第十七話 〜ネコに懐かれた話〜

 ミーヤがいなくなると店内は一気に静まり返った。

 すると、喧嘩が収まるのを待っていたかのように、階段の方から足音が響いてきた。


「あ、あのー……」


 振り向けば、壁の影からカプラが覗き込んできていた。


「うあ……!?」

「……立ち聞きする気はなかったんだけど」


 ミーヤとのやり取りを聞かれたことに気付いて、ロンは顔を赤くする。

 しかし、あれだけ大声で罵り合っていれば、嫌でも聞こえてしまうだろう。


「もう入っていーい?」


 今度は店の入口の方から声が聞こえた。

 買い物袋をぶらさげたイノシシが、遠慮がちに覗き込んできている。


「おっさんの店だろ……。はやく開けてくれよ、腹が減ってるんだ」

「はいはい、いま開けるよ」


 マスターがホイホイと小走りで店内に入ってくる。

 カプラもギターを抱えて椅子に座る。


「塩味そのまま、硬めで」

「あいよ、100サヴァナね」


 片手鍋にタンクの水を注いで火にかける。

 ただ茹でるだけなのですぐできる。

 カプラはポロンポロンと弦を弾きながら、ロンの横顔をじっと見つめていた。


「ミーヤちゃんって、何であんなにロンに懐いてるの?」

「そりゃあ、命の恩人だからねー」


 答えたのはマスターである。


「ロンの女運の悪さを端的に表すエピソードなんだけど。聞きたい? カプラちゃん」

「うん、聞きたい!」

「お、おい……!」


 ちょっと待てよと立ち上がろうとするロンだが、その前にどんぶりを置かれてしまった。

 早い、あまりにも早い。

 どんぶりの中には、乾いた麺がほぼそのままの形で入っていた。


「早く食べないと伸びるよ?」

「むぐぐ……!? むしろ伸ばさないと食えねえだろ!?」


 マスターはブヒブヒと微笑みつつ、昔話を始める。



    * * *



 ロンとミーヤが出会ったのは今から7年前、ジョーが市制権を握ってまもない頃のことだった。

 当時は、獅子長によるスラム潰しがもっとも激しかった時期で、全人口の1割にあたる20万人もの住民が、路上生活者となっていた。


 ミーヤは、数ある貧民窟の中でも最大の規模を誇っていたリブラ魔窟の住民だった。

 200m四方ほどの土地に、5万人もの住民が犇きあって暮らす巨大スラム。

 そこは麻薬取引の巣窟でもあり、薬物を使った残忍なショーなどが日常的に行われていたが、まもなくジョーに目をつけられて壊滅した。


 住処を追われ仲間を失ったミーヤは、『インスタントMEN』のある区画に程近い路上に迷いこんでいた。

 そこで、オオカミの獣面を被った4人の男達に襲われていた。


『お前ら、このガキどうするよ?』

『どうするって言ったってよお』


 ミーヤは全身真っ黒に汚れて、ネコ面の下に伸びる髪も、使い古したモップのようにゴテゴテになっていた。

 着ている服は、タール状の汚れがこびりついたボロきれ一枚。

 まともな歯は一本も生えておらず、どれも乳歯で、抜けかけのぐらぐらだ。


『ぐへへっ……これをいける奴なんているのかよ?』

『ゴミみてえな成りじゃねえか』


 こんな有様の少女に劣情をもよおす男など皆無であろう。

 しかし飢えたオオカミ達は、何とかしてそこから搾取すべく、少女の体を蹴り飛ばしつつ頭を捻っているのだった。


『ひとまず連れて帰って洗うか』

『いっちょまえに、ネコ面なんかつけやがって』


 男達はミーヤの手足を掴むと、そのままずるずると引きずっていった。

 ミーヤは虫の息だったが、獣面だけは奪われまいと、しっかりその手で掴んでいた。

 7歳の子供とはいえ、獣面を被っていればかなりの力が出せる。

 無理に剥ごうとすれば破れてしまうだろう。


『抵抗出来なくなるまでいたぶってやればいい』

『物好きな奴に売れば、それなりの金にはなるだろうよ』

『面無しどもなら、案外喜ぶんじゃねーか?』


――ギャハハハハ!


