03 - パリ編 勝負のラクダ・ロースト

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サイードの挨拶(?)のキスに戸惑いながらも、いよいよパーティ当日がやってくる。

王子として華やかな世界の中心にいる彼を目の当たりにすると、なぜかマリーの心はざわついて……。

作:ケイ・ブルー(Kay Blue)

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 あれはなんだったの?

 先日の打ち合わせのときのことを、マリーは何度も思い返さずにはいられなかった。

あれは……キス?

でも一瞬のことだったし、軽くふれただけだし、ただの挨拶だったのかしら?

 もしかしてイスファハールにはああいう習慣があるとか?

 考えても答えは出ないし、だれにも聞けない。

 ましてや当の本人には。


 サイードのアパルトマンには、パーティ当日までにもう一度行くことになっていた。

 その日はアンリとジャンも一緒に、三人で。

 ただサイード本人は急な会合が入ったとかで立ち会わず、彼に会うことはかなわなかった。

 もし会えても、キスのことを尋ねるなんてできなかっただろうけど……。

 内装と給仕を担当するムッシュー・クレメンタインとそのスタッフも交え、全員で現場のアパルトマンを見ながら、あらゆる打ち合わせをした。

 当初はムッシュー・クレメンタインの会社が料理も担当するはずだったと知って、マリーは申し訳なく思った。

 しかし「サイード殿下の決定にはだれも逆らえないからね」と、彼はなかばあきらめたように笑っていた。


 自分の店〈レトワール〉に帰っても、やることは山ほどあった。

 アンリやジャンとメニューの細部を詰めたり、試作品をつくったり、食材の発注をしたり。

 忙しくするうち、二週間などあっという間に過ぎた。

 通常業務もこなしながら数百人規模のパーティ料理の準備をするのは、並大抵のことではない。

 毎日が目のまわるような忙しさで、挨拶程度の軽いキスのことなど気にかける余裕はなくなってしまった。


 そしてとうとう、パーティ当日。

 夜七時からの開催のために、マリーたちは午前中からサイードのアパルトマンに入った。

 いまは準備や仕込みに追われている最中だ。

 マリーたちだけでなくクレメンタインのスタッフも大勢出入りし、サイードのアパルトマンは寝室以外、すっかりパーティ会場へと様変わりしていた。

 テーブル、椅子、フラワーアレンジメントや食器などが運び込まれ、モノトーンだった応接間はきらびやかな色彩にあふれている。


 開始まであと三十分。

マリーは食材の最終チェックに余念がなかった。

 今日はデザートだけでなく、すべての料理を三人で力を合わせてつくりあげなければならない。

 最初の段階で出すものはすでにほぼ仕上がり、そろそろテーブルに運んでもらってもいいころだ。

 目玉料理として、イスファハール王国から直送されたラクダ肉も用意した。

 もちろんスパイスは極秘の調合。

 塊肉でじっくりと焼きあげ、出来たてをパフォーマンスとして切り分けながら出すことにしている。

 その役はアンリかジャンに頼もうと思っていたが、「今日の料理長はマリーだろ」とにこやかに言われ、まかされてしまった。


「準備の具合はどうかな?」

 なめらかな低い声が響いて振り返ると、キッチンの出入口にタキシード姿のサイードが立っていた。

深い黒の生地は最高級のもので、漆黒の髪と同じくらい混じりけのない黒。

 シャツは真っ白。

 ウエストに巻いているカマーバンドもまた極上のシルクに違いない。

 そんな服をさらりと着こなしてしまう高貴なたたずまいと物腰に、マリーは思わず見とれた。

「は、はい、すべて順調に行っています」

どうにか声を絞りだす。

