08 - パリ編 朝の光とプティ・デジュネ
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店が火事になってしまった動揺から、サイードを自宅に泊めることになったマリー。
こぢんまりとした部屋に入ったとたん、その現実が押し寄せてきて……ふたりはどんな朝を迎える!?
作:ケイ・ブルー(Kay Blue)
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初めて足を踏み入れたマリーの部屋は、小さかった。
もちろんサイードの住まいとくらべてということで、一般的なパリの若者のひとり住まいなら、これくらいの部屋に住んでいる者はたくさんいるのだろう。
スタジオタイプの部屋に入ってすぐ目についたのは、部屋の真ん中あたりに置いてある二人掛けのソファとローテーブル。
その向こうの正面の奥が、バルコニーに面した掃き出し窓になっている。
向かって左にはミニキッチンと小さなダイニングテーブルとチェアのセットがあり、右手の壁際には衣装だんすとチェストが並んでいる。
その奥の角を仕切ったところが、おそらくベッドルームスペースだろう。
サイードの視線は、そこでほんの少し留まった。
彼女の部屋に漂う空気はとてもおだやかだ。
淡い生成りと明るい木目を基調とした部屋は、やさしい雰囲気でほっとする。
こまごまとしたものが生活感を出しているが、片付きすぎていないのがかえって心地いい。
彼女らしい部屋だと思った。
「あ、あの……」
妙に緊張した面持ちのマリーが、ソファのほうを手で示した。
「どうぞ、掛けてください。いまお茶を入れるわ」
「いや、いい。もう遅い時間だし、きみも疲れただろう。早くやすむといい」
そう言われて、ますます彼女は緊張したようだ。
次にどうすればいいのか、途方に暮れているように見える。
「ぼくはソファでやすませてもらうから、きみはいつもどおりに支度して眠ればいい」
サイードはつかつかとソファに歩み寄り、どさりと腰かけてすぐ横になると、腕組みをして目を閉じた。
「そんな! あなたをソファで寝かせるなんて。わたしがソファで寝ますから、あなたはベッドで……」
そこまで言ってマリーの声はしぼんだ。
動かない彼をしばらく見つめてためらっている様子が伺えたが、やがてごそごそと動きだす気配がした。
思いがけない展開に、マリーはどうしたらいいのかわからずにいた。
彼の申し出に甘えてついてきてもらったけれど、いつもの自分の部屋の小さなソファに、俳優かモデルのようにすらりとした体躯の男性が、長い脚をはみ出させて窮屈そうに寝そべっているのが、あまりにもそぐわない。
広くてたくましい胸や肩、直線でできた鼻筋やのどのラインがやけに目につく。
目の前の光景に現実味がなくて、なんだか信じられない。
とりあえずマリーはダウンケットを出してサイードにそっと掛けると、顔を洗い、部屋着にしているひざ丈のTシャツに着替えて、そそくさとベッドに入った。
が、なかなか眠れない。
生成り色の布地でできたパーテーションの向こうが気になってしかたがなかった。
疲れているはずなのに眠くならない。
息さえも自然にできなくなってくる。
落ち着いて、ゆっくり呼吸して――
マリーは何度も自分に言い聞かせながら、息をすることに集中した。
こんなに意識して、ばかみたい。
彼は動揺しているわたしを心配して、ついてきてくれただけ。
その証拠に、さっさと寝てしまったじゃないの。
わたしには、なんの魅力もないってことなのかしら……。
なんとなく的はずれな考えが浮かんできて哀しい気持ちになった。
ベッドのなかでまとまらない考えに頭を悩ませているうち、いつしかマリーは小さな寝息をたてていた。
暗い部屋でサイードは目を開け、ふう、とひとつ息をついた。
マリーが心配でついてきてしまったが、これは想像以上につらいものがある。
彼女がベッドを譲ろうとするので、先手必勝とばかりにソファに横になった。
そのまま目を閉じていたら、なにやら水音が聞こえてきた。