 もはや生物に対する扱いではなかった。ミーヤは恐怖すら失っている。

 仲間の形見であるネコ面を被ってこれまで何とか凌いできたが、それも限界のようだった。

 声も出せず、助けを乞える相手もなく、ただの屑肉として売られていく他にない境遇を、ただ呪うしかない。


『ひ……ぐっ……』


 もう諦めよう――。

 そう思いながら、少女は獣面を掴む手の力を緩めていった。


 その後のことは知らない。

 ただ出来るだけ早く死んでやろうとだけ胸に決める――。


『ぐぶほおっ!?』


 だが、その時だった。

 突如、男の一人が何者かによって攻撃され、10メートル以上も吹き飛んでいったのだ。


『なんだてめえ!』


 ミーヤは指の隙間から乱入者の姿を見た。

 そこに立っていたのは、ウェスタンハットを目深に被った、一人のオオカミ。


『にゃ……』


 けして正義漢といった風体ではない。

 むしろ彼は、殺気だった悪魔のような眼をしていた。

 どうにも自分を助けに来たわけではなさそうだ――しかし。


『ひとと同じ面ぶらさげて……ふざけたことしてんじゃねえ! この盗人どもがあああー!』


 猛り狂ったそのオオカミは、たった一人で複数の相手に突っ込んできた。


『なんだコイツぁ!?』

『やっちまえええー!』


 男達はミーヤを放り出すと、全員でロンに飛びかかった。

 ミーヤの位置からは、あっという間にその姿が見えなくなる。

 だが次の瞬間、銀色の閃光とともに雄叫びが上がった。


『俺は今、すげえー腹がたってるんだあああ!』


――ウオオオオオオーーン!!


 ロンはほぼ一瞬のうちに獣化し、鋭い踏み込みで一人の喉笛を噛み切った。


『――ギャ!?』


 やられた相手は、何が起きたのかさえ解らなかっただろう。

 ロンの天性のスキル、瞬間獣化の能力だ。

 ロンはそのまま相手の後方、ミーヤの目の前に飛び出してきた。


『グルアアアアッ!!』


 今度は逆に、一瞬にして獣人の形態に戻る。

 そして動揺している男達の一人に、渾身の拳を振り下ろした。


――ズガガアアアッ!!


 凄まじい音がして、それを食らった男がビルの壁に激突する。

 すかさず踏み込んで、今度は後ろ足――ローリングソバット――をぶち込む。


『ぉう――!?』


――ズゴオオオオン!!


