第163話 ようやく裁定が始まったと思ったら……(前編)
「ようやく裁定の始まりですか……長かったですね……」
「ええ……。ですが、ブロワ辺境伯家側ももう限界なのでしょうね。向こうから裁定を言い出した以上、手加減はしませんけど」
俺が参加していない期間も含めて、二ヵ月近くも行われているブライヒレーダー辺境伯家とブロワ辺境伯家による紛争は、次の段階に移行していた。
すべての紛争案件で以前から持っていた利権や領地を失ってしまい、多くの貴族や家臣や兵士たちが捕らえられ、本軍同士の一騎打ちや魔法使い同士の力比べでもブロワ辺境伯家側は振るわなかった。
今回の紛争は誰が見ても、ブロワ辺境伯家側の不利があきらかであったのだ。
このまま時間と金だけを浪費する対峙を続けても、それでブロワ辺境伯家側が有利になるわけでもない。
どうせ負けなら、早めに決着をつけてかかる費用を抑えたい。
そういう腹積もりなのかもしれない。
だが、まだなにか隠し玉を持っている可能性もあり、裁定には俺も参加することになっていた。
さすがに、ブライヒレーダー辺境伯の暗殺を目論むとかは勘弁してほしい……そんなことをしたらブロワ辺境伯家は終わりなのでないと思いたいが、相手は追い込まれている。
警戒した方がいい。
「そうですね。ヴィルマさんとエリーゼさんもお願いします」
裁定の会場は、双方の軍勢が睨み合う草原の中心地点。
そこに臨時で大型テントを張り、どちらも二十名までの随員が認められるそうだ。
ブライヒレーダー辺境伯は、数名の家臣にブランタークさん、諸侯軍に参加している貴族数名とその付き人に、俺はヴィルマとエリーゼを伴って参加することになっていた。
正直なところ、ヴィルマがこの手の交渉で役に立つはずもない。
だが彼女は、エドガー軍務卿の養女であるし、護衛には最適なので選ばれた。
エリーゼも、あのホーエンハイム枢機卿の孫なので当然であろう。
この国に、教会の影響力がない場所などほとんどないのだから。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。今日は顔合わせくらいでしょうから」
貴族として交渉に臨むという初めての経験に、俺は柄にもなく真面目な表情を浮かべていたようだ。
それを見て、ブライヒレーダー辺境伯が話しかけてきた。
普通裁定は、何日もかかるのが常だそうだ。
まずは双方が独自の裁定案を主張し、当然そう簡単に合意には至らないので条件のすり合わせを行う。
夕方になれば今日はこれで終わりだと言ってお互いに引き上げ、また明日の朝から交渉を再開する。
それを何度か繰り返して大筋で合意したら、今度は担当の家臣たちが実務者協議を行って細則のすり合わせや、条件履行の確認などを行うそうだ。
「とはいえ、向こうは圧倒的に不利ですしね。こちらに支払う和解金をいかに減らすか。それを一番に考えているでしょう」
たとえば川の中州の取り合いなど、無理やりこちら側のものだと認めさせても、また時間が経つと元も木阿弥になるケースも多いそうだ。
ただ、双方ともそれは十分に理解している。
片方が独占をすると、もう片方にいらぬ禍根を残して争いが大きくなる可能性もあるそうだ。
世代が変わると、『昔に取られた利権を取り戻す!』と宣言して家中の支持を集めるような新当主が出て、また兵を出したりする。
結局キリがないので、所有、領有権は半分ずつくらいの方が長い目で見たらよかったりすることも多かった。
数百年前に奪われた領地や利権を取り戻すと大々的に宣言し、そんな当主を家臣や領民たちが熱狂的に支持した結果、結局兵を出さなければいけなくなり、かといってそう簡単に紛争で勝てるわけもなく、経費ばかりかかって大赤字。
でも、家臣と領民たちは結束したからいいのか……。
みたいなケースも多いそうだ。
「前の条件にしてほしければ、多額の和解金と、捕まった人たちへの身代金もありますね。アレ、捕虜の期間が長いと増額になりますから」
「そうなんですか?」
「捕虜は管理するのに金がかかるので、その分も上乗せですよ」
捕虜には、それぞれの身分に応じた待遇が必要となる。
当主だと金がかかるので、当然その費用は身代金に上乗せされるわけだ。
「それに、紛争の原因は向こうにありますしね」
ルールを破って、事前告知なしの奇襲まで仕掛けたのだ。
和解金の額はかなり高騰するはずだと、ブライヒレーダー辺境伯は俺たちに説明した。
「とにかく、まずは顔合わせです」
両軍が睨み合う草原の真ん中に、先に裁定を言い出したブロワ辺境伯家の兵士たちが急ぎ野営用の大型テントを設営する。
それが終わると、ブロワ辺境伯家側の兵士の一人が甲高い笛のようなものを吹き、暫くするとブライヒレーダー辺境伯家側からも同じ笛の音が響いた。
笛が、準備終了の合図なのか……。
色々と決まりがあって面倒なんだな。
「準備完了というわけです。では参りましょうか?」
ブライヒレーダー辺境伯に促されて、合計二十名の交渉団がテントの前まで歩いて行く。
到着するとテントの入り口が開かれ、中に入って来いということらしい。
ブライヒレーダー辺境伯を先頭にテントの中に入ると、二十名が向かい合って座れるように長テーブルと椅子がセットされていた。
「貴殿が、ブライヒレーダー辺境伯であるか?」
「いかにも。そちらはブロワ辺境伯とは違うようですが……」
「総大将代理の、カルラ・フォン・ブロワ様である」
手紙の通り、現在のブロワ辺境伯家諸侯軍の総大将はカルラという娘が務めているようだ。
彼女は、俺たちと大して年齢が違わないように見える。
オーダーメイドだと思われる高価そうなミスリル製のチェインメイルを着ており、腰くらいまである黒い髪を後ろで束ね、少し大和撫子風に見える美少女である。
身長は百六十五センチほどで、スタイルもよかった。
胸の大きさは、イーナとカタリーナの間くらいであろうか?
