第三十九話 〜怒りの戦狼〜

――どうして。


 眼下で繰り広げられている光景を、カプラはただ呆然と眺めていた。

 まるで白昼夢を見ているようだった。


 絶対に来ないと――そして来て欲しくないと――思っていた者が来てしまた。

 憎むように、怒るように、呆れるように。

 あの猫の館で告げたのに。

 見くびらないでと。


 本当は生きたいのだろう、生きたくて仕方ないのだろう。

 そう言われた時、確かにカプラの心は傷ついた。

 死の覚悟などとうの昔に出来ていたのに、それに気づきもしない相手に酷く腹が立った。


 だがそれ以上に、今なお傷つくことの出来る心があるのだと気付かされたのだ。

 山羊になったことを知った日、カプラは一人、密かに泣いた。


 そこまでして、世界は私を不幸にするか――。


 身体の全てが、泥のように溶け落ちていくようだった。

 もはや、何を憎めば良いのかさえわからなかった。


 長い間、復讐の化身として生きてきた。

 サヴァナに連れ戻された時のあの苦しみ。

 経験した者以外、誰にも理解しようのないあの苦しみを、この地に生きる全ての者に授ける。

 その意志だけが、カプラの精神を辛うじてこの世につなぎとめていたのだ。


 だから、そのような感情は存在するはずがなかった。 

 誰かに愛されたい、大事にされたい。

 そのような、ごく普通と言われる人の喜びなど、自分には全く無縁の感情だと思っていた。


 だが、絶望という泥の底から這い出た瞬間、その思いに目覚めた。

 世界を憎み、運命を憎み、ありとあらゆる物事を呪うだけの存在だった自分の、たった一つの願い。

 それはただ、幸せになりたかっただけなのだと。


 このままでは死ねない――。

 即座にそう思った。


 そうしてカプラは、当時身を寄せていたルーリックの元を去った。

 顔に炭を塗り、都市を徘徊し、有り金を叩いてカカポの獣面を得た。

 面無達にすがり、その哀れみを頂戴しながら、何とか普通に暮らせるまでになった。


 しかし弱肉強食のこの地にあって、カカポのような生き物は良い餌食だった。

 ハイエナ達に襲われていたあの夜道でロンに出会えてなかったら、今こうして息をしていないだろう。


 それからの日々は、彼女にとって唯一人間らしく過ごせた時間だった。

 その事実に対し、カプラは本心から感謝している。


 しかし、だからこそ彼らを拒絶し、突き離さなければならなかったのだ。

 自分と関わって良いことなど一つもない。

 そう、確信していたからこそ。


 だがロンは来た。

 そして中指を突き立ててきた。

 その意図はすぐに理解できたし、彼にはそうする資格があった。

 カプラは一度、彼を死の淵に追いやっているのだから。


――なのにどうして。


 今はあんなにも勇ましく戦っているのか。

 好きなように私を侮辱して、それで何もかもを忘れてしまえば良かったものを。


「ロン……」


 あの夜、タワーの屋上からカカポになって飛んだ時のことが思い出される。

 こんな私でも、自由になれるかもしれない――そう思った。


 新しい自分になって、愛する人に抱かれて、そして人として死んでいけるかもしれない。

 そう思わせてくれたロンのことを、カプラはこれ以上苦しめたくはなかった。


「私は……」


 騒然とする2階席。

 気づけば獣人化したロンが、水牛の背にまたがっている。


 凄まじい勢いで、こちらに迫ってくる――。



   * * *



「この貸しは高くつくぞ! ロン!」

「ああ、死ぬまでタダ働きしてやるよ!」


 2階席でエスカーと遭遇したロンは、獣化した彼女の背にまたがって突進していた。

 コンクリートの床を踏み砕かんほどの力強さで、四つの蹄を駆動させるバッファロー。


 五つ目の卑怯戦術――助っ人。

 その向かう先は金の山羊が納められたカプセルだ。

 そうすれば、獅子をその前におびき寄せられると考えた。


「本当にやりたい放題だな!」


 当然、山羊を守るべく大階段を駆け上がってくるジョー。

 2階席に立つと、カプセルの前方に仁王立ちし、その両腕を前方に構える。


「頼むぜ姉さん!」

「全力でぶちかましてやる!」


 床すれすれの位置から、巨大な兜のようなその角を振り上げる。

 ジョーもまた、限界まで重心を低くし、スモウレスラーのように拳で床を叩いて突進した。


――ベキシィ!!


 大質量の肉と肉がぶつかりあう。

 空間が弾け、かぶり付いていた客達がその衝撃波で吹き飛ばされる。


 ジョーは人の姿のまま荒れ狂う猛牛を受け止めると、足を踏ん張ってブレーキをかけた。

 ブーツの靴底がみるみる磨り減り、金属材がむき出しになって火花を上げる。

 大量の筋肉を積載した水牛が、その黒光りする肉体を脈打たせてさらに突っ込む。


「いまだ!」

「おう!」


 水牛の背から身を乗り出し、ロンは無防備になっているジョーの頭部に拳を振るった。


 右! 左! 右!


 しかしあたらない。

 ジョーはオスカーの突進を受け止めつつも、鋭い眼光でロンを睨み、地獄のような集中力で、その拳の軌道を“誘って”いたのだ。


「ちい!」


 良いように打たされていると察したロンは、飛び上がって水面蹴り――。

 これならばかわせまい――!