 男の体は、コンクリート壁をも突き破った。

 無数の瓦礫とともに、建物の内部へと吹き飛ぶ。


 残る相手は二人。

 どちらも遅ればせに獣人の形態になっていたが、既に戦意喪失。

 すっかり震え上がっている。


『ヤベエ……』

『こいつ、ヤベエ奴だ……!』


 彼らはさっさと仲間を見捨てると、オオカミの姿になって一目散に逃げていった。


『にゃ、にゃああ……』


 そんなロンの姿を、少女が道端にへたれこんだまま眺めている。

 近頃はこういうガキが増えた――。

 しかしロンは、大した感慨もなくそう思った。


『……けっ』


 人間の姿に戻り、不機嫌そうにつばを吐く。

 そして既に息のない男達の獣面を剥ぎにかかる。

 その様子を見つめていたミーヤの瞳に、突如として光が宿った。


『にゃああー!?』


 言葉にならない感情を、獣の言葉で解き放つ。

 ロンは一度ちらりとそちらを向いたが、無言のまま獣面をポケットにねじ込んだ。


『にゃああ! ふにゃあああーー!』

『うるせえ!』


 このときロンは、しばらくぶりに手に入れた牛肉の塊を、カラス男に奪い取られた直後だった。

 まさにはらわたが煮えくり返るほど苛立っていたのだ。


 その時、目に飛び込んできたのが、ミーヤを襲っている男達の姿だった。

 ロンはその姿を見て、耐え難いほどの怒りに駆られた。

 自分と同じオオカミ顔をした連中が、略奪行為に励んでいる――。

 ただそれだけで、我慢がならなかった。


『ついてくんな!』


 だからロンは、けしてミーヤを助けようとしたわけではなかったのだ。

 そのような境遇の子供は、当時のサヴァナには掃いて捨てる程いたのだから。


『ひにゃぁー!』


 だがミーヤは、一心不乱にロンの後をついてきた。

 それ以外に自分が生き残る術はないと確信して。

 不安に満ちたその瞳の奥には、一縷の希望が輝いている。


『だから、ついてくんなって!』

『ぎにゃああー!』


 ミーヤは痛めた足をずるずると引きずりながら、それでも懸命にロンについていく。


『ひいいーん!』

『むぐぐぐ?』


 どんなに突き放しても無駄だった。

 ミーヤはしっかり店までついてきた。



    * * *



「良いことをしたじゃないっ」


 カプラがジャーンと、感心したようにギターを鳴らす。


「それで結局、ミーヤちゃんを保護したのね?」


 ロンは心持ち耳を赤くし、むっすりと押し黙っていた。

 代わりにマスターが答える。


「保護したっていうか、猫館に紹介したんだよ。そうしたらロンってば、ヤマネコ婦人にすごく気に入られちゃって」

「へえー」


 ぼろぼろに汚れていたミーヤが猫館に受け入れられたのは、ひとえに二人の出会いが劇的なものだったからだ。

 猫館の主であるヤマネコ婦人は、およそ常人には理解しがたい、一風代わった性癖を持っている人物である。


「そのヤマネコという人はどんな人なの?」

「変態だ」


 ロンが答える。


「育てたネコを、気に入った男に抱かせるのが趣味なのさ」


 ヤマネコ婦人に気に入られた少女は、その手によって丹念な『教育』を施される。

 そして年頃になると、婦人のお気に入りの男を誘惑させて、その操を捧げさせるのだ。


「本当に色んな人がいるわね……この街」


 カプラは引き気味に言った。


 しかし、その言い方はどこか芝居がかっていた。

 サヴァナシティで猫館を知らぬ者などいない。

 仮にいたとしても、ゲートをくぐって間もない新参者くらいだろう。


 カプラは知って知らないふりをしている。

 ロンはそう確信するが、だからといって特に気にはしない。

 彼女なりに、己の正体を隠そうとしているのだろう。


「それで、そのお相手がロンなのね。あの子が私に文句をつけてくるわけだわ」


 カプラはそう言ってクスクスと笑う。

 そしてギターの弦をポロンと弾く。


「とんだ災難だぜ……人助けなんて、本当にロクなことがねえ」

「そう? とても可愛い子じゃない。ロンのことを心から慕ってるみたいだし」

「どこがだよ、あんな泥棒ネコ」


 ロンは、ミーヤが自分に付き纏ってくるのは、ヤマネコ婦人に洗脳されているからだと思っている。

 やれやれと言った様子で首をふる。


「でもロン、あの子ってロン以外の相手からは物を取らないんじゃない?」


 だが、カプラにそう指摘され、ロンはマスターと共にしばし沈黙する。


「そう言えばそうだね!」

「…………」


 続いてマスターが素っ頓狂な声をあげた。


「何で気がつかなかったんだろう! やだねえロン、いつのまにそんな色男になっちゃったの?」

「だ、だだ……だからなんだってんだ!」


 ミーヤが心から自分のことを慕っている?

 そんなことは今まで一度も考えたことがなかった。


 故にロンは焦った。

 もしそれが本当だったとして、一体どう振舞えばいいのか?

 まるでさっぱりわからない。

 ロンは、女性経験には乏しいのだ。


「答えてあげたら? 乙女の純情を裏切ったら後が怖いわ」


 カプラは薄暗い笑みとともに言う。

 何も言い返せないロン。

 確かに猫館を敵に回すことだけは避けたかった。

 それは、想像するだけでも身の毛がよだつ事態だ。


「でもアイツは、まだガキだ……」


 ロンは、苦し紛れの言い訳を始める。


「もう立派なレディよ」

「歳だって10も離れている……」

「そんなの全然関係ないわ」

「いやでも……」

「なあに、まだなにか文句あるの?」


 咎めるようなカプラの言葉。

 ロンはカウンターテーブルに手をつくと、静かに立ち上がった。

 その目は、妙に真剣だった。


「あるに決まってるだろ!」


 そして、誰もが耳を疑う言葉を吐いた。


「俺はたぶん……アイツより、かなり早く死ぬぞ!」

「ええっ?」

「ぶひ?」


 ロンの脳裏にはその時、育て親の姿が見えていた。

 その姿に己を重ねて、自分ではロクな父親になれないと考えたのだ。


 しかしそんなことは知らない二人は、しばらくロンが言ったことを理解出来ないようだった。

 だがやがて互いに顔を見合わせ、その肩をプルプルと震わせはじめる。


「「ぶふふー!」」


 そして噴き出した。


「な、ななな……何がおかしいんだ!」

「そんなことまで考えてたの!? 律儀ねえー!」

「サヴァナでそんなこと言う人、初めて見たよ!」


――アハハハハハハハ!


 二人はしばらく腹を抱えて笑っていた。

 ロンの帽子はすっかりずり落ちてしまって、どんなに直しても戻りそうになかった。


「ば……馬鹿にしやがって」


 首筋をぼりぼりとかきつつ、逃げるように二階へと向かう。

 マスクを被っていなかったら、顔の赤さでさらに笑われたことだろう。


「ねえロン」


 その後ろからカプラが、目じりに溜まった涙を拭いつつ声をかけてくる。


「私、あなたに会えて本当によかったわ」

「……う、うるせえっ」


 二階に上がってからもややしばらく笑い声が聞こえて、ロンはひたすら気分が悪かった。

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