その後、スリッパのようなやわらかな足音がソファのそばを通り過ぎる気配がして、柄にもなく心拍数が上がった。
飛び起きて彼女の腕をつかみ、もろともソファに倒れ込んで抱きしめようかと考えた。
ベッドに入る衣擦れの音が聞こえたときには、彼女に覆いかぶさり、手足を絡めて彼女の全身をまさぐっているところが頭に浮かんだ。
だが、不安におびえて動揺している女性につけこむようなまねをするわけにはいかない。
一国の王子としてあるまじき行為だ。
やがてかすかに聞こえてきた寝息に、サイードは寝返りを打ってソファの背もたれと向き合った。
ぐっと奥歯を噛み、まんじりともせずに夜明けを迎えた。
いつの間に眠ったのか、翌朝遅くにサイードは目を覚ました。
すでに太陽は昇り、通りからは車の行き来する音が聞こえてくる。
しかし明るさや外の音よりも彼を目覚めさせたのは、かぐわしいコーヒーの香りだった。
見慣れない天井といつものベッドとは違う感触に、一瞬ここがどこなのかわからなかったが、すぐに思い出した。
マリーの部屋だ。
腕時計を確かめると、もう十時をまわっている。
ゆっくり体を起こして、香りの元を視線でたどった。
部屋の隅のキッチンカウンターの向こうに、彼女の小さな背中が見えた。
視線を感じたのか、マリーが振り向いた。
「おはようございます」
にこっと笑う。
彼女はすでに着替えており、フレンチ袖の白いトップスに水色のサブリナパンツという格好だった。
「ああ、おはよう」
サイードは髪をかきあげながら答えた。
朝日のせいだろうか、マリーの姿が輝いて見える。
なんとなく照れくさい。
いつもハキムが身のまわりのことをしているのだから、状況はそう変わらないはずなのだが。
「コーヒーをいれたわ。バスルームも自由に使って」
マリーはキッチンの奥にあるドアを手で示した。
サイードは顔を洗い、手櫛で髪をととのえた。
着替えはないからしかたがない。
ともかく、マリーにそれほど気落ちした様子が見られないのはよかった。
マリーはコーヒーだけでなく、
クロワッサン、オムレツ、サラダ、ヨーグルトにフルーツ……フランスらしい朝食だ。
どれもシンプルなようでいて、ちょっとした味つけやドレッシングなどが絶妙でおいしかった。
「こんなにゆったりした気分で朝食を食べたのは久しぶりだ。いつも朝はコーヒーくらいしか飲まないんだが」
出されたものを平らげ、コーヒーを飲み干してサイードは言った。
「なんですって?」
急にマリーは声の調子を強めた。
「そんなに立派な体格をしてるのに、コーヒーだけ? 大の男がそんなんじゃだめよ。朝食は大事なの。食べ物が入って、ようやく体は目覚めるんだから」
空いた皿をさげようとしていた手を止め、腰に両手をあてて眉をつりあげる。
一瞬、ぽかんとしていたサイードだったが、ぷっと吹きだした。
「そんなことを言われたのは初めてだ。怒られるとは思わなかった」
「あ、怒ったつもりじゃ……ごめんなさい」
マリーはわれに返っておとなしくなった。
「いや、気に障ったわけじゃない。食事についてだれかに意見されたことなどなかっただけだ。王宮ではぼくがなにを食べようが食べまいが、気にする者もいなかったからね」
サイードは事もなげに言った。
「えっ。王子さまともなれば、いつも大勢の人に囲まれて豪華な食事をしているんじゃないの?」
マリーは意外そうな顔をした。
「ああ、まあ、料理の内容はね。いつも食べきれないくらい並んでいたよ。だが、ぼくの母は病気がちで、一緒に食事をとれることは少なかったし、国王の父はつねに多忙で顔すら合わせないことが多かった。食事はたいていひとりだった」
「そんな……ほかにご家族は?」
マリーは眉根を寄せて、さびしそうな顔になった。
「腹違いの兄がひとりと、やはり腹違いの妹が三人。いとこや遠縁となると大勢いるが、食事はそれぞれでとることになっているから、ぼくの場合は給仕の者がいたくらいだ。まあ、スイスの寄宿学校に入ってからは寮生活で、それこそ大勢で一斉に食事したが」
