 が、焦っていたのがまずかった。

「熱っ!」

 焼けた石窯に手が当たり、ヘラを取り落としてしまった。

 急いで拾おうとする。

 しかしそのときにはすでにサイードに手をつかまれていた。

 すぐさま洗い場に連れていかれ、蛇口から盛大に冷水をかけられる。

「待って! パンが……」

 マリーは体をひねって石窯に戻ろうとした。

「そんなことはどうでもいい!」

 サイードの手はまったく離れようとしなかった。

 パンは料理人がすぐに取りだしてくれ、少し焦げただけですんだ。

 それでもマリーは心配そうに、湯気を立てるパンのほうを見つめている。

「あの、もうだいじょうぶだから。ごめんなさい、こんな大騒ぎをして。早くお食事にしましょう」

「いいから、もっと冷やすんだ」

 有無を言わさぬサイードの声。

 気がつくと、周囲の目はふたりに集中し、すっかり注目の的になっていた。

「ほんとうにだいじょうぶよ!」

 マリーは手をねじるようにほどき、急いで蛇口を閉めた。

 手をふきながら、できるだけ冷静な声を出す。

「すみませんでした。もうなんともありませんから作業に戻ってください」

 使用人たちに言い、サイードに向き直る。

「さあ、あなたも食堂に……」

「ここでいいと言っている」

 サイードは湯気を立てている少々焦げたパンをつかみ、手近にあった皿に乗せて、先ほどのテーブルに戻った。

「飲み物を出してくれ」

 そのひと言で、ラナがジュースを始めコーヒーと紅茶とスープまで次々に用意しはじめた。

 マリーもこうなったらしかたがないと気を取り直し、卵を焼きはじめる。

 ほかの料理人や使用人も動き出し、王宮に住むほかの王族たちの朝食の準備をつづけた。

 やけどがずきずきと痛むのをこらえ、マリーはオムレツを焼きあげて野菜たっぷりのソースをかけた。

 サイードのところに運んでテーブルに置くと、彼がマリーの手をやさしく取った。

「赤くなっている」

 彼女の小さな手を返し、やけどしたところを見る。

「た、たいしたことはないわ」

 大きな彼の手のひらのあたたかさを感じ、手の痛みが薄れていく。

「座って」

 サイードがマリーの手を軽く引き、座れとうながした。

 いつの間にか、コーヒーがカップにふたつ注がれていた。

「いえ……」

 マリーは躊躇したが、さらに強く手を引かれてしかたなく腰をおろした。

 厨房をうかがうと、ほかの使用人たちは王族の朝食の配膳に向かったのか、全員が出払っていた。

 サイードは少しだけ焦げたカンパーニュをちぎって口に放りこんだ。

「うまい」と言って口の端をあげる。

 マリーは心臓が跳ねるのを感じ、彼の笑みと青い瞳に見入ってしまった。

「こ、焦がさなければもっとおいしかったはずなんだけど……」

「これくらいどうってことはない。焼きたてにまさるものはないよ」

 サイードは砂糖をたっぷり入れたコーヒーをひと口飲んだ。

「昔、こうやって厨房で食べさせてもらったことがあるんだ。朝食だったか、おやつだったか……子どものころの話だが、楽しかった。あのころを思いだして、なつかしい」

 かわいらしい男の子が無邪気にここで食事をしている風景が頭に浮かんで、マリーはあたたかな気持ちになった。

「あなたにもそんなときがあったのね」

「もちろんだ。まあ、教育上、少し大きくなればほとんど毎食きっちりと食堂で給仕されたけどね。だから、かなり小さなころの記憶だと思う。これからもずっと、こんなふうに食べられるといいんだが……」

 サイードがやさしい目でマリーを見つめる。

 マリーはどきりとして、どんな言葉を返せばいいのかわからなくなった。

 なにも言えずにいると、サイードは視線をはずしてふっと笑った。

「ほら、きみも食べたまえ。市場に行くんだろう?」

 マリーはいまさら抵抗する気持ちも失せ、同じテーブルで朝食をとった。

 しばらくすると使用人たちが戻ってくる気配がして、サイードはさっと立ちあがった。

「ぼくはもう退散しよう。では、あとで」

 彼はすばやく厨房を出ていき、マリーは戻ってきたラナたちと片付けをすませた。

 昨夜のことでサイードと気まずくなるのではと心配していたけれど、気づけばそんなことは忘れて自然に会話ができた。

 よかった。

 このぶんなら、これから彼とふたりで市場に出かけてもだいじょうぶだろう。

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