第二十五話 〜獅子の憂鬱〜

 獅子長の間。

 がらんとした広間の一角に設えられた、応接用のテーブルとソファー。

 その一つに腰掛けて、ジョーはB4紙ほどの大きさがある分厚い本をめくっていた。


 それは歴代獅子長の写真とプロフィール、そして簡単な実績が書き綴られた目録である。

 一冊1000頁。

 計4部あるその書物に、数十万年分の獅子長の経歴が記されている。


 恐らくは、いつぞやの獅子長が、金の山羊の願いで作ったのだろう。

 その目録は獅子の力を持ってしても破くことが出来ず、灼熱の業火に放り込んでも、焦げ痕の一つとして付かない。


 そんな摩訶不思議な書物に収められている獅子長の人数は、実に三万八千六百四十一人に及ぶ。

 そのNo.38641として記録されているのは、もちろん現職獅子長のジョーである。


「ふふっ……」


 だが獅子は、笑わずにはいられなかった。

 現職のみカラー印刷で、それ以下は全てモノクロ。

 そしてどの獅子長も同じ獣面を被っているので、大して代わり映えがしないのだ。


 目録を見る度に、一体どんな皮肉なのかと思ってしまう。

 命がけで得たこの地位も、かつて3万8千余人もの人物が経験してきた陳腐なものでしかないのだと、その目録は、はっきりと告げてくるのだった。


 唯一無二などという言葉は存在しない。

 みないつかはモノクロの影と化す。

 恐らくそれは、世の定めというものだろう。

 たとえ獅子長とて、長い目で見れば、数多ある前例の踏襲でしかないのだ。


「ふう……」


 ジョーはぼんやりと宙を眺めてから目録を閉じた。

 卓上のリモコンで窓際の照明を落として、ソファーから立ち上がる。

 いつしかサヴァナシティは、夕日に染まっていた。


 昼間、ユニコーンタワーの建設について牛館の面々と一悶着を起こしてきた。

 その一件の舞台となった郊外の農園は、ここキングタワーの一室からでもしっかりと見渡せる。


 農園の奥に輝く湖の水面。

 そして茜色の夕日を跳ね返して輝く、光の壁。


 この直径15kmの円形大地は、高く見下ろすほどに箱庭めいてくる。

 すなわち取るに足らない趣味、暇を持て余した獅子達の戯れ。

 ただ、そのためだけに供させる装置として。


 これまで多くの人物が、この都市に自己という名の永遠を刻もうとしてきた。

 そして恐らくは、その多くが果たされなかった。

 歴史という事実に思いを馳せ、これまで幾度となく苛まれてきたように、ジョーは己の気持ちが沈んでいくのを感じた。


 この感傷は、獅子長になってから殊更に強くなっている。

 有り余る獅子の力のために、彼はもう長いこと、闘士として仕合っていないのだ。


 こうして窓辺に沈む夕日を眺めていると、若き日のことが思い出される。

 ジョー・ザ・ターキーと呼ばれ、三倍以上の格差がある相手を軽々と屠って喝采を浴びていたあの頃が、間違いなく彼にとっての絶頂期であっただろう。


 ターキー。

 すなわちシチメンチョウの戦闘力指数は僅か20。


 その獣面をもって彼は、戦闘力指数60のコヨーテ、50のマングース、70のフクロウなどを相手に、無敗の戦績を残してきた。

 相手が強ければ強いほどジョーの心は燃え上がり、獣闘賭博の掛け金も同じように膨れ上がっていった。


 ファイトマネーは彼の獣面ランクではありえないほど破格なもの。

 戦いを終え、一歩闘技場を踏み出せば、夥しい数のメスが群がってきた。


 その中から三人ほど見繕って、すべて一夜で昇天させるのが日課であった。

 あの頃は何をやっても心が躍った。

 経験する全てが、栄光の色に輝いていた――。


「むうっ……」


 だがそこで、獅子は眉間を強く指で押さえて苦しげな表情を浮かべる。

 首筋から肩にかけて、筋肉が痙攣を起こしたように引きつる。


「ぐぬうう……!」


 そうしてしばらく震え続け、やがて首筋にびっしょりと冷や汗が浮んでくる。

 今もまだ、こうして突然のようにやってくる発作。

 それはかつて、薬物の大量投与を受けた際の後遺症であった。


 栄光に続いて思い起こされるのは地獄の日々。

 当時、闇社会を牛耳っていた組織に捕らわれ、気の狂れた人物によって、永遠とも思える苦痛と快楽を与えられた。

 つまり、サヴァナの頂点に立つ獅子は、薬物中毒という奈落を知る者でもあるのだ。


 常人ならば、即座に廃人と化すような責め苦であった。

 しかしジョーは、超人的な意志をもって機を伺い、獣面を奪って逃走した。

 その後は血を吐くような努力の末に禁断症状を乗り越え、ジャガーの獣面を入手して、すみやかに先代の獅子長を葬り去った。

 全ては、自分を奈落に突き落とした者達に対して凄惨な復讐を行うためであったが、それでもなおも満たされず、水晶球の力を使って次々と魔窟を破壊していった。


 そしてある日を境にジョーは、完全にもぬけの殻と化した。

 獅子長の座につき、全ての復讐を果たした後には、もはや何も目指すものが残っていなかったのだ。

 ただ見渡す限りの虚空と、おぼろげな足場の上にポツンと立つ、一匹の孤独な獣。

 ジョーが世界の頂に見たものは、ただ、それだけだった。


 長い、空白の日々が続いた。

 水すら口にすることなく、瓦礫の山に腰を下ろし、ただひたすら天を見つめ続けた。


――もう終わりなの?


