12 - イスファハール編 異国の厨房
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プロの仕事をまっとうする決心をしたマリーは、王宮の厨房で大奮闘。
しかし、サイードの異母兄や王宮付きの料理人の発した言葉で、新たな動揺に心を揺さぶられて……。
作:ケイ・ブルー(Kay Blue)
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「失礼します!」
迷いのない決然とした声で挨拶しながら、マリーは厨房の扉をくぐった。
なかにいた料理人らしき男性ふたりと、中年の女性、若い女性数人の視線が一斉にこちらを向いた。
「今日から二週間ほどお世話になります。サイードの専属料理人、マリー‐ルイーズ・フェリエです。よろしくお願いします」
通じるかどうかもわからなかったが、とにかくフランス語ではきはきとしゃべった。
料理人の男性ふたりが顔を見合わせるなか、中年の女性がマリーに近づいた。
マリーのコックコートを指差して、なにごとかをしゃべっている。
「わたしはここへサイードのために料理をしにきたんです。この厨房で料理をさせてください」
マリーは厨房全体を示すように両腕を大きく振った。
中年の女性が両手を腰に当てて、うさん臭そうな目でマリーを上から下までじろじろ眺める。
先ほどはいなかった料理人の男性が、ふたりのほうに近づいてきた。「あんたがマリーかい?」
たどたどしいが、フランス語だ。
マリーは安堵の表情を浮かべて笑みをこぼした。
「はい。あなたはフランス語がしゃべれるの?」
「少しだけどね。昔、修行中にフランス人のコックと働いたことがある」
「よかった! わたし、これから二週間、サイードの料理人として食事をつくるんです。ここで一緒に料理をさせてほしいの」
料理人は探るような目でマリーを見てしばらく考えていたが、なかばあきらめたように言った。
「わかったよ。厨房は三つあるけど、ふだんはこの第一厨房を使ってる。たくさんお客が来るときはすべて稼働させるけど。あんたには第二厨房を使ってもらえばいいかな」
「いえ、できればここを一緒に使わせてください。おじゃまになるかもしれないけど、勉強になると思うので」
一瞬、料理人は目を丸くしたが、相方のほうを見やってひと言ふた言やりとりし、うなずいた。
「いいよ、じゃあ、ここで一緒に」
その後、超大型冷蔵庫とそのなかの食材、貯蔵庫、調理道具、設備など、ひととおり見せてもらった。
マリーはひとつひとつ確認し、わからないことはすべて質問した。
細かいところまでは言葉が通じなかったが、料理の基本は万国共通だろうから、見よう見まねで覚えるしかないだろう。
もう夕刻にさしかかろうという時間になっており、さっそく夕食づくりにとりかかることにした。
いまここにある食材でなにができるか、すばやく頭のなかで組み立てる。
今夜は時間もないので、とりあえずフレンチ寄りの献立にする。
すでにコンロにかかっている大鍋は料理人が仕込んだ煮込みらしく、味見をさせてもらった。
彼らはこの王宮に住まう一族や使用人たちの食事をつくっている。
年配の女性と若い使用人たちは、簡単な食材の準備を手伝うほか、料理の配膳や片付けなどをするらしい。
肉の下ごしらえをしようとマリーが冷蔵庫を開けたとき、厨房の入口で声が響いた。
「こんなところにいたのか」
その声を聞くと、胸が跳ねずにはいられない。
顔を上げた視線の先には、民族衣装に着替えたサイードがいた。「部屋にいないから、どうしたのかと思った。服は着替えてしまったのか?」
「ええ、料理をするのがわたしの仕事ですから」
マリーは伏し目がちに答えた。
民族衣装のサイードを見るのは初めてだったが、スーツやタキシード以上に堂々たる姿だった。
これぞ王族といった威厳に満ちている。
全身白ずくめで、襟元や袖口に金糸の装飾が入った長い衣装は、広い肩幅や厚い胸板があるからこそ堂々と着こなせるのだろう。
年配の女性が大騒ぎしながら駆け寄っていった。
サイードに向かって平身低頭といった物腰で、なにか話しかける。
サイードも早口で返し、それからマリーのほうに目を戻した。
「ラナがあれこれ言ってるが、もう作り始めてしまったのならしかたがない。ほんとうはきみも一緒に食事をしてほしかったんだが……今夜のところはこのまま頼む。兄も同席するから、ひとり分追加してほしい」
