第三十四話 〜雨音の中で〜

 それからの一週間、かつてないほどの獣闘熱にサヴァナは支配された。


 街の至るところで訓練に励む者の姿が見られた。

 朝からランニングに精を出す者、空き地でひたすらサンドバックを叩く者、古びた闘技場に繰り出して仕合う者。

 より強い獣面を求めて、命がけの戦いに臨む者も少なくなかった。


 たった一発、獅子長の顔にパンチを入れるだけで、金の山羊が手に入る。

 飲みきれない程の美酒、使い切れない程の金、そして抱ききれない程の美女――。

 サヴァナ虎の巻においてはっきり『非推奨』と書かれているそれら願いを、それでも叶えたいと思う者は数多いのだ。


 獣闘は、サヴァナに二枚目の獣面が舞い降りた瞬間から始まった。

 そして数十万年の永きに渡って続けられてきた。

 もはや歴史や文化といった次元を超越した、サヴァナ民の血肉そのもの。


 獅子長が言い放った『殴ってみたまえ』の一言は、そんな住民達の眠れる本能を、一瞬にして燃え上がらせた。



    * * *



 キングタワー最上階、獅子長の間のさらに上。

 タワー頂上部のピラミッド構造の内部に、こじんまりとした部屋がある。

 そこは獅子長が金の山羊を『食う』ために作られた部屋である。


 床面積は8m四方ほど。

 天井はアーチ状になっていて、一番高いところでも3m程しかない。

 全体的に手狭な感じのする、いかにも屋根裏部屋といった場所だ。


 天の不死鳥が見える方角には、直径1mほどの円形の窓が取り付けられている。

 厚さ16cmの積層強化ガラス製であるその窓は、対物ライフルの直撃にも耐える。

 その部屋は、およそ考えうる限りの侵略に対する準備が成されていた。


 そんな堅牢極まりない部屋の内装は灰色で統一されている。

 灰色の椅子、灰色の絨毯、灰色の壁紙、灰色のベッド。

 何もかもが灰色だ。


 分厚い雲に覆われた空までが灰色であり、そんな中で、金の山羊たるカプラだけが唯一の色彩を放っている。

 窓際の椅子に腰掛け、首だけを窓の外に向けている。

 そして、海のような水蒸気に沈んだ都市を見下ろしたま、微動だにしないのだった。


 明日、オープニングセレモニーが行われた後、カプラはここで獅子に抱かれることになる。

 恐らくジョーを殴れる者は一人も現れないだろうし、現れたとて、彼女の運命が変わるわけでもない。


 そこにはただ、静かに最後を待つ者の姿があった。


「機嫌はいかがかな、カプラ」


 そこに食事のトレーを手にしたジョーが入ってきた。

 ここは彼以外の者は立ち入れないので、服や食事はみな彼自身が用意しなければならない。

 獅子はカプラの傍らに立つと、ともに窓の外に眼を向ける。


「何か足りないものはないかね?」


 トレーをテーブルに乗せつつ言う。


「いいえ、何もかもが満ち足りています」

「そうか……ならば良い」


 ジョーは化粧台の方に眼を向けた。

 カプラが美しくあるために必要なものが、そこには全て揃っている。

 ベッドの横には運動器具まで置いてある。


 給湯装置を備えたバスルームにも、彼女が要求してきた品物が一通り揃えられている。

 カプラはそれらを使って、まるで自動メンテナンス機能のついた精緻な機械のように、自分の体を最高の状態に保ち続けていた。

 そしてジョーにとっては、それが彼女に望む全てだった。


 そのまま二人は、しばし窓の外に目を向けた。

 特に何かを見るわけでもなく、ただ頭の中をまっさらにして、互いの存在を感じる。


 そこには愛も憎しみもない。

 一切の人間的情動の介在しない、純粋な空白だけがある。


 この一週間、二人は必要最低限のことしか口にしてない。

 どこか機械的に過ぎていく日々。

 物質的には満たされていたが、やはりどこまでも空虚であった。


「あの日の空も、こんな色をしていた」


