第十六話 〜痴話喧嘩〜

 ロンには嫌いなものが沢山ある。


 今、一番嫌いなのは泥棒ネコ。

 その次に、自分を良いようにこきつかってくる水牛のお姉さん。

 三番目が寝起きの気だるさだ。


 あのお人好しなマスターのことも実はいけ好かないと思っている。

 家賃はタダで、飲み食いのツケも効かせてくれるが、要は体よく用心棒にされているだけだ。

 何もしなくても崩れてくる部屋の壁にも、近頃はうんざりさせられている。


 好ましいと思っているものは随分と少ない。

 いつも被っている帽子、堅くて丈夫なソファー、たまに貯金を叩いて購入する肉。

 本当に、それくらいのものだった。


 かいつまんで言えば、ロンはこの世界そのものを嫌っていた。

 思い起こせば、生まれた時点ですでに惨めだった。

 子犬のように路上に捨てられ、それを拾った男もまともではなかった。


 幼少時の記憶はロッカーの中の暗闇。

 朦朧とした意識の中で、隙間から零れてくる光を睨んでいた。


 物心つくと同時にゴミ漁りを始め、その後は徒党を組んでの略奪の日々。

 時に手痛い反撃を食らうこともあったし、その過程で命を奪われる同胞の姿も嫌というほど目にしてきた。

 この世界は自分達を苦しめるためにあるのではないかと思うこともしばしばだった。


 そんなサヴァナの日々に鬱屈したロンは、一度だけ外の世界に出てみたことがある。

 当時、外とサヴァナをつなぐ石のゲートは、誰でも自由に出入りができたのだ。


 ロンはその時10歳で、ネズミの獣面を所持していた。

 俗にチューチューファイトと呼ばれる、見世物じみた獣闘で日銭を得ていたが、常に観衆の嘲笑に晒されるそれは、けして長く続けたいと思えるものでは無かった。

 ゲートの外の世界に、一縷の望みを抱いたとしても不思議はなかっただろう。


『う……』


 ゲートを出た瞬間に飛び込んできたのは、目も眩むような高層建築群だった。

 少年は一瞬にして言葉を失う。


 そこはゲートシティと呼ばれる都市国家であり、サヴァナシティとの交易を独占することで繁栄を得ている地である。

 ボロ布を纏っている者など皆無であり、道行く者の多くが仕立ての良いスーツを着用していた。

 どこか如何わしい匂いはプンプンとしていたが、それでもその街は、別世界のように美しかったのだ。


 ゲートを中心として、舗装された道が放射状に伸びていた。

 空気は暑く乾燥し、時折、風と共に土ぼこりが舞った。

 分厚い強化ガラスが張られた店内を覗き込めば、柔らかなソファーに身を預けて、何か黒々とした液体を飲んでいる者達がいた。


 しばし呆然とその光景を眺めていると、客の一人と眼があった。

 その客は、薄汚れたロンの姿を見て露骨に顔をしかめた。

 明らかな殺意の込められたその視線は、およそ人に向けられる類のものではな無かったはずだ。

 早くも自分が場違いな『存在』であることを察したロンは、その場からすごすごと立ち去っていった。


 そのまま通りを200mほど歩いていくと、巨大な壁が立ちはだかっていた。

 大通りの突き当たりが検問所になっていて、そこから外に出るためには何らかの手続きがいるらしい。

 ロンは懐をまさぐり、所持金を数える。


 ネズミ面を売って得た3万サヴァナと、元から持っていた1万サヴァナ。

 ドルに換算すると、200ドル程度になっただろうか。

 しかし当時の少年にとっては、持っているだけでも足が震える大金だった。


 この金であの門の外に出られるだろうか?

