11 - イスファハール編 赤い太陽

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イスファハールに到着したサイードとマリー。

専属料理人として同行しながらも賓客扱いを受けるマリーだったが、王宮内で彼女に向けられる目はまったく違うもので……。

作:ケイ・ブルー(Kay Blue)

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 広大な砂漠と海のはざまに、いくつものビルやタワーが空に向かって突き出しているのが見えてきた。

 プライベートジェットはぐんぐん陸に近づき、着陸態勢に入って滑走路に降りたった。

 五分もしないうちにマリーはサイードにエスコートされてタラップを降り、迎えのリムジンに乗り込んでいた。

 車は空港からの道を滑るように走った。

 ちょうど夕暮れどきで、砂漠も道路も夕日に赤く染まり、パリと違って空が広い。

 しかし十五分もすると、先ほど空から見えたビル群が見え始め、世界じゅうのどんな都市にも見劣りしない街並みが広がった。

 そこからさらに十五分。

 真新しい建物の群れを抜けると、いかにも歴史を感じさせる石造りの建造物が建ち並ぶ界隈に入った。

「ここは旧市街だ。王宮はこの先にある」

 サイードが言った。

「もともとわが国は遊牧の民だったんだ。だがオアシスをつくって定住してすぐ、幸いにも油田が次々に見つかって急速に成長し、豊かな暮らしを送れるようになった。近年はレアメタルまで採れるようになって、ありがたいかぎりだ」

 たしかに彼の言うとおり、高層ビルやタワーの建ち並ぶ新市街はもとより、この旧市街も活気があった。

 道行く人たちの顔は明るく開放的で、国の繁栄ぶりがうかがえた。

「ほら、見えたよ」

 サイードの声がして前方に目を移すと、厳かな空気を漂わせた白亜の巨大な宮殿が姿をあらわしていた。

 いくつもの丸いモスクや細い尖塔が天空に向かって伸び、美しい青のモザイクで彩られている。

 黄金色の日差しを浴びたその威容は、息をのむほどの荘厳さだった。

「すごい……」

 王宮から受ける印象が、サイードにぴたりと重なった。

 まさにこの人は、この国の王子なのだと痛感する。

 リムジンは大きな石門をくぐり、正面の奥に見える壮麗な建物の前に停まった。

 即座に民族衣装の召使いが出てきて両側から後部座席のドアを開け、サイードが降りるのを見てマリーもつづいた。

 サイードは車の後ろをぐるりとまわって彼女の隣につくと、腰に手を当てて玄関へといざなった。

 建物に一歩入ると、大理石の広々としたホールが広がっていた。

 中央通路の両脇に、召使いがずらりと並ぶ。

 そのなかから初老の男性が進み出た。

「お帰りなさいませ、サイードさま」

 マリーは彼を見て目を丸くした。

「ハキムさん?」

 目の前に、パリのアパルトマンでサイードの身のまわりの世話をしていたハキムがいた。

 今朝、マリーは彼に見送られてサイードのアパルトマンを出た。

 彼は同じ飛行機に乗っていなかったと思うのに、どうして?

