02 - パリ編 スウィート・ティー

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超大金持ちで超ハンサムのイスファハール王国第二王子サイードから、突然、彼の主催するパーティの料理づくりを依頼されたマリー。

翌日、パリの中心地にある彼の豪華アパルトマンまで打ち合わせに出かけるが……。

作:ケイ・ブルー(Kay Blue)

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 予想もしなかった言葉に、マリーも含めて一同はまたもや驚いた。

 いったいなにがどうしてそうなったのか、みなキツネにつままれたような顔で数秒が過ぎる。

 最初に反応したのは、サイードの隣にいたイヴォンヌだった。

「なにを言うの、サイード? たったいま会ったばかりのこんな若い料理人、しかも女の料理人に、大切なパーティの料理をまかせるなんて。クレメンタインと相談するんじゃなかったの?」

 クレメンタインと言われたグレーのスーツ姿の男性が、テーブルの端から身を乗りだした。

「そうですよ、王子。うちのケータリング部門と明日の午後は打ち合わせを……」

「それは中止だ。明日の午後は、きみと相談したい」

サイードはマリーのほうに顔を向けた。

クレメンタインが青ざめる。

「あの……」

マリーはサイードとクレメンタインを交互に見ながら、遠慮がちに答えた。

「共同オーナーがふたりいるので、彼らと相談してからご連絡してもいいでしょうか?」

「わかった。明朝、ここへ連絡をくれたまえ」

そう言って差し出された名刺には、剣と鷲をかたどった紋章が入っていた。

節のしっかりとした長い指。

 けっして女性的ではないのに美しい。

 マリーは自分の小さな傷ややけどだらけの手が急に気になり、そそくさと名刺を受け取った。

 ほんの少しかすめた指先はなめらかで、あたたかかったような気がした。


 翌日の午後早く、マリーはパリ八区の壮麗なアパルトマンの前に立っていた。

 パリの中心部であり、もっとも優雅な地区に建つ、オスマン建築のクラッシックな建物。

 シャンゼリゼ大通りからも歩いて一分とかからない。

 今朝、マリーはまず自分の店に行き、共同オーナーのアンリとジャンと話をした。

 前の晩にとりあえず電話で簡単なことは伝えておいたが、アンリもジャンも最初から今回の話には乗り気だった。

「すごい話だよ、マリー! 絶対に引き受けよう!」

 早くもジャンは興奮していた。

「うん、ぼくらみたいな駆け出し相手にこんな話はめったにないよ。大きなチャンスだと思う。まあ、ほんとうにぼくらの手に負える仕事なのか、話をよく聞いてからになるけど……」

 さすがにアンリは慎重だが、早くも料理のアイデアまで浮かびつつあるようだ。

「そうよね、ちょうど店が休みの日と重なってるし、きっといい経験になるわ」

 マリーも前向きになってきた。

 アンリもジャンも同じ料理学校の出身で、料理にかけてはそれぞれが深い情熱を持っている。

 おおいに夢を語り合った彼らが一緒に店をやろうと誘ってくれたおかげで、マリーはいま忙しくも充実した毎日を送っていた。

 物静かで繊細なアンリに、おおらかなジャン。

 じつは男同士でカップルの彼らは、性格は違えど、どちらもやさしくて頼りになる大切な仲間だ。

 マリーはパーティの料理を引き受ける方向でサイードに連絡をし、今日の仕込みまですませてからアンリとジャンに店をまかせ、サイードのアパルトマンに向かったのだった。


 最上階の三階――実質的には四階――にエレベーターで上がったマリーは、重厚な両開きの扉を前に尻込みした。

 こぢんまりとしたスタジオタイプの自分の部屋とは大違い。

 呼び鈴を押すのでさえ勇気がいる。

 ほかに扉が見当たらないところを見ると、どうやらこのフロアにはサイード王子の住まいしかないらしい。

 ライオンの顔をかたどったプレート内にある金色のボタンをおそるおそる押すと、ほどなくして扉が開いた。

 三つ揃いのスーツをきっちり着こんだ初老の紳士が姿をあらわす。

「あの、マリー‐ルイーズ・フェリエです。パーティの打ち合わせで、サイード氏とお約束を――」

「お待ちしておりました、側仕えのハキムでございます。どうぞ、お入りください」

 一歩入ったそこは、建物の外観からは想像もつかない現代的な空間だった。

 黒の分厚いじゅうたんが敷かれた玄関ホール。

 廊下を進んで案内された先は、そのひと部屋だけでマリーの住まいがすっぽりと入りそうな広い客間。

 全体的にモノトーンで、大理石やレンガなどの自然素材がふんだんに使われている。

 スタイリッシュで値段の見当もつかない家具や調度品が美術品のように配置され、金糸を織り込んだ重たそうなグレーのカーテンが天井から床まで一ミリの乱れもなく掛かっていた。

