07 - パリ編 ブガッティに乗った騎士《シュヴァリエ 》
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マリーのビストロに通ってくれるサイード。
彼との短い夜のドライブが楽しく大切な時間になっていったころ、ビストロに大事件が起きて!?
作:ケイ・ブルー(Kay Blue)
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「サイード!」
彼には驚かされることばかりだ。
「どうしたの、そんなところで?」
「送っていこう」
サイードは腰で車を押しやるようにして体を起こし、腕を解いた。
スッと脇に寄り、マリーのために助手席のドアを開ける。
「もしかして、ずっとここで待ってたの?」
マリーは、まさかという顔で訊いた。
「そんなに驚くことでもないだろう」
なぜか仏頂面でサイードが言う。
「だって、店が終わってからもう一時間も……それに、わたしのアパルトマンはここから歩いて二十分だし」
「いいから乗りたまえ。これはぼくのおわびだ」
サイードはまた腕を組んであごを上げ、斜め上からマリーを見おろすように頭をかたむけた。
一瞬、マリーは面食らったようにきょとんとしたが、いきなり吹き出した。
「わかったわ。ありがとうございます。それなら、お言葉に甘えて送ってもらうわ」
くっくっと笑いながら助手席に乗り込んだ。
サイードはなにを笑っているんだというような顔でドアを閉めて運転席にまわったが、乗り込むときには表情がやわらいで口角が上がっていた。
車が走り出してから、マリーはあることに思い至って落ち着かなくなった。
この前、車で送ってもらったときにキスされた。
もしかして、今日も……?
またああいうことがあったら、どうすればいいの……?
けれどドキドキしているあいだに車はアパルトマンに着き、サイードはすばやく車を降りて助手席側のドアを開けてくれた。
ほっとしたような、残念なような複雑な気持ちでマリーは車を降り、お礼を言って建物に入った。
サイードもそれを見守るだけだった。
自分の部屋に入ったマリーは、車が発進して遠ざかる音を聞き、詰めていた息を吐き出した。
自分が恥ずかしい。
またキスされるのではと思ったりして。
知らないうちに期待してしまっていた。
このあいだのあれは、単なる気まぐれ。
今日送ってくれたのは、店で騒いでしまったことのおわび。
そう……あの美しい女優が少し羽目をはずしてしまったことを、彼が代わりに謝っただけなんだわ。
車を走らせながら、サイードは体の熱をやりすごそうとハンドルを握りしめた。
彼女の店からアパルトマンまで、あまりにも近すぎる。
あっという間だ。
もっと隣で彼女の存在を感じていたかったのに。
アパルトマンに着いてエンジンを切ったとき、また彼女にキスしたかった。
今度はもっと近くまで抱き寄せて、唇だけでなく体を押しつけて、彼女のやわらかさを感じたかった。
だが……テレビ局で彼女に言われたことを考えてみると、自分は軽い男だと思われているのではないかと気づいたのだ。
彼女にキスをしたのは、心からそうしたくて体が動いてしまっただけなのに。
しかし、それで軽薄だと思われるのなら、とにかくしばらく自制しようと彼は考えたのだった。
その日以降、サイードはときどき同じように遅い時間に〈レトワール〉にやってきては閉店まで過ごし、マリーを待って、車で送ってくれるようになった。
どういうつもりなのか訊こうにも、あらたまって話を切り出せないうちにアパルトマンに着いてしまう。
それでも彼が来てくれる日は楽しくて、マリーは心待ちにするようになった。
新作をつくればかならず食べて的確な感想を言ってくれるし、なにより彼が心から楽しんで食べてくれているのがよくわかって、料理人冥利に尽きる。
そんな幸せな時間が持てるのだから、彼の真意がわからなくてももういいかなと思い始めたころ――。
マリーには、ほかに気になることができていた。
少し前から、なんとなくおかしなことが起きるようになった気がするのだ。
アパルトマンのドアの前に花が一輪落ちていたり。
店の電話に出るといきなり切れたり。
ほんとうに、なんとなくの違和感。
ひとりでアパルトマンに帰るときや、店と行き来している途中、ときどきだれかに見られているような感じもする。
ただ、どれも気のせいだと思えばそうとしか思えないし、なにか被害に遭ったわけでもない。
だから人に話すのもためらわれて、アンリやジャンにもサイードにもなにも言わないでいた。
そんなある日、またサイードが店に来て、いつものようにアパルトマンまで送ってくれた。
しかしいつも同じ道をたどるだけでは芸がないと、彼は少しパリの街をドライブしようと提案した。
「仕事のあとだが、疲れていないか?」
マリーを気遣って尋ねてくれる。
「いいえ、ちっとも。今日は新作のデザートプレートがうまくいって、疲れも吹き飛んじゃったわ」
彼女はうれしそうにふふっと笑った。
「ああ、あれはうまかった! ピスタチオムースとフランボワーズジュレの組み合わせが目にもあざやかで」
サイードもつられて笑顔になる。
まわり道のドライブのおかげで、いつもよりゆったりとした気分でいられた。
少し開けた窓から涼しい風が入ってきて気持ちがいいし、とてもすてきな夜。
ううん、ほんとうにすてきなのは――夜じゃなくて――。
マリーはそっと運転席を見やった。
ブガッティは滑るように夜のパリを駆けていく。
いくら遠まわりしてくれても、せいぜい30分くらい。
またもう少しでアパルトマンに着いてしまう。
サイードのすてきな横顔や、ハンドルを握るきれいな手をちらちらと目に留めながら、マリーは自分の家がもっと遠ければよかったのに……と思っていた。
やがて車は音もなく、アパルトマンの前に停車した。
「今日も送ってくれて、ありがとうございました」
マリーが少し名残惜しい気持ちでシートベルトをはずそうとしたとき、突然、携帯電話が鳴った。
マリーの携帯だ。
「もしもし?」
あわてて出た。
こんな深夜に電話が鳴ることはめったにない。
いったいなんだろう?
