第四十話  〜戦慄〜

 これは後のVTR解析によって判明した、獅子とオオカミの決戦、その一部始終である。


 圧倒的な戦力差のある相手に対し、ロンは唯一勝っていると思われる『獣化速度』を生かして攻め込んだ。

 ジョーが前足による初撃を繰り出すと同時に、一度人間形態へと移行、的を高くしてそこを狙わせ、インパクトの瞬間に再びオオカミ形態に変化した。

 そして前足と地面の間にできたわずか20cmの隙間を潜り抜けて、獅子の腹の下に飛び込む。

 この間、わずか0.4秒。


 ジョーは、視界から消えたロンの動きを気配だけで察知し、軽く飛び跳ね、後ろ足と尻尾による迎撃を開始する。

 ロンはジョーの下腹部に届くほどに飛び上がり、その後ろ足の攻撃を回避。

 それと同時に獣人形態に移行、獅子の腹の毛を掴んで軌道を変え、巨大な鞭のように迫ってきた尻尾を、さらにオオカミ形態に変化することで回避した。

 この間0.6秒。


 完全に後方に回ったロンは、オオカミ形態のままジョーの後ろ足に飛び乗り、そこから一気に尻の部分まで駆け上がる。

 するとジョーは驚異的な機動力で、一瞬にしてロンの方に振り向いた。

 傍目から見てその動きは、蜃気楼のようにゆらっとしたものが、突然弾けたようにしか見えなかった。

 ジョーはその旋回力でもって、背中をよじ登ろうとしてくるロンを振り払おうとしたのだ。


 だが、その時すでにロンは獣人形態に移行し、鋭い爪が生えた指先でしっかりと獅子の体毛を掴んでいた。

 そのままぐるりと一回転したところで、掴んでいた体毛を離して宙に踊る。

 振り向きざまに放たれたジョーの前足を、またもや獣化によって回避。

 しかも回避するだけでなく足で蹴り、その内側に巻き込む力を利用してジョーの顔面に向かって飛んだ。


 獣闘評論家の説明によれば、この獣化速度と獣化解除速度は脅威と言う他にないという。

 人から獣に移行することは比較的容易く、瞬時に行える者は僅かにいるが、その逆、獣化解除に至っては滅多にあるものではない。

 ロンという獣闘士の頭の中には、灼熱の炎と絶対零度の鉄が同居している。

 多くの専門家達が口々にそう評した。


 ロンは完全に獅子の顔面を射程に捉えていた。

 そして最後は獣人形態。

 五指に生えた鋭い爪を、すべてジョーの右眼に向けて突き出した。


 その瞬間のロンは、石のように無表情だった。

 彼の二つの瞳はどこも見てはいなかった。

 肉体と精神、そのすべてを宇宙の理と一体化させた、まさしく『龍』の如き姿がそこにはあった。


 勝負は間違いなく決していたであろう。

 相手があのジョー以外の者であれば。


 全存在を賭けた一撃が虚しく空を切ったとき、ロンの心中にどのような感情が巻き起こったのかは定かではない。

 背と腹に無数の見えない打撃を受けた後に突き落とされ、すかさず両手両足を地についた時、彼は一瞬だけ右の目蓋を引きつらせた。

 そして振り向いた時ににはすでに、目の前に獅子の巨大な前足が迫っていた。


 決定的瞬間にジョーは獣化を解除した。

 ロンの持つそれに匹敵するほどの早さで。

 そして考える暇も与えぬ速度で再獣化、止めの一撃を放ってきたのである。


 試合後も寡黙にして、悉くインタビューを避け続けたオオカミは、ただの一度だけこの時の心境を語っている。


 ライオン野郎の肉球が見えた。

 意外とぷにぷに、柔らかそうだった――。


 と。



   * * *



 カプラは見ていられなかった。

 およそ人間の体が耐えられるとは思えない衝撃音。

 それと同時に顔を手で覆った。


 ジョーに本心を見抜かれていることは知っていた。

 それを公然のものにされたことにも、とりわけの感慨はなかった。

 ただ、それをロンと戦う理由とされたことに、かつて経験したこともないほどの心痛を感じたのだ。


 自分は関わった男を全て破滅させてしまう。

 ずっと世界を憎み続け、生きることそのものが復讐だった自分は、そんなどうしようもない性質を得るに至ってしまった。

 そして、生まれて初めて心の底から愛することの出来た相手を、今またその魔性のために破滅させてしまうのだ。


 最後の最後でカプラは己自身を呪った。

 そして、早く戦いが終わって欲しいと願った。


 ロンに無事でいて欲しかった。

 自分とはまったく無縁の世界で、彼らしく生き続けて欲しかった。


 祈る思いで顔を上げる。

 瞳に飛び込んでくるまばゆい光。

 フィールドを囲む壁の一角が砕け散り、その瓦礫の下に横たわる何か。


 その姿が、濡れた瞳に映り込む――。



   * * *



「にゃあああ……」

「ロンー!」


 一階席、マスターとミーヤが、愕然とした表情でフィールド上の惨状を見ていた。

 完璧に崩れ落ちた壁。

 その瓦礫に埋まっているオオカミ面。


 獅子の攻撃をまともに食らったロンは、砲弾のように壁に激突。

 凄まじい衝突音とともにその壁に埋まった。


――おいおい!