 バルコニーと窓に近い一画には、十人くらい座れそうな白のソファセットとガラスのローテーブルがしつらえてある。

「どうぞ」

 ハキムがソファを手で示した。

「お掛けになってお待ちください」

 ハキムはいったんさがり、マリーはひとり残された。

 ソファに腰をおろすと、思った以上にやわらかく沈みこみ、あわてて腰を浮かせて浅く座り直した。

 足元の色彩豊かなペルシャ絨毯が、モノトーンの部屋のなかでアクセントになっている。

 その絨毯の模様をじっと見つめていると、きびきびとした靴音が聞こえた。

 はっと顔を上げてドアのほうを見たマリーの目に、サイードの姿が飛び込んできた。

 ブラックジーンズに白いリネンのシャツ。

 昨夜と比べてずいぶんカジュアルな格好だが、上質のものだというのはひと目でわかる。

 マリーはあわてて立ちあがった。

 サイードに少し遅れて、ハキムもティーセットの乗ったワゴンを押して入ってきた。

「今日はよく来てくれた」

 しなやかな動きで近づいてくるサイードに、マリーはどぎまぎした。

 顔をまっすぐに見るのは気が引けて少し視線を下にずらすと、襟元から覗く褐色でつやめいた肌に目を吸い寄せられ、あわてて顔に視線を戻した。

 昨夜はきっちりとネクタイが締められていてよく見えなかったが、喉ぼとけから喉元のくぼみへのラインまで美しい。

「座りたまえ」

 サイードがふたたびソファをすすめた。

 マリーの向かいに自分も腰をおろし、少し前かがみになって広げた両ひざのあいだで手を組む。

「当然のことだが、今日はコックコートではないんだな」

 どことなく楽しげな調子で言う。

 今日のマリーは仕事の打ち合わせということで、紺色のジャケット姿だった。

 おしゃれな格好とは言えないけれど、インナーには瞳の色とおそろいの薄紫色のシャツ――自分としてはお気に入りのひとつ――を選んだ。

 いつものコックコートは動きやすさ重視のパンツスタイル。

 でも今日は、ひざ丈のスカートからしなやかな脚が伸びている。

 厨房では帽子にたくしこんでいる長いチョコレート色の巻き毛も、そのままふわりとおろしてみた。

 ひっつめた髪よりも、なんとなく女らしく見えるような気がして……。

 昨夜のレストランのときと同じように、サイードの視線がぶしつけなほどマリーの全身をさまよった。

 なんだろう?

 やっぱりわたしってどこかヘンなのかしら?


 こんなふうに男性から見つめられるのは初めてというわけではないけれど、これまでは戸惑いを感じるだけだった。

 でも今日は――昨日もだけど――どうしてか胸がどきどきして体が熱くなる。

 くすぐったいような気もして、妙な緊張がどんどん高まってきた。

 そのあいだにもハキムは流麗な手つきでお茶をカップにそそぎ、ソーサーに乗せてマリーとサイードの前に置いた。

 さらにミルクとシュガーポットをテーブル中央に置くと、一礼してさがった。

 おもむろにサイードがシュガーポットに手を伸ばし、小さなトングで角砂糖を取った。

 ぽとんと一粒、お茶に投入。

 さらにぽとん、ぽとん、ぽとん、ぽとん。

 マリーは思わず数えてしまった。

 一、二、三、四、五。

 五個!

 王子は澄ました顔で紅茶をかき混ぜている。

 マリーの視線に気がついた彼が目を上げ、マリーはあわてて視線をそらした。

 甘いだろうお茶をひと口飲み、サイード王子はさっそく本題に入った。

「今回のパーティは、わがイスファハール王国が新たに設立する財団をお披露目するためのものなんだ」

「財団?」

「そう。わが国は石油やレアメタルのおかげで潤ってはいるが、残念ながら教育や医療や科学技術においては西欧諸国に遅れを取っている。真に豊かな国家となるためには、子どもたちや若者の育成が急務だ」

 そこで王子はまたお茶をひと口。

 マリーもティーカップに指をかけ、ストレートでいただく。

「そこでヨーロッパで高等教育を受けたい若者や、最新医療を必要とする子どもたちを支援する財団をつくることになったんだ。ぼく自身、ヨーロッパで教育を受け、事業を展開していることもあって、橋渡しの役目をまかされてね――つまり外交官というわけだ」

「そんなたいへんなパーティだったの……」

「そう堅苦しく考えることはない。たしかに招待客は政財界や社交界、公的機関にマスコミ関係に著名人といったお偉方が多いが、あくまでもぼく個人が主催してもてなす親睦会という建前だ。だから立食形式で、気取りすぎない料理を頼みたい」

「あの、お客さまはどれくらい――」

 おそるおそる確認する。

「入れ替わり立ち替わりで三百人はやってくるかな」

 サイードはあごに手をかけ、上目づかいで答えた。

「そんなに! うちのスタッフだけで間に合うかしら」

 マリーは青くなった。

「花やテーブル、食器などのハード面はべつに手配する。昨夜レストランにいた者のひとりがぼくの友人でね。給仕もそちらにまかせられるだろうから、きみには料理そのものを頼みたい」