 びっくりしているマリーを見て、サイードは愉快そうに笑った。「それはハミル。ハキムの双子の兄だ、よく似ているだろう?」

 そう言うと事もなげにマリーの腰に手を当て、うながすようにしてハミルのあとから奥に進んだ。

 いったん中庭に出て、渡り廊下を通る。

 別棟に入ってしばらくいったところで、ハミルが重厚なドアの部屋を開けてサイードを通した。

 その後、マリーを振り返って「あなたさまはこちらです、どうぞ」と言いながら、すぐ隣の部屋のドアを開けた。

 部屋に入ったマリーは、目を見張った。くすんだ赤を基調にした豪華なモザイクが壁と天井を覆っている。

 いったいどれだけの時間と技術を費やしてつくられた部屋なのだろう。

 部屋の中央には分厚いペルシャ絨毯。奥のベッドはクイーンサイズで、これまた複雑な模様のスプレッドが掛かっている。

 コックコートしか持ってこなかったマリーは、とりあえずそれをしまおうと衣装だんすに歩いていった。

 精緻な飾り彫りがほどこされた飴色の衣装だんすを開けてみると、色とりどりの民族衣装らしき丈の長い服がずらりと並んでいた。

 だれの持ち物かしらと思いながら、空いたハンガーにコックコートを掛けさせてもらった。

 少ない荷物を整理すると、携帯電話を取りだして父親の番号にかけた。

 怒涛の展開で連絡もできないままここまで来てしまったけれど、やはり知らせておいたほうがいいだろう。

 十回以上呼び出し音が鳴り、なかばあきらめかけたところで反応があった。

「アロー……?」

 しわがれた声が応答した。

 パリはもう午後だけれど、寝ていたのかもしれない。

「お父さん? マリーよ。急に電話でこんなこと言って悪いんだけど、連絡しておこうと思って。いまイスファハール王国に来ているけれど、仕事だから心配しないで」

「……なんだと?」

 寝ぼけていた声がはっきりした。

「どうしてそんなところにいるんだ? さっさと帰ってこい! いったいどういうつもりだ? まったくおまえのやることときたら、ろくでもないことばかり――」

 わめきたてる声が、受話口からマリーの耳を直撃した。

「ごめんなさい、もう切るわ。とにかく心配しないで!」

 父親をなだめて説明する気力も湧かず、マリーはすぐに終了ボタンを押してしまった。

 通話が切れたあとのツーツーという音が、むなしく響く。

 どうしてこうなるの。

 心配をかけたくないと思っただけなのに。

 昔から、父ピエールはマリーのすることに喜ばないどころか、腹をたてることが多かった。

 赤ん坊のころから十二歳まで施設にいて離れて暮らしていたため、親子関係の土台をつくれず、互いにどう接したらいいのかわからなかったのかもしれない。

 十二歳でようやく父と暮らすようになったものの、そのころ父はすでに建設現場の監督の仕事を辞め、生活保護を受けながら、気が向いたときだけ日雇い仕事に出かけていた。

 マリーは自分のこと、家のことをすべてこなした。

 父親に好かれたかった。

 いや、好かれなくても、役に立つ人間だと思われたかった。

 どうにかこうにか生活していくことはできたけれど、ピエールは酒ばかり飲んでいた。

 マリーは世話になった施設の台所を特別に手伝わせてもらい、食事をわけてもらうことも多かった。

 十五歳で義務教育を終えると、料理の職業高校に入った。

 母親も料理人だったと聞いたことはある。

 でも父はほとんど母の話をしてくれず、母のレシピノートとわずかに残っていた写真から想像するしかなかった。

 それから料理学校を三年で卒業し、アンリとジャンに誘われていまのビストロを開いた。

 そのときにマリーは部屋を借りて独り立ちし、父親も郊外に引っ越した。

 だから親子らしい時間というのはほとんど持てていない。

 マリーが料理学校に行くと告げたときも、父は不機嫌な顔をしていた。

 いま父がどんなふうに暮らしているのかもよくわからない。

 父に会うのは、ときおりマリーのところに酒代をねだりにくるときだけだ。

 マリーが携帯電話を見つめて物思いに沈んでいると、ドアにノックがあって現実に引き戻された。

「は、はい、どうぞ」

 マリーの返事を受けて入ってきたのは、紺の民族衣装をまとった若い女性だった。

 中東の国の女性らしく、頭も同じ色の布で覆われている。

「お世話係の、アイーシャです」

 訛りのあるつたないフランス語。

 わずかに会釈した彼女は、衣装だんすまで行って扉を開け、ずらりと並んだ民族衣装を見せた。

「着付けをお手伝いします」

「えっ? わたしが着ていいの?」

「はい。すべてあなたのために用意されたものです」

「これがぜんぶ? そんな……どこかお店を教えてもらえれば、自分で買いにいくのに……」

 マリーはあわてた。

「いいえ。サイードさまのご命令です。どれになさいますか?」

 アイーシャはマリーに衣装を選ぶように言い、マリーはしかたなく一枚を手に取った。

 紫と水色を基調に、ところどころピンクと金色がアクセントに入った、あざやかで複雑なイスラムの植物模様。

 マリーは言われるまま、衣装だんすの横に掛かる巨大な鏡の前に立った。

 抗う間もなくワンピースを脱がされ、下着もすべて取られそうになる。

 ショーツだけは死守したが、ブラジャーははずされてしまった。

 アイーシャの視線が、どこか値踏みするようにマリーの全身に走ったのは、気のせいだろうか。

 暑いこの国の民族衣装は、正式には下着をつけずに着るのだという。

 外出時にいちばん上にまとうローブのようなものは黒と決まっているが、装飾やデザインの種類は豊富で、差し色の入っているものもあるらしい。