「それはよかった。もうすぐゲストたちが到着しはじめるころだ。よろしく頼むよ」

 そこから厨房はさらに活気を増した。

 というより、てんてこまいだ。

 できあがった料理がどんどん運び出され、大きなテーブルに整然と並べられていく。

 ゲストたちが次々に到着し、サイードが優雅な笑顔とともに出迎える。

 いかにも重鎮といった風情のお偉方、新聞や雑誌でよく見る顔、きらびやかな男女、マスコミの取材も入っているようだ。

 そんなゲストたちのあいだを、給仕係が流れるように動いて飲み物や料理を供していく。

 どの料理もあっという間になくなっていった。

 しゃれているが気取りすぎず、歓談しながらでも楽につまめる工夫がしてある。

 なじみのフランス料理もあれば中東らしさをアピールした目新しい料理もあり、バランスがよくて食べ飽きないのだ。

 マリーたちは厨房で調理をするだけでなく、手が空いたときには率先してみずから料理を運んだ。

 大皿で出しておけばよい料理もあるが、ひと皿ずつ盛りつけて出したいものもあり、どうしても皿数は多くなる。

 そんなこんなでフロアに出たとき、マリーは一見してお偉方とわかる紳士たちにサイードが囲まれているのを見かけた。

「きみももう三十か。そろそろ身を固めてもいいころじゃないかな」

「知り合いのご令嬢に、とてもすてきなお嬢さんがいるのだがね」

「第一夫人はお国の方を選ぶとしても、第二夫人からはさまざまな事情を考慮して、ということになるのだろうね。正規の奥方は四人だそうだが、お相手候補はもう何人も挙がっているのかな?」

 思わずマリーの足が止まった。

 サイードの結婚話……?

 一国の王子が三十歳ともなれば、当然、いくらでも縁談が舞い込んでくるのだろう。

 しかもサイードが持てる妻は、ひとりだけではなく四人……?

 たしかハーレムが持てると聞いたことも……。

 なぜか、マリーは心臓がぎゅっと縮こまったような気がした。

 ばかみたい。

 そんな反応をする理由なんて、なにひとつないのに。

「そうですね、そのようことはいろいろと難しいものでして……いずれにせよ、国のためになるようにと考えていますよ」

 サイードはそつなく答えていた。

 国のため……やはり彼は王子であって、国のために働き、国のために行動するんだわ。

 マリーはなんとも複雑な、自分でもよくわからない気持ちになった。

 もやもやした気分を振り払うように頭をぐっとあげると、足早に厨房に戻っていった。


「サイード、今日は大盛況だね」

 テレビプロデューサーのドミニクがサイードのかたわらにやってきた。

「ああ、おかげさまでこのとおり」

 サイードは会場を示すように手を振った。

「クレメンタインもがんばったようだけど、なんといっても料理がすばらしい。さっきから会話もそこそこに、皿をとっかえひっかえしてるよ。こういう場でそんなことは珍しいんだが」

「だろうね。ぼくは主催者ということもあってあまり口にできていないが、話をした客からは例外なく料理をほめられている」

「そこなんだよ、きみが料理を頼んだあのマリーとかいう女性だが――」

 そのとき、会場の一角から歓声があがった。

 焼きあがったラクダの塊肉ローストが、盛大に湯気をたてながら登場したのだ。

 アンリとジャンが大皿を運び、そのうしろに切り分けナイフを持ったマリーがつづく。

 皿がセッティングされると、たちまち客が並んだ。

 マリーはにこやかな笑みとともに肉を切り分け、ひとりひとりに皿を渡しはじめた。

「ほら、あの彼女だ」

 ドミニクがこれを機にとばかりに話を再開した。

「料理の腕もさることながら、なかなかの美人じゃないか。料理人っていうのは言わば裏方の仕事だし、料理の世界はまだまだ男社会だからこれまで注目されることもなかったんだろうけど、彼女はテレビ的にも魅力的な素材だよ」