 三百人という人数に弱気になりかけたマリーだが、ほぼ料理に集中すればいいと聞いて、心は決まった。

「わかりました。すぐに料理人たちとメニューを相談して、明日の夜までにはご連絡します、殿下。ご希望の料理などあれば――」

「サイードでいい」

 あらためて目を合わせ、王子はマリーを見つめた。

「国にいるのでもあるまいし、いちいち“殿下”なんて堅苦しい」

「でも……あの……」

 なんだか顔が赤くなる。

 どう答えればいいのかわからない。

 サイードが天井を仰いでふうっと息を吐いた。

「そうだな、昨日きみが焼いたタルトはぜひつくってほしい。どこかなつかしい味がして、自然と国のことを思い出してしまった。パーティでも、わが国のことを身近に感じてもらえるような料理があるといいな」

「お国のことを思い出していただけたなんて最高のほめ言葉です、ありがとうございます」

 マリーはほっとした以上にうれしくて、思わず話をつづけた。

「じつは昨日のタルト、亡くなった母のレシピノートに書いてあったものなんです。わたしもスパイスにはとても興味があって、自分なりに何年も勉強しているんですが、母のスパイスの使い方や配合はとても参考になって――あっ、もちろんそれは企業秘密ですけど!」

 にっこりと屈託なく笑う。

 サイードも釣られたように笑顔になった。

「ははっ、なるほど。中東独特のスパイスが隠し味だったというわけか」

“企業秘密”というおどけたマリーの言葉が気に入ったのか、サイードの表情が無防備にほころんだ。

 流れるような手つきで髪をかきあげ、ソファにもたれる。

 子どものような笑顔を見せられて、マリーはどきりとした。

 一分の隙もないように見える完璧な彼が、こんなふうに笑うなんて……。

 一国の王子を前に粗相をしてはいけないと緊張していたけれど、固まっていた体がほぐれるような気がした。

 けれど今度は、ちがう意味で胸がどきどきとせわしなくなってきた。

「わ、わたしにはまったく母の記憶がないので、ノートはほんとうに大切な宝物なの。母も料理人だったらしくて、母のレシピを見て練習するうちに、自分も料理の道に進みたいと思うようになって――」

 ああ、なんだか口がうまくまわらない。

 しかも、こんな身の上話をして――そんなこと、サイード王子にはなんの関係もないことなのに……。

「そうか。じつはぼくも早くに母を亡くしている」

 思いがけず、彼は気にしたふうもなく応じた。

「ぼくが五歳のときだから、きみよりは記憶が残っているが。ただ、母は生まれつき体が弱くてね。フランスの侯爵家から十八でイスファハールに嫁いだ母が料理をすることはなかったな」

 フランスの侯爵家!

 聞けば聞くほど、彼は雲の上の存在になっていく。

 母親がいないのは同じでも、王宮で召使いにかしずかれて育ったサイードと自分とでは、天と地ほども住む世界が違うのだ。

 マリーのほうは、十二歳まで養護施設に預けられていた。

 母親はマリーを産むときに亡くなってしまい、生まれたばかりの赤ん坊をひとりで世話することが父親には無理だったから――。


 打ち合わせは一時間ほどつづいた。

 昨夜初めてサイードに会ったとき、マリーは彼のことを華やかな取り巻きを連れた派手なセレブと思っていた。

 まわりにちやほやされていばっている、軽薄な男性だと……。

 けれどこうしてパーティの主旨を聞いて話し合いを進めるうち、自分の思い込みが間違いだったと気づいた。

 彼は自国の将来を真剣に考え、国のために全力で働いている。

 彼の出す要望やアイデアも、国を大切に思っていることが伺えるようなものばかりだった。

 豪勢な暮らしをしているお金持ちだからといって、ちゃらちゃらしているとはかぎらないのだ。

「それでは料理の詳細を料理人たちと相談して、明日にはご連絡します、殿――サイード」

 おおまかな内容が決まり、マリーは話を締めくくった。

「よろしくお願いする」

 サイードはその呼び方でいいと言うように唇の端をあげてうなずき、立ちあがった。

 マリーもつづいて立ちあがる。

 すかさずハキムがあらわれて、マリーを玄関まで案内しようとした。

 が、サイードは片手をあげて制止した。

「いい、ぼくが行く」

 そう言うとマリーの後ろにさっとまわり、腰に手を当ててドアのほうへとうながした。

 薄手のジャケットを通してでも大きな手のひらの熱が伝わり、マリーはどきりとした。

 やさしく添えられているだけなのに、とてつもなく熱く感じられる。

 心臓が早鐘を打ち、肌がちりちりするような感覚に襲われた。

 廊下を進むあいだも、彼の体温が隣で感じられて心拍数が上がっていく。

 ときおり肩や腰がかすめるようにふれあって、そのたびにどきどきして心臓がもたない。

 エスコートされているのにうまく歩けていない気がする。

「では、また会おう」

 玄関ドアの前、どこか甘く響く声で言葉をかけられて、マリーは返事をしようと王子のほうに顔を上げた。

 ふと視界が暗くなったと思った瞬間、唇にあたたかいものがふれていた。

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