――あれを見ろ!


 どよめき立つ場内。

 観衆が次々と指差した先には、人間の形態に戻ったジョーの姿がある。


 その表情には、確かな苦悶が見られた。

 ロンを攻撃するのに使った左手を庇うように押さえ、険しい表情で、壁に突き刺さったロンを睨む。


「むうう……」


 傷めた手をゆすってみる。

 どうやら手首から先を動かせないようだ。


破壊技サンダーだ……」


 マスターが呟く。


「サンダー?」

「うん、ロンの親父さん、レオの得意技……だった」


 明らかな過去形。


「相手の攻撃に肘を合わせるだけなんだけど、決まると凄く痛いし、下手すると後遺症になったりする。レオはあの技で一時期名を上げたんだけど……」


 再度、屍のようになったロンの姿を見て固唾を飲む。


「すぐに対策されちゃってね……。そう難しいことじゃないんだ。ただ、少しだけ慎重に攻撃をしかければ、それで……」


 ミーヤが見た先。

 ジョーはロンに向かって足を踏み出しつつ、傷めた左手を早くも握ったり開いたりしている。


「そして獅子長さんは、あれでも全力じゃなかった……」

「……そ、そんにゃあ」


 ミーヤの猫面の奥が、うるうると潤んでいく。



   * * *



「まったく……とんだ隠し球だ」


 ジョーがロンのすぐ側まで来る。

 まだ痺れの残る左手を振りながらしゃがみこみ、ぐったりと横たわるロンの足を引っ張ってその反応を確かめる。

 かすかにピクリと動くロンの足。


「……死んではいないな?」


 当然だろうという様子で、獅子は微笑を浮かべる。

 きちんと力の加減をしていたのだ。


 しかしその加減がなければ、この手首のダメージはより深刻になっていたかもしれない。

 そう思うと、少しだけ肝が冷えたが。


 あのタイミングで、ロンはさらに一歩踏み込み、ジョーの手首を破壊しにきた。

 考えてやったこととは思えなかった。

 恐らくはその体か、もしくは獣面の奥にでも染み付いていたのだろう。


 サヴァナは狭いようで広い。

 開闢以来数十万年という時の重みを、ジョーは改めて感じるのだった。


 だが、今度こそ本当に終わりだ。

 あとはカプセルの中で己の全てをまっさらにして泣いている山羊を、キングタワーに連れ帰って抱くだけ。


 そう思いつつジョーは、踵を返してその場から立ち去ろうとするが――。


――パラッ……。


 背後から、瓦礫が崩れる音がした。

 振り返るとそこには、オオカミ面の奥に、生きた光を宿した闘士の姿が――。



   * * *



――立たないでロン!


 カプラの声が聞こえた。

 んなこたわかってるよ――ロンは胸の内で毒づく。


 体中がバラバラに分解されたみたいに痛い。

 獅子の攻撃に合わせた右腕の骨は、冗談抜きに砕け散っていて、熱くぼやけたような感覚があるだけだ。


 それでも心臓はまだ動いている。

 肺は空気を取り込んでいる。


 俺の獣面マスクはまだ死んじゃいねえ――。


「やめたまえ、ロン」


 ジョーが静かに告げる。


「もうボロボロではないか」

「ああ、ボロボロだよ……強すぎるぜあんた……」


 左手で瓦礫をどかす。

 妙な感覚のする腹に力を入れ、鉛と化した上体を起こす。

 地に手を突き、膝を立て、立ち上がりきれずに横に倒れる。


――お願いもうやめて!


 会場中が静まり返るなか、カプラの高い声だけが響く。

 だが、少し黙っててくれよとロンは思う。


 これは男と男の戦いだ。

 そして、絶対に負けてはならない戦いなのだ。


「これ以上どう戦うというのだ。風が吹いただけで倒れそうではないか」

「……あるんだな、これが」


 全身をぷるぷると震わせながら、それでもロンは立ち上がった。

 砕けた右腕をダラリと下げて、吐いた血で汚れた獣面の奥に、獣の眼光を滾らせる。


「最後の切り札だ……本気でかかってこいよ……じゃなきゃ」


 よろり、一歩踏み出す。

 生きている左手を上段に構える。


「あんた……本当に死ぬぜ?」


 どんなブラフだ――?


 獅子でなくともそう思うだろう。

 どこからどうみても瀕死の重傷人だ。

 その体のどこをとっても、ネズミを屠るほどの力も残されていない。


「この期に及んで悪あがきかね」

「いいや……違う……これから本番だ。正真正銘の……一撃必殺……秘奥義だ」


 言いながらゼエゼエとむせる。

 喉に血が詰まっているのだ。

 このままでは、そう遠くないうちに気絶して倒れてしまう。


 だが、その時――。


「む……?」


 獅子の背筋に、ザワザワと鳥肌が走ったのだ。

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