 その下に着る薄手のドレスは、好みの色や模様でかまわない。

 見えないところで派手なおしゃれをするのがこの国の女性にとっては大切なのだそうで、あざやかな色や模様のものがそろっていた。

 恥ずかしいから自分で着替えたかったけれど、着付けを知らないのでまかせるしかない。

 それにしても、マリーが着せられているものはずいぶんと上等なものに思えた。

 アイーシャが着ている服は地味でなんの変哲もない紺一色だが、マリーのものは金糸や色糸を使って複雑な模様が織り込まれ、見るからに布地の光沢が違う。

 帯にも宝石が縫いつけられ、非常にきらびやかだった。

「できました」

 アイーシャがマリーに向かって、小さくおじぎをした。

 鏡のなかに映っている自分の姿が、マリーには信じられなかった。

 どう見ても、アラブのお姫さまのような格好だ。

 部屋の薄明かりのなかでも、ありったけの光を吸収して輝きを放つような衣装。

 頭にかぶせられたヒジャブという大きなスカーフも、美しく透きとおるような金色と黒のシルクだった。

 マリーが言葉も継げずに戸惑っていると、サイードが入ってきた。「これは美しい。すばらしく似合っている」

「サイード! こんな服を着させていただくわけにはいかないわ。わたしはここへ仕事をしに……」

「なにを言っている。きみはぼくの専属だ。それなりの扱いが当然だろう。これも報酬の一部だ」

 サイードは事もなげに言った。

「こんな法外な報酬、ありえないわ」

 マリーの声がうわずった。

「きみは自分の腕をその程度のものだと思っているのか?」

 眉をくいっと上げてサイードが言う。

 マリーは返す言葉に詰まり、愚かにも、彼の世界ではありうることなのかもしれないと一瞬考えた。

「これもきみに似合うと思って持ってきたんだ」

 サイードは右手に持ったものを両手に持ち替えて伸ばし、マリーの後ろに立った。

 気づくと、マリーの胸には真っ赤なルビーと黄金でつくられたネックレスが輝いていた。

「サイード、これは……? どうしてこんな……だめよ、はずして」

 すぐにマリーは首の後ろに手を伸ばした。

「はずす必要はない。きみと、その衣装によく似合っている。母の宝石箱を見てみたら、ちょうどよさそうなものが――」

「なんですって? お母さまの? そんな大事なものを……!」

 なんとか留め具をはずしたマリーは、サイードの手にネックレスを押しつけた。

 今度こそ、彼の言いなりになってはいけないと思った。

「お願いだから、サイード、ふざけるのはやめて。お母さまの大切なものをこんなに軽々しく扱ってはいけないわ。さあ、返してきて」

 マリーはサイードの背中をぐいぐいと押して、部屋から追い出した。

 ドアを閉め、サイードが離れる気配を確認するまで待ってから、アイーシャに向き直った。

「アイーシャ、厨房の場所を教えてもらえるかしら?」


 マリーはアイーシャが描いてくれた大まかな見取り図を手に、王宮内の別棟にやってきた。

 広すぎて迷子になりそうだったが、なんとかそれらしい方向に来たようだ。

 大きく開いた扉から食べ物やスパイスのにおいが漂い、熱気も感じられる部屋が目に入った。

 あそこが厨房に違いない。

 扉に手をかけようとしたそのとき、なかから声が聞こえた。

「―――マリー―――」

 理解できない言葉のなかに自分の名前らしきものを聞き取り、思わずマリーは足を止めた。

 扉の影から、気づかれないようにそっとなかを覗いてみる。

「――サイード――」

 年配の女性がうっとりと両手を胸に当てている。

 それからやれやれと言うように両手を広げて頭を振りながら、「――マリー――」となにかを話す。

 ほめられているようには思えない。

 眉間にしわを寄せて、あきれているような表情……。

 その女性と向き合っている若い女性が、スカートをするりと持ちあげてひざ下をあらわにし、体をくねらせた。

 それから、やはりうんざりしたような顔で肩をすくめた。

 ふたりの向こうで背を向けて鍋をかきまぜているのは、料理人の男性だろうか。

 彼は肩を揺らして笑い、レードルを振りあげた。

 マリーは自分の心臓が乱れ、頬にじわじわと血がのぼっていくのを感じた。

 言葉の意味はよくわからないが、良いことを言われているか悪いことを言われているかくらい見当がつく。

 彼らの口にのぼった自分の名前。

 サイードの名前。

 そして、なんとなく下品であだっぽいしぐさ。

 あきれた顔。

 マリーはいたたまれず、そっとドアの前を離れて、元来た方向に戻った。

 ショックだった。

 あんな雰囲気のなかへ入っていく勇気はない。

 どうしてあんなふうに言われなければならないの?

 自分は、ただおいしい料理をつくりたいと思っているだけなのに……。

 そこまで考えて、昨日と今日で起きたことが頭をよぎった。

 客観的に見れば、あんなふうに思われてもしかたのないことを自分はしてしまったのだ。

 おまけにあんな豪華な部屋をあてがわれ、こんな上等な服を着せられて……。

 自分の部屋に戻ったマリーは、手順もよくわからないまま衣装をはぎ取るようにして脱ぐと、自分で持ってきたコックコートに着替えた。

 いつものように体になじみ、身の引き締まる思いがする。

 わたしはここへ、料理人として、仕事をしにきたの。

 これからはもうサイードに流されない。

 まわりの人にも誤解されないようにしなくちゃ。

 そう強く心に誓って、先ほどの厨房にふたたび足を向けた。

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