 獅子は静かに呟くと、その視線を女へと向けた。


 頬に生えた金色の毛と、その色とは対照的な灰色の空。

 まもなく水桶をひっくり返したような豪雨が訪れるだろう。

 多くの者が外で服を脱いで体を洗い、雨水をタンクに溜め始めるだろう。


 しかし、この天候にしたのは他ならぬジョーである。

 二人は一度、過去に出会っているのだ。


 今から七年前――。

 先代獅子長を倒すべく、ジョーが仲間達とともに宮殿に侵入したあの日も、まさにこのような豪雨が訪れる直前のことだった。



 * * *



 先代獅子長の宮殿は、現在セントラルコロシアムが建っている場所にあった。

 それは、切石積みの壁によって二重に囲まれた敷地の中央に鎮座する、壮麗なドーム屋根と無数のコラムからなる宮殿だった。

 今から260年前の獅子長が築き上げた建築物で、金の山羊の願いによって宮殿部分のみが館化されていた。


 宮殿の構造はどこか中東世界の神殿を思わせるもので、壁は少なく、開放的な中庭を備えていた。

 その防備の薄さは、ひとえに獅子が持つ力が強すぎることに起因していた。

 住居を要塞化する必要がまったくない――すなわち居心地の良さが優先されたのだ。


 しかし先代の獅子長に限っては違っていた。

 先代は非常に臆病で、警戒心の強い男だった。

 宮殿の周囲に二重の防壁を築き、その防壁の間に警備を置いて、自らは唯一鍵の掛かる空間であるハーレムに閉じこもり、滅多に外には出なかった。


 ジョー達は、その先代の臆病さを逆手に取ることにした。

 降雨の瞬間を見計らって、盟友達に正面を襲わせる。

 そして警備がそちらに集中している間に、ジョーが獅子に奇襲をかけるという作戦に出たのだ。


 陽動を確実なものとするべく、戦闘力指数500のトラ面は盟友に譲ることとなった。

 そうしてジョーはジャガーとなり、圧倒的戦力差の中で奇襲をかけるという、危険な役を買って出た。


 獅子面の1000に対して、ジャガー面は350。

 この戦力差で獅子に勝った者は、ジョー達の知る限り前例が無かった。


 だが、状況は思わぬ好展開となった。

 コンドルの足に掴まって空から宮殿に降り、そしてハーレムの入口まで来た時、ジョーはそこに一人の従者が血を流して倒れているのを発見したのだ。


 どうやら獅子に殴殺されたらしい。

 首が半回転以上もねじれ、頬骨と頚骨が完全に砕けていた。


 従者は、トラの襲撃を獅子に伝えに行ったのだろう。

 しかし何らかの理由で、獅子は気が立っていたようだ。

 危機を報告しにきたその従者を、内容を聞きもせずに殺してしまった。


 さらには、石の大扉も開けっ放しになっていた。

 こうしてジョーは、たやすく獅子のハーレムに侵入出来てしまったのだ。


 僅かな蝋燭の火で照らされた室内。

 大理石の壁に浮かび上がる巨大な獅子のレリーフ。

 濃密な香の匂いに満たされたその空間を、ジョーはジャガーの姿となって、足音一つ立てずに進んでいった。


 壁際のテーブルには食べかけの料理と、ワインで満たされたディキャンター、そして金色に輝く水差しが置かれていた。

 床には無数の酒瓶と、女の下着とおぼしき布切れが落ちてた。


 コの字状の奥まった造りになっているハーレムの中央まで来たところで、ジョーは様子がおかしいことに気付いた。

 あまりにも人気がなさ過ぎるのだ。


 部屋の一角に並べられた楽器類。

 部屋の中ほどにあるステージ。

 その前に置かれた金装飾の長椅子。


 ここはサヴァナ中、いや世界中から集められた美女と演者によって賑わっているはずの場所。

 それが今はまるで閑散としている。

 獅子の気迫さえ感じられず、無人の洞窟のようにひっそりとしている。


――アア……。


 ようやく己の心音以外の音が聞こえた。

 小鳥のさえずりのような、か細い声である。


 少女か――?