 ある日、そんなジョーに、一人の少女が声をかけてきた。

 幼気な素顔をそのまま晒す、面無の者である。

 その気になれば、一瞬で肉片に変えてしまえる存在。


――ガッカリね。


 恐れを知らぬ少女は、それだけ言い残して去っていった。

 すっかり虚無に陥っていたジョーは、それで特に心を動かされることは無かったのだが、その時初めて、地上に目を向ける。


「…………」


 そこには、己の破壊行為が生んだ惨状が広がっていた。

 乾いた風が、瓦礫の荒野を吹き抜けていく。

 みすぼらしい面無達の影が、亡霊のように辺りを彷徨っている――。


――エターナル――


 その時、天から何かが降ってきた。

 ギラギラと照りつける、不死の輝き。

 胸の奥から熱がこみ上げてくる。


「ああ……」


 そうだ。

 生きる意味とは、自らの意志で創造するべきものだ――。


 そのような気付きとともに、思いがあふれていく。

 もはや、自分には何も無いと思っていた。

 倒すべき敵も、超克すべき障害も、心身を苛む飢餓すらも無いと思っていた。


 だがそれは、とんだ勘違いであった。

 倒すもの、超えるもの、渇望するもの。

 そういった概念に『よりかかる』ことでしか、己は生きてこれなかったのだ。


 なんと情けないことか。

 俺はまだ、自らの脚で立つことさえ出来ていない――。


「……ぬうう!」


 こうしてジョーは、虚無を乗り越えたのだった。


 そしてすぐに、サヴァナシティの再開発に着手した。

 外の世界より知識を取り入れ、風水師の助言を得て、自らの美意識の赴くままに辣腕を振った。

 やがて、うず高く積みあがった混沌でしかなかった都市は、セントラルコロシアムとその周囲空間を軸とする、都市らしい都市へと変遷していった。


 10棟のタワーを完成させ、その全てを金の山羊の願いによって館化する。

 それが、現時点におけるジョーの目標だ。


 そうすることで、サヴァナ世界にゆるぎない竜脈を発生させる。

 100年、1000年、10000年と時が流れ、ジョーと言う名がすっかり忘却されてしまったとしても、その魂は大地を巡る竜の流れとなり、永遠に生き続けるだろう。


 そんな壮大な野望だけが、唯一、ジョーの心血を燃え上がらせるのだった。


「ふう……」


 やがて、発作の嵐が過ぎ去った。

 獅子の心臓が再び動き出し、熱い血潮を全身へと送り出していく。

 ジョーは顔を上げると、いつの間にか部屋の片隅に立っていた、一人の男に声をかけた。


「今なら私を倒せたかもしれないぞ? トラよ」


 トラ――。

 そう呼びかけられた男は、確かにトラの獣面を被っていた。


 その戦闘力指数は500。

 肉食系においては、獅子に続いて強い。

 つまり、最も獅子の座に近い獣面の一つである。


「よしてくれよジョー。発作時のアンタに不意打ちかけるなんて、とんだ自殺行為だ」


 ランニングシャツとレザーパンツというシンプルな出で立ち。

 腕を組んで壁に背を預けていたトラ面の男は、そう言ってゆるりと首を振った。


 彼はジョーの古い友人であり、ライバルであり、そして供に先代を倒すべく戦った盟友でもある。

 獅子とトラがタッグを組んでいる状況というのは、サヴァナの長い歴史にも例が少ない。

 故にジョーの権勢は、相当に長く続くだろうと言われている。


「ふふっ、力の加減が出来なくなるからな」

「悪いね、訓練の相手にもなれなくて」

「いいや、君は悪くない。この獅子のマスク……そして私が強すぎるのだ」


 男は苦笑するしかない。

 その言葉に、一切の驕りが伴わぬ故に。


「して、どんな用件だ?」

「ああ、ちょっと面白い話が飛び込んできてな」

「ほう?」


 ジョーは窓に背を向け、トラの方を見る。


「『フェニックス』の総支配が獣面を奪われた。女がらみだ。しかもその女ってのがちょっと変わってる。突然店を飛び出して、今はカカポとかいう変な獣面を被っている」


 獅子の口もとに生じる笑み。


「気になるだろう?」

「ああ」


 獅子は素早くスーツの襟を直して、胸の内にわだかまっていた感傷を振り払う。

 そして瞬時に、頭を職務モードに切り替えた。


「とても気になる」

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