「お兄さま?」
マリーは驚いて顔を上げた。
「母親は違うけどね。第一夫人の長子ファイサルだ、あとで紹介しよう」
「わかりました。精いっぱい務めさせていただきます」
やけに丁寧なマリーの物言いにサイードはけげんな顔をしたが、「それじゃ」と厨房を出ていった。
「驚いたな」
先ほどフランス語で話しかけてくれた料理人のジャマルが、ふうっと大きく息をついた。
「サイードさまが厨房にいらっしゃるとは。こんな別棟の端っこにいらっしゃるなんて、初めてじゃないか?」
ラナや若い下働きの召使いたちが、含みのある目でマリーのほうを見たが、マリーはせっせと手を動かして調理に集中していた。
一時間ほどして、コース料理の準備がととのった。
ジャマルたちが先に用意していた品もあり、フレンチとイスファハールの料理を取りまぜて出すことにした。
テーブルセッティングは使用人たちに頼んだが、給仕はマリーみずからやると申し出た。
料理を載せたカートを押して食堂に入っていくと、長方形のテーブルに向かい合う形でサイードともうひとり男性が座っていた。
すでに食前の飲み物が出され、ふたりはなごやかに談笑しているようだ。
「マリー!」
サイードが彼女を見て顔をほころばせ、立ちあがった。
あけすけな笑顔にどきりとさせられたマリーは、どんなふうに反応していいのかわからず、軽く会釈をするだけになった。
「へえ」
サイードの前に座っている男性が、両の眉を少し上げた。
彼も席を立つ。
「おまえがそういう反応をするのはめずらしいな」
なにやら興味深そうにつぶやいた。
兄が同席するとサイードが言っていたから、彼が腹違いの兄ファイサルだろう。
たしかに顔の輪郭や背格好がなんとなく似ている。
髪が真っ黒なところも。
兄弟ともにハンサムで堂々としているが、サイードのほうが異国情緒を感じさせる繊細な顔立ちだ。
「はじめまして、このたびサイードさまの専属料理人としてお世話になっている、マリー‐ルイーズ・フェリエです」
できるだけ失礼にならないよう、かしこまってマリーは挨拶した。
「なにをそんな堅苦しいことを。そういうのはいい。ファイサルとぼくは遠慮のいらない仲なんだ。ほんとうはきみも交えて三人で食事をしようと思っていたのに」
サイードはマリーの隣に立った。
「兄さん、マリーだ。今回の帰国で料理人として同行してもらっている」
「はじめまして、マリー。弟が世話になっているようだね。よろしく。いまもパリでの話を聞いていたところだよ」
「あ、はい」
パリでの話……マリーは不安になった。
サイードは、いったいどこまで話をしたのかしら……。
「おつまみにちょうどいいディップソースとパンと野菜をお持ちしました」
料理の話題に切り替えるほうが楽だった。
「こちらのシェフのアドバイスで、ディップにはひよこ豆を使わせてもらいました。時間がなかったので、パンもアラブ式の薄焼きパンで」
「豆のペーストはぼくの大好物だ」
ファイサルが言う。
「楽しみだな。さっそくいただこう」
兄弟は腰をおろし、マリーの給仕で食事が始まった。
ディップをパンにつけてひと口食べたファイサルは、目を輝かせた。
「うまい! うちの料理人たちもなかなかの腕だと思っているが、このディップはひと味違う。とても複雑な味だ。奥が深いというのか……パンにつけたときの塩気も絶妙だね」
「ありがとうございます」
ほっとした顔でマリーは答えた。
「だろう? 兄さん」
サイードは片方の口角を上げて、にやりと笑った。
「兄さんが味のわかる男でよかったよ」
「おまえがフランスから女性を連れてきたと聞いたときには、またかと思ったが、こういうことだったのか」
また……?
マリーの顔が一瞬こわばったが、すぐに何事もなかったかのように手を動かした。
またということは、サイードはしょっちゅう女性をここへ連れてきているというの?
「よしてくれ、人聞きの悪い。マリーはそんなんじゃない。立派な料理人だ」
サイードはあわてるふうもなく言ったが、せっかくの弁護の言葉もマリーの耳にはあまりうれしくは聞こえなかった。
「次のお料理がありますので、失礼します」
マリーはなんとなく息苦しいのをこらえて言い、そそくさと食堂を出た。
落ち着いて。
なにを動揺することがあるの?