 ロンはなけなしの想像力を駆使して考えてみたが、どうにも無理であるように思えた。

 検問所の前にはライフルを構えた警官が立っている。

 ゲートシティで悪事を働いたサヴァナ民は、その場で害獣のように射殺されるという話である。


 自分もそうなるかもしれない――。


 そう思うと足がすくんで動けなかった。

 この街にいる全ての人間が、己の敵であるような気がした。

 実際には、サヴァナ民の保護を行っている施設もあったのだが、文字を読めないロンにとって、そんなことはわかりようも無いのだった。


 そのうち奥歯が痛くなってきた。

 膝の古傷が突然開いて出血した。

 原因不明の腹痛が襲ってきた。

 サヴァナ世界の不死力に守られていた体が、その加護を失い始めたのだ。


 このままでは自分は死ぬ――。

 そう思ったロンは、短い滞在を終えてサヴァナへと戻った。

 そしてネズミの獣面を買い戻し、再び、惨めな闘争の日々へと帰っていった。



    * * *



 カプラが『インスタントMEN』に来てから数日が経過した。

 仕事明けにロンが店に戻ると、カウンター席でミーヤがふんぞり返っていた。


「待っていたにゃ」


 椅子の上にあぐらをかき、白のワンピースをだらしなく肌蹴させ、太ももの殆どを露わにしている。

 どうやら彼女の辞書に『はしたない』という言葉はないようだ。


「……またか」


 ロンはやれやれと首を振った。

 カプラが来て以来、ほぼ毎日のようにミーヤはやってくる。

 そしてカプラのことを根掘り葉掘りと聞いてくるのだ。


「何度来られても言うことは変わらねえよ。あいつはただのギター弾きだ」

「そこんとこは、もうどうでもいいにゃ。問題は、ロンがその女と一つ屋根の下で暮らしてるってことにゃ!」


 ミーヤは椅子から飛び降りる。

 そして腰に手をあて、その小さな胸を張ってロンの体に押し付けてきた。


「ミーヤがどれだけ心配しているか、少しは考えるにゃ!」

「……なんにもねえって!」


 なんでオオカミの俺が、カカポ如きに略取されなきゃならん――。

 しかしミーヤは、カプラがこの店に住み込んでいること自体が気に入らない。

 ある意味では、ハイエナ男よりたちが悪かった。


 ミーヤは猫館の住民であり、そのミーヤの反感を買うことは、猫館を敵に回すことに等しい。

 一匹一匹は弱くとも、数が集まればかなりの戦力になる。

 なにより厄介なのは、ネコの目はどこにでも光っているということだ。

 サヴァナシティでもっとも卓越した情報網を持っている集団、それが猫館なのである。


「そんなに気になるなら、本人にクギ刺しとけばいいだろが」

「それはもうやったにゃ! でもあの女、大人の余裕を見せ付けてくるにゃ! まさにネコをかぶってるにゃあー!」

「お前が言うことか!」

「にゃにおー!? これでもミーヤは、ロンの前でだけはネコを被らないにゃ! 甚だしく心外にゃ! 乙女のハートがボロボロにゃ! アボガドラーメンを要求するにゃ!」

「結局メシをたかりにきたのかよっ!?」


 ロンはひとまず席につく。

 マスターは買出しにでも行ってるのか、店内には居ない。


「帰れよ……。お前は猫館に戻ればいくらでもメシ食えるんだろうが。俺はいま余裕がねえ」

「そんなこと言って、ミーヤがいない隙にあの女とイチャつく気だにゃ」

「だから、しねえって……」

「なんでしないにゃ? あんな美人を放っておくなんて、まさかロンはホモだったにゃ?」

「なんでそうなる! 俺は女が嫌いなだけだ!」


 ロンははっきりとそう言った。

 その言葉は強がりではなかったし、ミーヤもそれを理解していた。

 猫面の少女は、その三角耳をたらんと下げてしょぼくれる。


「……じゃあ、ミーヤのことも嫌いにゃ?」