 しかしその時ジョーの首が――柔軟性も抜群――ありえないほど後ろに反り返った。


「化け物かよ!?」


 頭に血が上ったロンは、オオカミ形態に変化。

 体ごとジョーにぶつかっていく。


 目の前に迫るジョーの顔。

 しかし次の瞬間、それは金色の絨毯に変わり――。


「ぐっ……ここまでか!」


 エスカーの突進が止まった。

 その角を掴む腕は、まるで鋼鉄のケーブルを束ねたような、およそ生物とは思えない形状に変化していた。


 それは、獣人化した獅子の腕だった。


『GARAAAAAAAAAー!!』


 テーブルをひっくり返すくらいの気軽さで、質量1トンの水牛が放り上げられる。


「ぐおおおおお!?」


 ロンもそれに巻き込まれてもみくちゃになる。

 空中をひらひらと舞っている最中。

 獅子の獣人となったジョーの背後に、一瞬だけこちらを向いているカプラが見えた。


――おいおい。


 ロンはやれやれと首を振る。


――なんでそんな顔してんだよ……俺はお前を助けに来たわけじゃねえ。


 ロンに向かって拳を振り上げてくるジョー。

 その動作で見えなくなるカプラ。


――なのに何であんたは……。


 ロンの体をすっぽりと覆いつくほどの巨大な拳が飛来。


――そんな泣きそうな顔をしてんだ!


「うおおおおおおおっ!!」


 全身の力をすべて己の拳に集中する。

 空中戦エアリアル――!

 迫り来る拳に、拳を合わせる。


――ドガッ!


 だが、ゾウの鼻に打ち落とされるハエであった。

 絶望的な威力差に吹き飛ばされ、ロンの体は隕石のように2階席の落下防止パネルを突き破る。

 そしてフィールドめがけて、一直線に突っ込んでいった。


「ぐうううううぅぅぅ……ぉぉぉおおおおおお!!!」


 空中で体を回転させて、決死の受身を試みる。

 眼下にせまる地面に対して足を向け、尻、背中、肩、腕と全身を最大限に使って落下エネルギーを分散。

 ロンの体は、まるで椀を転がすような動きを見せた後、フィールド上で弾み上がった。


「――ぐぬうっ!」


 再度クルクルと後方宙返りをして着地。

 奇跡的に無傷――だが。


「うっ……!?」


 瞬間、視界がぼやけた。

 脳震盪の症状だ。

 地平線がぐるぐると回り、平衡感覚がつかめない。


 少し、無理な動きをし過ぎた――。


「……いやはや、しぶとい」


 獣人形態のまま、ジョーはたったの三歩で大階段を下ってきた。


「戦術はともかくとして、このわたし相手に素晴らしい戦果だ」


 ロンはぼやける視界に鞭打って相対する。


「……あんた、俺に何か恨みでもあるのかよ」


 手を抜かれているのは明らかだった。

 獅子の戦い方は、まるでこちらに、完全な敗北感を植えつけようとしているようだった。

 あたかも、ネズミを弄ぶネコのように。


「いいや、ない」


 きっぱりと否定するジョー。


「じゃあ何で、人をおちょくるような戦い方をする!」

「決まっているだろう、認めさせるためだ」


 そう言ってジョーはカプラの方を見た。


「私こそが、もっとも金の山羊を抱くのにふさわしい男なのだとな」

「はああ?」


 ロンにはジョーが言っていることの意味がわからない。

 カプラに男として認めてもらいたい――?

 でもなんで、俺を巻き込む必要がある。


「まだわからないのかね“ロン”」


 その時ジョーが、初めて相手の名前を呼ぶ。


「ああ、わからねえよ“ジョー”」


 ロンもまた、相手の名を呼ぶことで応える。


「そうか、ならば教えてやろう……」


 ジョーは太い指先でカプラを指差した。

 続いて、その指をロンの方に振り向ける。


 そして、想像だにしなかった言葉を吐いた。


「彼女が君を――『愛している』からだ!」

「…………はあぁ!?」


 ロンは頭の中が真っ白になった。


「私は、別の誰かを愛している女を平気で抱けるほど、無神経な男ではないのだよ!」

「…………」


 いよいよ頭がクラクラした。

 今起こっている事態を、上手く認識できない。


「……て、適当なことぬかしてんじゃねえ!」

「適当などではない、ゆるぎない真実だ。あの姿を見てみたまえ」


 言われて見た先、透明なカプセルの中のカプラが――。


「うっ……!?」


 本心をつまびらかにされた羞恥のために、両手で顔を押さえて泣いていたのだ。

 その姿を見たロンの胸に、真っ先に巻き起こった感情は――。


「……ふざけるな」


 ロンの全身から野獣の毛が噴き出す。


「ふざけるなあああああ!」


 あらゆる理屈を通り越した、ただ純粋な『怒り』だった。


「それは……テメエが言っていいセリフじゃねえ!!」


 何もかもがどうでも良かった。

 今はただ、腹が立って仕方がない。

 無神経極まりないセリフをのうのうと言ってのけた獅子に対する、脳みそが焼け焦げるほどの『怒り』しかない――!


「もうブチ切れたぜ……!」


 拳を握って前に出る!


「あの女がどうなろうと俺は知らねえ……でも今のあんたの言葉は、最高に気に食わねえええ!」

「ふふふ、ならばどうする?」

「決まってんだろ!?」


 ロンの背中から獅子にも勝る闘志が溢れ出す。

 もはや殴るだけでは済まない――。


「ぶっっっっっ殺す!」


――ウオオオオォォーーン!


 その遠吠えが決戦の合図だった。

 0.01秒でオオカミ形態へと移行したロンは、一瞬にして最大速度に加速。

 電光石火の素早さで獅子の足元に切り込んでいく――!


「ならば全力で答えよう!」


 同じく大獅子の形態に移行したジョーは、その巨体からは想像もできないほどの速度でロンを迎え撃った。


 もはや会場にいるどんな人物にも、二人の動きを追うことができない――。

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