サイードは事実を言っただけ。
わたしは彼がここに連れてくる女性たちとは違っていて……ただの料理人で……。
「まずいことを言ってしまったかな」
マリーが出ていったあとで、ファイサルがサイードに言った。
「いや、べつに……」サイードはどこか歯切れが悪かった。
「珍しく、おまえのほうから女性も一緒に食事をと言われて驚いたが、彼女自身が料理をつくる当人だったとはね」
「いや、到着した日くらいは王宮のコックたちにまかせて、彼女も一緒に食べればいいと思っていたんだよ。それに、ぼくはこれまで、なにも好きこのんで女性たちを連れてきていたわけじゃない。せがまれるからしかたなくだ。無下に断るのも面倒だからね」
「だが、彼女はおまえにせがんでついてきたようには見えなかったが?」
「マリーは……そういうことはしない。だが、連れてこずにはいられなかった。彼女の料理はすばらしいし、彼女のビストロが火事で使えなくなって困っていたし。とにかく、そのまま放っておくことはできなかった。彼女が自分の目の届くところにいないと落ち着かない」
「おまえ、それは……」
ファイサルは驚いたような、どこかうれしそうな顔をした。
「なんだよ、兄さん?」
今度はファイサルの歯切れが悪くなり、どうしたものかといった様子でしばらく考えていた。
また口を開いたそのとき、ふたたびマリーが入ってきた。
ファイサルは言葉をいったんのみ込み、食事に集中した。
前菜、スープ、サラダ、魚、肉、デザートとつづいたが、どれもこれも温度といい、味といい、焼き具合といい、申し分なかった。
「すばらしかったよ、ごちそうさま」
ファイサルが言い、サイードも同じくうなずいた。
兄は弟ににやりと笑ってからマリーに向き直った。
「これならパリの三ツ星レストランに出向く必要もないな。きみの料理をいただくのは初めてなのに、どこかなつかしい味がした。こんな料理を毎日食べられるとは、サイードは幸せだ。だが今度はぜひ、きみも一緒にテーブルを囲んでほしい」
「ありがとうございます」
マリーはほっとした。
時間がないなか、慣れない厨房での作業だったが、満足してもらえたようだ。
厨房の使用人も急に新しい料理人に仕事場に入られて戸惑っただろうが、とにかく協力はしてくれた。
明日はほかの食材を見に市場にも行きたいし、もっと時間をかけて料理したい。
ジャマルに相談してみよう。
マリーは厨房にさがり、ほかの使用人たちと一緒に軽く食事をして、片付けもした。
最後まで自分で責任を持って作業することで、厨房にも早く慣れる。
言葉はほとんど通じないけれど、彼らの動きをよく見て、できるだけいろいろなことを手伝わせてもらおう。
さすがに王宮の厨房。
火入れをするためのコンロや窯やオーブンは、各国料理に対応できるものが何種類もそろっている。
明日の朝は得意のフランスパンを焼かせてもらうことにして、石窯の使い方を確認した。
そろそろ片付けも終わろうというとき、厨房に女性が入ってきた。
品のよさそうな民族衣装をまとい、どこか威厳を漂わせた人だった。
ラナが目に見えてしゃっきりと背筋を伸ばし、あわてて駆け寄っていく。
女性はジャマルともうひとりの料理人を相手にしばらく話をしたあと、出ていった。
「あの、なにか?」
なんとなく気になってマリーは尋ねた。
「ああ、いまのは第一夫人の侍女だよ」
ジャマルが教えてくれた。
「三日後にカーミラ姫がいらっしゃるので、そのときの晩餐について指示を伝えに来られたのさ。そうだ、あんたにも手伝ってもらえるとありがたいね」
「カーミラ姫? 王族のかたですか?」
そこでラナが何事かを口にした。
ジャマルは少し言いにくそうにマリーに言った。
「カーミラ姫は第一夫人の遠縁の方で、ときどきいらっしゃるんだ。今回はサイードさまがご帰国なさったからだろうね。カーミラ姫は昔からサイードさまにご執心で……」
「えっ……」
マリーの顔がこわばったが、すぐになんでもないふうを装った。「そ、そうなの。それじゃあ、わたしも腕をふるわないとね」
無理に笑みをつくったが、それ以上はなにも言えなかった。
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