 しかも一人。

 大きな動きもないようだが……。


 ジョーはジャガーの形態を保ったまま、コの字状の部屋の角から、ハーレムの最奥部を覗き込んだ。


「――!」


 そこでジョーは、その双眸を見開くことになる。

 老いた男の背中――たっぷりと脂肪のついたその体に、一筋の白い線が絡み付いていたのだ。


 それが少女の細腕であると気付くのに、しばしの時を要した。

 獅子の部屋には、獅子と少女の二人しか居なかったのだ。

 他にも数え切れないほどの女を囲っているというのに、あんな年端もいかない少女一人と睦んでいるとは――。


――アア……アアア……。


 なおも鳴り続ける少女の声。

 獅子はすっかり夢中であり、侵入者に気付く様子も微塵もない。

 その太い腕で少女を抱き寄せ、かいがいしく愛撫を行っている。


 金糸のような髪をつまみ、指先で白い肌を撫で、濃い髭を蓄えた口元をその首筋に這わせる――。

 それは考える限り、もっとも想定していなかった事態だった。


 私欲と怠惰のために、サヴァナを混沌のどん底に突き落とした男が、あれではまるで人形遊びをする子供ではないか。

 信じがたい思いでその光景を見ていると、不意に少女と目が合った。


 ジョーは全神経を集中した。

 少女が悲鳴を上げた瞬間が、勝負の時。

 眼前に運命の分かれ目を見たジョーの内部に、真っ白になるほどの闘志がみなぎる。


――ウフフフ……。


「――!?」


 だが少女は声を上げなかった。

 その代わり、ジョーにだけ見えるようにして、背筋が凍るような微笑を浮かべてきたのだ。


 言葉を失う――という経験を、ジョーはこの時はじめてした。


 歳は10を越えている。

 だが15には達していまい。

 そんな少女が、老いているとはいえあの獅子を、すっかり手玉にとっている。


 さらにはジャガーと化している侵入者の姿を一目見ただけで、その目的を完璧に見抜いてみせた。

 本当に人間なのかと疑わずにはいられなかった。

 あの容姿にして、既に1000年の時を生きているようにさえ思われた。


 ジョーがそのままの姿勢で注視していると、少女の方から行動を起こした。

 獅子に弄ばれつつも、その動きを巧みに誘導していく。

 そして気付けば獅子は、ジョーに対して完全に尻を向けていた。


 まさに絶好機。

 少女の白い素足が、老いた獅子の背中に絡んでいく。

 ガラス細工のつま先が、おいでおいでとジョーを呼ぶ――。


 若き小獅子は迷うことなく駆け抜けた。

 限りなく肉迫するまで相手は気づかなかった。

 その鋭い爪を一薙ぎすると、老いた男のアキレス腱が2つまとめて断裂した。


「――!?」


 雷に撃たれたかのように跳ねる獅子。

 だが勝負は、始まった時点で決していた――。



 * * *



 部屋の円窓に雨粒が伝った。

 2つ3つと流れ落ち、まもなく全面を覆いつくす滝となる。

 分厚いコンクリート壁を突き抜けて、ザアザアと雨音が響いてくる。


「あの時の少女は君だった」


 カプラは窓を見たまま小さく頷いた。

 獅子もまた、それに合わせて頷く。


「もし君がいなかったら、わたしは獅子と一対一で戦うことになっていた」


 たてがみを撫でつつ、もしそうであった場合の結果に思いを馳せる。


「流石のわたしも負けていたかもしれない」

「……もしも貴方が来なかったら」


 しかしカプラは、静かに返した。


「私はいずれ壊されていた……」


 だから、貸し借りは一切無い。

 気後れする必要もない――。


 そのようなメッセージを込めて。


 すると獅子は、辛うじてわかる程度に微笑んだ。

 二者の間に感情の交換らしきものが行われたのは、この時限りであっただろう。


「わたしは君を使って、セントラルコロシアムを館化する。先代の宮殿を地中深く沈めるのに1年かかった。わたしのコロシアムを沈めようと思ったら、その10倍は時間がかかるだろう。そうやすやすとは消えてはなくならない」


 そう言って踵を返し、カプラに背を向ける。


「君の姿を模した彫像を取り急ぎ作らせた。それもコロシアムと供に館化する。サヴァナの象徴たる建築物の礎となった女として、君の名は後世まで語り継がれるだろう」


 消え行く女に対する、それはせめてもの餞か。

 しかしカプラの表情に、もはや変化はない。


「わたしは先代のようにはしない」


 そしてそのような態度を彼女がとることも、獅子はすでにわかっていた。


「わたしはわたしのやり方で、君を抱くまでだ」

「――はい」


 ただ無機質に。

 しかし、この上ない力強さをもって、カプラは獅子の言葉に答える。


「では、明日の7時に」


 獅子はそれだけ伝え残すと、まっすぐ部屋を後にした。

 扉が硬く閉ざされ、外側から重い施錠音が響く。


「…………」


 残された山羊は、しばし椅子に腰掛けたままじっとしていた。

 だがやがて、何かから顔を隠すように、とめどなく雨水の流れ落ちる窓へと、目を向けた――。

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