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「え、古川くん寝ちゃったの?」
お手洗いから戻ってきた絵梨は、ボロボロの座布団に横たわって眠りこけている後輩くんを見てそう声をあげた。駅前の居酒屋は学生たちでごった返していて、私たちは窮屈な六人掛けの座敷席で、小さくかたまって飲み食いしている。私と萱島くんは向かい合わせに座っていて、彼の隣では後輩くん(古川くんというらしい、右の眼尻に小さな黒子のあるかわいらしい男の子だ)がくの字に折れ曲がって寝息を立てていた。萱島くんの友達だという男の子二人は、後輩くんのお尻を叩きながら、コンピューターがどうとか難しい話をしていた。
「こいつ酒ダメなくせに調子乗って飲んでたからなあ。綺麗なお姉さまと飲めるってんで舞い上がったんじゃないかな」
萱島くんがそんな風に笑いながらビールを飲む。絵梨は不満そうに頬を膨らませながら私の隣に座って、通りかかった店員にハイボールを注文した。二人ともたくさんお酒を飲んでいて、後輩くんほどではないが顔が少し赤くなっている。下戸な私は、隅っこでウーロン茶を飲んでいた。
「古川くんって下宿だっけ」
「いや、実家が尼崎にあるんだってさ。でもこの分じゃ今日は帰れないかもな」
「えー、じゃあどうするの」
「知らん。まあ最悪俺の家にみんな泊まればいいよ。絵梨ちゃんも家遠いんだっけ」
「そこそこ遠いよ。でも毎日電車で通うのしんどくってさ。いいなあ、一人暮らし」
「すればいいじゃん、気楽なもんだよ」
萱島くんと絵例が仲良く話しているのを聞きながら、私はぼんやりと天井に吊されたオレンジ色の照明を眺めていた。お酒の席ではいつも、頭が霞がかったようになって、周囲の音が遠くなる。お酒を飲んでいるわけでもないのに、場の雰囲気に酔ってしまう。
それにしても、萱島くんと絵梨はそんなに仲が良かったんだっけ。教員養成課程の授業で知り合ったと聞いていたけれど。
「こいつ前に付き合ってた女の子いたんだけどさ、金なくてデート代ケチってたらフられたんだってさ」
「古川くんってバイトはしてないの」
「してるよ。レンタルビデオ屋って言ってたかな。でもそのバイト代を全部、アニメのグッズとかマンガとか買うのに使っちゃうんだよ」
「アニメってどんな」
「よく分かんないけど、ガンダムとかエヴァンゲリオンとか」
「なんかイメージと違うね。オタクなんだ」
話の種にされている当の後輩くんは、依然ぐっすり眠ったままだ。私が見ていた限りそこまで飲んでいなかったので、相当弱いのだろう。顔が真っ赤になっていて、半開きの口からは涎が垂れている。
絵梨は後輩くんへの興味をかなり失ってしまっているようだった。実際に会って話してみると、思っていたのとは違ったのだろう。まあこの状態の彼を見て幻滅してしまうのも仕方ないことだ。彼女はハイボールを浴びるように飲みながらフードメニューを舐めるように見はじめた。
「真紀、お酒飲まないの」
何杯目かのジョッキを飲み干した萱島くんが訊いてきた。どうやらまた注文するらしい。
「うーん、私お酒強くないから」
「でもカクテルとかならいけるんじゃね」
「そうだよ、せっかく飲み放題なんだし真紀も飲みなよ」
絵梨がそう言って店員を呼ぶ。寄っているせいか、普段よりもずいぶんと大きな声だ。
「生中とハイボールと。真紀はカルーアでいい?」
「スクリュードライバーの方が飲みやすいでしょ。オレンジジュースだし」
「じゃあそれで。あと唐揚げとシーザーサラダと」
絵梨は次々とフードメニューを並べていく。そういえば後輩くんが起きていたときはあまり食べてなかったな、と思い出す。一応気になる人の前で、少し遠慮してたのだろう。
萱島くんは誰かが頼んだまま放ったらかしにされていた萎びたフライドポテトを、後輩くんの口に入れて遊びだした。後輩くんは口の中に入れられたそれを、くちゃくちゃと音をたてて咀嚼しだした。やめてあげなよ、と諭してみても、彼はおもしろそうに笑うだけだった。
運ばれてきたスクリュードライバーは、ひどく薄い味がした。
「絵梨ちゃんってハイボール飲めるんだ。意外」
「え、なんで。おいしいじゃん」
「大学に入った頃さあ、新歓でめっちゃ濃いハイボール飲まされたんだよね。それ以来ウイスキーが嫌いで」
「変に濃すぎる店たまにあるよね。何の新歓?」
「フットサルのサークル。練習がキツくってすぐやめたけど」
「長岡先輩がやってるとこでしょ。あの人すぐ後輩にお酒飲ますから」
「絵梨ちゃんなんで知ってんの」
「昔付き合ってたんだけどさあ。あ、ちょっと、煙草吸うならこっちに煙向けないでよ」
テーブルの端に座っている萱島くんの友達の一人が、煙草に火をつけた。白く細い煙がエアコンの風に運ばれて、テーブルの上を漂い流れてくる。服に臭いがついたらイヤなんだけど、と言いながら絵梨がそれを手で扇いだ。
だんだん頭の奥の方がズキズキと痛み出した。久々に飲んだアルコールのせいだろうか、さっきよりもみんなの話し声が聞き取りづらい。手のひらを握ったり開いたりすると、酔っているとき特有の、身体の輪郭がぼやけたような感覚がした。
そんな風にしていると、ポテトを口に咥えたままの後輩くんが急に起きあがった。その拍子に彼の肘がテーブル当たって、飲みかけで置いていた私のグラスが倒れる。オレンジ色の液体が机に広がって、机の端から垂れた滴が私の膝の上に落ちる。慌てておしぼりで拭き取ると、白いワンピースの生地に薄い染みができていた。
「ああ、なにやってんだよお前」
「ちょっと大丈夫?」
萱島くんが倒れたグラスを元に戻した。半分ぐらい残っていたのがほとんどこぼれてしまった。これ以上垂れてこないようにテーブルの端を拭きながら、えっちゃんが店員を呼ぶ。私はなんだかどうでもいいような気分になって、機敏に動く二人をただ眺めていた。後輩くんは状況が掴めていないのか、私と同じようにぼーっとしている。
店員が大きな台拭きでこぼれた液体を拭き取っている間、絵梨は後輩くんをわざとらしく睨みつけていた。彼はようやく意識が戻ってきたらしく、申し訳なさそうに肩を落とした。萱島くんと他の男の子たちは、こういうことに慣れているのだろう、後輩くんの肩を叩きながら笑っている。
私は新しく貰ったおしぼりでワンピースの染みを拭いていたけれど、湿るばっかりで全然落ちないものだからだんだん悲しくなってきた。それに頭の奥の痛みも増してきて、もういっそ帰ってしまおうかという気になった。
私が荷物をまとめだすと、萱島くんはようやく笑うのをやめて、私の方を向いた。
「あれ、今日泊まっていかないの」
「うん、ちょっとしんどくなってきたし」
「送っていこうか?」
「いい。ありがと」
財布から三千円を出して、絵梨に渡した。彼女は少し困ったように私を見たので、後はみんな楽しんで、と言って私は席を立った。
肥大する眼差し 鈴音 @suzune1994
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