「マリー? ジャンだ。店が火事になってる。すぐに行ってくれ。ぼくらもいま向かってるところだ」
マリーはサイードの車で店にとんぼ返りした。
あたりは騒然としており、店の前に人だかりができていた。
炎はあがっていないが、黒い煙が店の裏手からもうもうと出ている。 マリーは動転し、消火作業にあたっている消防士に駆け寄って話を聞こうとした。
「危ない、さがって!」
消防士にどなられる。
「店の者です、いったいなにがあったんですか?」
マリーはいてもたってもいられなかったが、やはり消火が第一だ。
警察も来ていたが、彼らも周辺の安全を確保するのにてんてこまいだった。
一時間後、完全に火が消えたことが確認され、ようやくマリーたちは消防と警察から話を聞くことができた。
そのころにはアンリとジャンも駆けつけていた。
異変に気がついた近所の常連からジャンの携帯に連絡が入り、ジャンがすぐにマリーに電話してくれたのだ。
詳しい出火原因はこれから調べなければならないが、火元は厨房らしい。
もちろん、マリーはしっかりと火元を確認してから店を出ている。
わけがわからなかった。
「放火やテロの可能性は?」
アンリが訊いているのを耳にして、ぞっとした。
放火? テロ?
まさか、そんなおそろしいことが?
マリーの頭に、最近気になっていた違和感のことがよぎった。
なんの確証もないささいなことだから話すかどうか迷ったが、思いきって話してみた。
警察よりも、アンリやジャンのほうが親身になって心配してくれた。
そして、なぜかサイードも……。
もちろん、火事騒ぎとなにか関係があるかどうかなんて、まったくわからない。
なんの関係もないほうが可能性は高いだろう。
とにかく今夜はもうみんな家に帰ることになり、サイードはふたたびマリーを車で送ってくれた。
しかも動揺が収まらずに不安そうな顔をしている彼女に「今夜はきみについていよう」と言ってくれた。
マリーはほっとして、あからさまに安心した表情を見せてしまった。
サイードはいつになく庇護欲をかきたてられるのを感じていた。
もちろん、女性にはこれまでも丁重に接してきた。
イスファハールでは男性が女性を守るのは当たり前のこと。
おそらく世界のなかでも、男が女を守るという意識は強いほうの国だと思う。
しかし裏を返せば、それは女性が男性に従属させられているということでもあった。
女性――とくに王族の女性――がひとりで出歩くことなどないし、外に出るときは侍女や夫と連れ立って出かけなければならない。
服装も、かならず肌の隠れる民族衣装を身につけ、布で頭や顔を覆い、夫以外の男にはできるだけ肌を見せてはならない。
しかし、七歳からヨーロッパで教育を受けているサイードは、そういった古い因習にとらわれているわけではなかった。
ヨーロッパの女性はとても自立していて、向こうから積極的に近づいてくるし、少々あからさまな態度をとる女性も多い。
とくに芸能人やモデルといった、同性の争いが熾烈な業界にいる女性は……。
ただ彼は、そういう女性が好ましいとか好ましくないとか、判断をくだすつもりはなかった。
近づいてくる者は好きにさせたし、離れていく者は離れるままに放っておいた。
とにかく、女性はおしなべて丁重に扱わなければならない存在だというだけだ。
だがマリーと出会って以来、女性との距離の取り方がこれまでとは変わってしまったように思う。
パーティの日に彼女をみずから送っていったこと。
彼女のテレビ収録を見にいったこと。
本来なら彼が行くことのないような街のビストロに足繁く通っていること。
これまでの彼なら考えられなかったことだ。
どんな女性に対しても、そんなことをしたいと思ったことはなかった。
だが、マリーのことは見ていたい。
彼女のいる空間に、自分もいたい。
自然とそう思う。
とにかく、マリーの周辺でおかしなことが起きていたとは知らなかった。
知っていたら毎晩でもビストロに寄って、彼女を自宅に送り届けただろう。
ボディガードをつけたってかまわなかった。
彼女は気のせいかもしれないと言っていたが、少しでも不安があるのなら放っておいていいはずがない。
今夜も、店があんなことになって動揺しているマリーをひとりにしてはおけなかった。
サイードは迷わず、彼女のそばについていることに決めた。
彼女もほっとしたような顔をしていた。
やはりこわい思いをしているのだ。
しかし、その決断を、彼はすぐに後悔することになった。
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