第二十七話 〜お人好し〜

 猫館本館の一室。

 向かい合わせに置かれたソファーと、シンプルな木製テーブル。

 他には、壁にかけられた風景画と薄型テレビしかない手狭な部屋である。


 その部屋の中に、マスターとカプラが向かい合って座っていた。


「…………」

「…………」


 二人とも背筋をのばし、その表情にくつろぎの様子はない。

 先ほどから、口を開くこともない。

 女の全身からは冷えきった感情だけが放たれて、イノシシ面の男は、ただ首筋に冷や汗を浮かべるのみだった。


 カプラはまるで別人になっていた。

 店にいた時はいつも朗らかな笑みを浮かべて、くだらない話にも付き合ってくれた。

 歌が上手く、客あしらいにも馴れていて、常連客からも慕われ始めていた。


 マスターにとってこの数日は、これまで経験したことが無いほどに充実した日々だった。

 それが今では、氷の彫刻のように見える。

 むしろこれが彼女の本性だったのかと思うと、マスターはなおの事やりきれなかった。


「ううん……」


 緊張を和らげようと、テーブルに用意されているタバコに手を伸ばす。

 ライターを取り出しつつ再び相手の表情を伺うも、そこに変化は一切ない。


 仕方なく火を点けて、深く吸い込む。

 そうして僅かに目線を下げながら、ため息のような煙を吐き出していった。


 昼間、ロンが店を飛び出して行ったあと、マスターはカプラとともに猫館へと向かった。

 カプラは幾分焦っているようだったが、ひとまず今までと変わりないカプラだった。

 猫館に着くと、すぐに二人は応接室に通された。

 そしてヤマネコ婦人に、しばらくここから出ないようにと告げられた。


 その理由は間もなく判明する。

 応接室に備えられている薄型テレビに、ロンとルーリックが戦っている場面が映し出されたのだ。

 どこか遠くの建物から望遠で撮影されていたらしく、映像のブレがひどかった。


 コロシアム周辺の平野を凄まじい速度で走り回るオオカミとエランドの姿を、そのカメラは追いきれていなかった。

 だが、その光景を見ただけでカプラには十分だったらしい。

 直後から、一切口を開かなくなってしまった。


 ヤマネコ婦人から、あのエランドは高級クラブ『フェニックス』の総支配人であることを告げられ、続いてカプラがその愛人だったことを知ったマスターは、そのままソファーの上に崩れ落ちた。