「当たり前だろ」

「はっきり言うにゃ!?」

「泥棒ネコなんか大嫌いだ! なんで人のメシ奪ってく奴を好きにならなきゃいけねえ!?」

「女なんて、大抵男の懐をかっさらってくものにゃ! ミーヤはお金と食料を大量にもってきてくれる男に愛を感じるんだにゃああー!」

「……ひらきなおりやがった」

「ロンは強いくせして器が小さいにゃ! 男ならラーメンの一杯くらい、バーンと気前良くおごるにゃ! そしたらミーヤも、バーンとお股を開いてあげられるんだにゃあ!」


 と言ってミーヤは、片足をロンの膝にひっかけた。


「出てけ! ぶんなぐるぞ!」


 ロンは拳を握り締めつつ、立ち上がる。


「ふにゃああっ?」


 ミーヤはその勢いで床に転げる。

 いよいよ、ロンの我慢が限界に達しようとしていた。


「オオカミなめんな! ガキの股ぐらあさるほど落ちぶれちゃいねえ!」

「ひ、ひどいにゃ……!」


 ミーヤは床に伏したまま、その瞳を潤ませる。


「一世一代の大告白だったにょに……」


 そこに居るのは、一匹の傷ついた小動物。


「……どうしてミーヤの気持ちをわかってくれないにゃ」

「ふざけるのもいい加減にしろ……」

「ふざけてないにゃあ!」


 一転、ミーヤは牙を向いて立ち上がった。

 そしてギラギラと、獣じみた視線を相手にぶつける。

 ロンもまた、険しい表情でその視線を押し返す。


「じゃあ、俺がいまラーメンおごったら、お前は本当に股を開くのかよ?」

「開くにゃ」

「嘘つけ! 大体お前は、股に鍵かけられてるんだろうが!」

「う、うにゃ……!?」


 言われて股間をおさえるミーヤ。

 彼女には貞操帯が装着されており、猫館の主の許可なしにそれを外すことは出来ない。


「悪いが俺は、あのヤマネコババアの趣味に付き合う気はねえんだ」

「そ、それは困るにゃ……。ロンがその気になってくれなかったら、ミーヤは一生これをつけられたままにゃ!」


 と言って、ワンピースの裾をめくりあげる。


「……むぐっ?」


 慌てて眼をそらすロン。

 ミーヤの股間には、ヤマネコ印の貞操帯がきつく取り付けられている。

 勝手に手を出したらサヴァナ中のネコが黙っていない――そういう印だ。


「ミーヤはロンのせいでこれをつけられるハメになったにゃ! 女の一番大切な自由を奪われたんだにゃ! ちゃんと責任とるにゃあ!」

「くそ……なんで俺なんだ」


 というか、ひどい当てこすりだとロンは思う。

 俺が一体何をした――。


「ヤマネコ様が言うんだから仕方ないにゃ! 覚悟を決めてミーヤ好みの男になるにゃ!」

「ちっ……!」


 ロンは帽子を脱ぐとクシャクシャに丸めた。

 そしてカウンター席に座り込んで拳を握る。

 自分が猫館の主に目をつけられている事実を思い出して、神をも呪いたい気分になる。


「うんざりだぜ……」

「にゃ……?」

「もう、何もかもうんざりだ!」


――パシン!


 クシャクシャになった帽子は、哀れにも壁に叩きつけられる。


「館に帰ってババアに言っとけ! 俺は知らねえって!」

「ひぐっ……!」


 そのロンの言葉を受けた直後、ミーヤの瞳が急激に潤んだ。


「ロンの……ロンのばかあー!」


 顔をくしゃくしゃにして叫ぶ。

 その仕草は、演技でも猫かぶりでもないようだった。


「こっちこそ知らないにゃ! あほ・馬鹿・チンカス! 甲斐性無しのロクでなしー! ロンのイカ臭いチンチンなんてこっちから願い下げにゃー!」


 そう言い捨てて、ミーヤは店を飛び出して行く。


「言うにことかいてそれか……」


 残されたロンは、一人静かにため息をついた。

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