「テレビ?」

 サイードがけげんな顔をした。

「うちの情報番組に、いろんな業界で活躍する旬の女性を紹介するコーナーがあるんだ。テレビとしては、もちろん美人のほうが絵になる。ぜひとも出演交渉したいね」

「なるほど」

 サイードは釈然としないながらも、そう言うにとどめた。

「そのときは、イスファハールの名や今日のパーティのことも出してくれたまえ」

「もちろんさ。彼女の店にも取材に行こうかな。どういう店なのか興味がある。まあ、店だけじゃなく、本人にもね」

「なに?」

 サイードの顔に警戒の色が走った。

「どういうことだ?」

「ご存じのとおり、フランスで活躍している女性というのは、はっきり言って気が強いだろう? しかも美人となると、たいていお高くとまっていて、わがままだ。しかし彼女はひかえめで、気さくで、おまけに美人ときてる。もちろん料理の腕前はすばらしいし」

「ずいぶんと彼女を高く買っているものだ」

「きみだって、彼女を今日の料理人に大抜擢したじゃないか。おっと、なくならないうちにぼくもラクダをもらいに行こう。失礼」

 ドミニクはサイードに手をひらりと振って、ラクダ前の行列に向かった。

 サイードはなんとなくおもしろくなかった。

 たしかにマリーは美人だ。それは認めよう。

 とくにあの吸い込まれそうなすみれ色の瞳は、いつも見入ってしまう。

 ピンク色の唇は口紅をつけていなくても愛らしいし、いまはコック帽の下に隠れているチョコレート色の髪はつややかで、最初の打ち合わせのときにはあの巻き髪にふれてみたくて指がうずいた。

 あの髪に指を通して、その下にあるうなじをつかんで……。

 いや、こんなときになにを考えているんだ。

「ここにいたの、サイード」

 露出度の高いシルバーのドレスをまとったイヴォンヌがやってきた。

 真っ青に塗った爪の先にはスワロフスキーがキラキラと光り、大きく開いた胸元や背中にもゴールドのパウダーがはたかれている。

 ドレスの肩ひもは糸のような細さで、タイトなロングスカートには深いスリットが入って惜しげもなく美脚をさらしていた。

 こうまでむきだしにされると、これ以上見たいという気も失せるものだ。

 それよりも、きっちりとコックコートを着込んだマリーのほうが、なぜか二重に布地の重なったあの前を大きく開いて中身を暴きたいという衝動に駆られる。

 先日のひかえめな紺色のスーツのときでさえ、彼女と話をしているあいだじゅう、スカートの下に手をもぐりこませて素肌にふれてみたいという気持ちが消せなかった。

「さっきドミニクと話していたわね? 来年のドラマのヒロインはわたしにぴったりの役だと思うのよ。あなたからも彼に言ってもらえないかしら」

 イヴォンヌは上目遣いでサイードに体をすり寄せた。

「ビジネスの話なら、きみの事務所から話を持っていったほうが確実じゃないかな」

「うちの事務所からより、あなたからのほうがドミニクも話を聞いてくれるわ」

 イヴォンヌはさりげなく甘えるようにサイードの胸に手を当てた。

「ところでこのアパルトマン、すてきね。今日はこんなふうにパーティ用にセッティングされているけど、ふだんの内装もぜひ見てみたいわ」

 プライベートで誘えということだろうか。

「あいにく、ここでゆっくり過ごすことはあまりないんだ。たいていハキムに管理をまかせて、ぼくはあちこち仕事で飛びまわっているのでね」

 サイードはやんわりと牽制した。

 イヴォンヌは気まぐれ程度にモデルや女優をやっているが、父親はフランス財界の有力者で、家柄としては悪くない。

 何度かパーティのエスコート相手として連れ立って出かけたこともあり、世間では彼女がイスファハール第二王子の第三、第四夫人あたりに収まるのではないかという噂も出ているようだ。