「そうなの……でも、その点はわたしも似たようなものね。わたし、生まれてから十二歳まで養護施設に預けられていたの。母がお産で亡くなって、父ひとりでは赤ん坊のわたしを育てられなかったから……施設ではいろんな年齢の子どもたちと一緒に食事をするから、いつも大騒ぎだったわ」
マリーはくすくす笑った。
「わたしも大きくなるにつれて厨房を手伝わせてもらうようになったんだけど、つまみ食いに来る子がいたりして、それはもう大変だったのよ」
「ははは。それは似ているようでいて、まったく違う食事風景だっただろうな。寄宿学校ではマナーが厳しくて、毎回きちっと正装してテーブルにつくんだ。会話もマナーのひとつだから禁止されているわけではないが、にぎやかという感じではなかったよ」
サイードの話しぶりは、おごっているようでも得意ぶっているようでもなく、ただ過去の事実を述べているだけだった。
しかし“大勢で食事をしていた”ことで共通点を見つけたつもりになっていたマリーは、実態のあまりの違いに恥ずかしくなった。
自分と彼は、同じなんかじゃない。
住む世界が違うことを、あらためて突きつけられたような気がした。
それでも自分にとって、施設でのにぎやかな食事はやはり楽しかった思い出だ。
だからフランス料理を習って、それなりの腕をもって学校を卒業したとき、一流ホテルや高級レストランからの誘いを断り、同じ考えを持つ仲間とビストロを開いたのだ。
自分のやりたいことは、高級店ではできないと思った。
どんなに材料や設備が立派でも、堅苦しい店より、毎日の食事をおいしく気軽に楽しんでもらえる店――お客さんとの距離が近くて、楽しく食事をしてもらえる店がやりたかった。
「うまく言えないが……」
マリーの沈んだ胸の内を知ってか知らずか、サイードは口を開いた。
「きみの店で飲んでいるときや、いまここで食事をしたときは、おだやかでくつろいだ気分でいられた。幼いころ、母と食事をしたときの感じに似ていると思う」
それを聞いて、マリーの心はまた浮きたった。
楽しいというのとは違うかもしれないけれど、自分の料理を食べて少しでも幸せな気持ちになってくれたのなら、こんなにうれしいことはない。
「ありがとう」マリーは顔をほころばせ、満面の笑みを浮かべた。
サイードはつかの間、目を見開いて彼女の顔を凝視していたが、目をそらすと立ちあがった。
「さあ、きみの店に行こう。昨夜はろくに状況を確かめることもできなくて、気になっているだろう?」
三十分後、ふたりは〈レトワール〉に着いていた。
まだ焦げくさいにおいが漂い、立ち入り禁止のテープが張られている。
消防と警察が現場検証をしていた。
アンリとジャンも来ていたので、マリーは彼らと一緒に火元と言われた厨房に入らせてもらった。
オーブンとコンロのまわりがやはりいちばん焼けており、黒いすすが天井までこびりついている。
ガス管や水道管にも損傷が見られ、今日明日では使い物になりそうもない。
アンリたちが先に話を聞いてくれていたが、爆発物のようなものが原因ではなく、テロの可能性は低いということだ。
しかし勝手口のドアにこじ開けたような跡があったことから、放火ではないかというのだ。
「放火!」
マリーはおののいた顔で声をあげた。
「そんな……どうして放火なんか……」
「それはまったくわからないよ」
ジャンが答えた。
「べつに恨まれる覚えもないし……だから、いたずら目的じゃないかって」
肩をすくめて両手を振りあげる。
「とにかく、これじゃあしばらく営業できない。修理やらなにやらで、早く見積もっても再開には二週間くらいかかるんじゃないかな」
「二週間も?」
マリーは眉を寄せてうなだれた。
「しかたがないよ。アンリとぼくは、知り合いの店を手伝わせてもらうことにしたんだけど、マリーもどこかにあてはあるかい? なんなら、聞いてみてあげてもいいよ」
「それなら問題はない」
サイードの声が響いた。
「これから二週間、マリーにはぼくの専属料理人になってもらう」
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