 そして、今外に出たら確実に命はないということを理解した。


 まもなく、窮地に陥ったロンのもとにミーヤが駆けつけた。

 それから数時間にわたる泥臭い戦いを、二人は狂喜するヤマネコ婦人とともに観戦した。


『まあ、本当に息がピッタリ! やっぱりあの子は、あの男とくっつくべきなのよ……! ねえイノシシさん、貴方もそう思うでしょう? 思うでしょう!?』

『…………』


 それは楽しそうに観戦する婦人の隣にあって、マスターは生きた心地がしなかった。

 滝のような冷や汗を流しながら、ひたすらロンの勝利を祈り続けた。


 それとは対照的に、カプラはまったくの無反応だった。

 ロンが最後の窒息攻撃をエランドに仕掛けた時も、僅かに息を吐くのみだった。

 戦いが終わり、担架で運ばれていくロンの姿を見ても、その様子に一切の変化は見られなかった。


 マスターは、猫館の従者が用意してくれた軽食を何とか口にして、それから獅子長がカプラを迎えに来るという連絡を聞いた。

 そして、もう店に戻れるというヤマネコ婦人の提案を断って、今に至る。


『……実は、金の山羊であることは知っていたんだ』


 と、ひとまず伝えてはみたが、それでもカプラは眉一つ動かさなかった。

 その態度は、それが彼女にとって既知の情報であることを意味していた。

 カプラが店に来た日の夜、シャワーを貸した時に、彼女は扉を半開きにしていた。

 今にして思えばあれは、あえて自分たちに山羊の髭を見せるためのものだったのだろう。


 そこまで思い至ったマスターは、酷く惨めな気持ちになった。

 そして、そんな今の自分の気持ちもまた、目の前にいる美女が自分以上に理解していることに気づいて、なおのこと惨めな気持ちになった。


「ふう……」


 マスターはタバコを灰皿に押し付けて、早々にその火を消した。

 そして時計の時刻を確認する。


 すでに、夜の七時を過ぎていた。もうあまり時間がない。

 今を逃せば、もう二度と言葉を伝える機会はないだろう。

 一つ大きく息を吐くと、マスターは静かに切り出した。


「僕は後悔なんかしちゃいない」


 女はただ無機質な表情でそれを聞いている。

 聞こえていることだけは、はっきりとわかる。


「君のために何かしてあげられたとも思っていない。ただ、この数日はとても楽しかった……」


 と言って、恐る恐る相手の目を見る。

 心持ち伏せ気味なその目は、どこも見てはいないようだった。


「ロンはどうだか知らないけどね」


 冗談のように言って、マスターは気を落ち着かせるために小さく笑った。


「僕には昔、嫁さんがいた――」


 そしてにわかに、身の上話を始めた。

 特に理由はないが、とにかく何かを伝えたかった。


「ガゼルの獣面を被った女獣闘士で、その時の僕より強かった。なんか気が合ってね、よく一緒に飲んだりしてたんだよ……。そのまま酔いつぶれて、どっちかの部屋でぐっすりなんてことも良くあった。それでさ……そのうち子供ができちゃって」


 そこまで言って相手の様子を伺うも、やはりそこに変化はない。


「もしかしたら……僕の子じゃなかったのかもしれないけど、でもとにかくあいつは言うんだ。『これはあなたの子なんだ』って。それで僕は、結構な大金を出して指輪を買って、ちゃんとした結婚式を挙げた。友達も呼んで、パーティーもして……それで……」


 言いにくそうに膝をむずむずさせる。


「それで次の日……嫁さんはゲートをくぐって外に出て行っちゃった」


 そうして再び、イノシシはカプラの顔を見つめる。

 そこに僅かな変化でも生じてはいないかと願いつつ。


「……高い指輪だけ持っていかれた。ガゼルの獣面と合わせれば、結構なお金になったと思う」


 だがやはり、カプラの様子に変化はなかった。

 精巧に象られた彫像のようなその表情。

 以前の愛嬌はどこにもなく、今となっては、その面影を思い出すことさえ難しい。


「――変わった話ね」


 しばらくして、カプラはそう口にした。

 それはどこか、機械で合成したような声だった。


「そうだね……よくある話ではないさ。そんな目に遭うのは、サヴァナじゃ僕くらいかも……」


 マスターはバツが悪そうに膝をムズムズさせる。

 そうしてしばらく、カプラの返答をかみ締めた。


 サヴァナには色んな人物がいるが、そこまでバカな目に遭うお人好しはそう居ない。

 それは、人に言われずともわかっていることだ。

 しかし――。


「でも、後悔はしていない」


 そう言って、再び視線を上げる。


「とても楽しいパーティーだった。こんな殺伐とした都市の中でも、上手くやればあんな楽しい時間を作り出せるんだと思ったよ。それに、彼女が外の世界に出て行ったのは正解だったとも思う。僕の子供は……たぶんだけど、僕の子供は、今も外の世界のどこかで元気に生きている。それを思うだけで僕は、何となく幸せな気分になれる。だから……後悔なんかしてない」


 そこまで言って、マスターは自分が涙ぐんでいることに気付いた。

 そのような確証など、どこにあるというのか。

 それもまた、人に言われずともわかっていることだ。


 しかし、そう思うことで救われるのも確かだった。

 流れ出たものを取り戻すように、イノシシは鼻で大きく息を吸う。

 そして何故こんな話をしたのだろうかと、今更ながらに疑問に思った。


「この話は、ロンにもしていないんだ。もしこの先会うことがあっても、言わないでおいてね」


 と言って、口元に指を当てる。


――トントントン


 応接室のドアがノックされたのは、丁度その時だった。

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