 サイードとしては積極的に話を進めたい相手でもなかったが、邪険に扱う理由もまたなく、流れにまかせているというところだった。

 しかし彼女のほうは、もっとサイードに近づきたいという空気をあからさまに漂わせていた。

「じゃあ、またそのお仕事に同行させて? いつだってエスコートの相手役はいたほうがいいでしょうし、空いた時間には羽根も伸ばしたいでしょう……?」

 含みのある色っぽい目を向け、サイードの腕に豊満な胸を押しつける。

「まあ、そのうちにね」

 サイードは体をすっと引いた。

「本日のラクダ料理をいただこう。客たちの反応を知りたい。きみもどうかな」

 彼はマリーがせっせと肉を切り分けているコーナーへ颯爽と足を踏みだした。


 ラクダのローストは見事だった。

 王宮の料理長でも、ここまで風味豊かに仕上げられることはそうそうないかもしれない。

 スパイスの使い方が絶妙だ。

 その点は、のちほど出てきたタルトにも言えることだった。

 やはりなつかしい味がする。

 この味ならば、今日のゲストたちにイスファハールという国を味覚からも伝えることができたのではないだろうか。


 サイードはそこで、タルトと一緒に並んだ色とりどりのデザートに視線を泳がせた。

 思わず頬をゆるめ、目にも麗しい何種類もの一口サイズのプティフールをすばやく手元のプレートに取る。

 ゲストたちの相手が忙しくて今日はなにも口にできないかと半ばあきらめていたが、ラクダのローストだけでなく、とくに楽しみにしていたデザートまで味わうことができるとは……。

 そうだな、まずは、ひときわ目を引く真っ赤なフランボワーズソースのかかったケーキから……。

 そのとき空いた皿を下げようとキッチンから出てきたマリーは、少し離れた場所から偶然、サイードの幸せそうな顔を目撃することになった。

 プレートに乗ったいくつものプティフールを次々とほおばり、あっという間にたいらげている。

 先日の打ち合わせのときにも紅茶に砂糖を五つも入れていたし、もしかしなくても、彼って甘党……?

 マリーは思わずくすりと笑った。

 かわいい……。

 あんなに一分の隙もなさそうな超のつくハンサムなのに……。

 意外な面を見たことで、なんだか胸があたたかくなった。

 そしてなにより、見るからにおいしそうに食べてくれたことがとてもうれしかった。


 パーティは大盛況のうちにお開きを迎えた。

 客は思い思いに帰路につき、スタッフたちはてきぱきと片付けに取りかかっている。

 手慣れたもので、瞬く間に元どおりの部屋が再現されつつあった。

 サイードがふとキッチンのほうに目をやると、ドミニクがマリーと話しているのが見えた。

「けして悪い話じゃないと思うんだ。きみたちの店のいい宣伝になるよ」

 ドミニクは大きな身ぶり手ぶりを交えて熱心に説得していた。

「でも、テレビだなんて、そんな大げさなこと……」

 マリーは及び腰だ。

「それだけの腕を持ってるんだ。パリじゅう――いや、フランスじゅうの人に紹介させてよ。同業で働く女性にとっても励みになるだろうし」

 さすがドミニクの話術にはよどみがない。

「せっかくのお話だ、受けてみたら、マリー?」

 迷うマリーの後ろから、私服に着替えたアンリとジャンがあらわれた。

「ぼくらの店を大勢の人に知ってもらうチャンスじゃないか」

 ふたりは使った道具類をまとめてミニバンに積み終わり、帰る支度もできたようだ。

 仲間にもすすめられ、マリーはためらいながらも取材とテレビ出演を承諾した。

 首尾よく約束を取りつけたドミニクは、連絡先を手に入れると上機嫌で帰っていった。

 もう時間は深夜をまわっている。

 アンリとジャンは、店に道具類を戻すのはやっておくからマリーはこのまま帰ってくれていいよと言い残し、先に出発した。

 マリーはこれから着替え、責任者として片付けの最終チェックとサイードへの挨拶もしなければならない。

 帰りはタクシーを呼べばいいだろう。

 とにかく着替えをすませようと、用意されたパウダールームに向かった。

 しかし足を踏み入れたとたん、マリーの目に飛び込んできたのは、白い光沢のある大きなソファにゆったりともたれかかった金髪の美女だった。

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