事前にエリーゼから聞いた情報によると、彼女はつい一年ほど前までは王都で生活をしていたらしい。
母親が貧乏法衣騎士の娘であったせいで他の姉妹たちに嫌われ、東部には一度も行ったことがなかったそうだ。
それが急遽呼び出されて総大将か……。
それだけ、ブロワ辺境伯家が混乱している証拠かもしれないな。
『俺。全然面識がないな』
『王都でブロワ辺境伯様から仕送りを受けて生活をしていたそうで、ヴェンデリン様と接触するのを避けたようです』
エリーゼ自体は、かなり長い期間面識があったそうだ。
ただ、親友同士というわけでもない。
カルラが教会に嫁入り修行も兼ねて勉学や家事などを習いに来ており、教会主宰のチャリティー活動などの手伝いを一緒にした。
お互いに自己紹介をして、何度かお茶を飲んだことがある。
そのくらいの仲だそうだ。
『教会で勉強ねぇ』
ブロワ辺境伯から仕送りがあるが、そう大金でもない。
母娘で実家に居候しているので、それなりの金額は入れないといけない。
『カルラさんのお爺様や伯父様などは、あまり優秀な方とは……』
爵位に差があったにしても、同じ王国から任じられた貴族同士なのに金欲しさに娘を差し出しているのだ。
当然、他の法衣貴族たちからもあまりいい目では見られていなかった。
さらに、その仕送りを利用して役職を得ようと付け届けなどをしているらしいが、周囲からの悪評に能力不足もあって、ただ金を無駄にしているらしい。
カルラが無料で学べる教会に通っていたのには、そういう理由があったそうだ。
『カルラさんとやらは、王都でもこっちでも残念な家族に振り回されていると』
『はい。そういうことになります』
そのせいなのかは知らないが、実は彼女、武芸はかなり嗜んでいるそうだ。
特に、弓とナイフの投擲術には優れているらしい。
『俺と被るなぁ……』
『前回の武芸大会で、弓の部で準優勝だそうです』
『レベルが違うぜ……』
いや、訂正しよう。
比較的弓が得意なバウマイスター一族といえど、束になってかかっても敵わない逸材だ。
前世的に言うと、『女版那須与一』というやつであろう。
弓とはいえ、武芸に優れているから総大将に任じられたのか?
ただ、さすがに今日は弓は持っていないようだ。
「総大将代理のカルラ・フォン・ブロワです。裁定交渉に応じていただき感謝しております」
結局、彼女が発した発言はそれだけだった。
主な交渉は彼女に随伴している家臣たちが行い、彼女は静かに座っているだけであった。
相続を争っている二人の息子の内のどちらかでもいれば主役になるであろうが、カルラは女性なので実務などしないからだ。
隠してはいるがブロワ辺境伯は病欠で、というかこの場にいない時点で彼が相当な重症であることはあきらかであった。
紛争で前線に出ない当主など、普通ならまずあり得ないからだ。
「(ふう……)」
「(どうかしましたか?)」
「(長くなりそうですね)」
ブライヒレーダー辺境伯は家臣の一人からなにかを耳打ちされると、溜息をつきながら俺に小声で話しかけてきた。
交渉の席にいる家臣たちが、すべて武官なのが気に入らないらしい。
そういえば前に、長男の支持母体が諸侯幹部に多いと聞いたような気がした。
「(今回の出兵は、長男のフィリップ殿が大きく関与しているようです)」
次期ブロワ辺境伯の座を争っている二人であったが、今はいつ死ぬかわからない父親から離れられないはず。
なぜなら、ここで総大将などをしている間にブロワ辺境伯が死ぬと、残っている方が遺言を偽造し、勝手に王都に向かって襲爵の許可を取ってしまう可能性があったからだ。
そこで、諸侯軍に支持者が多いフィリップが、彼らに手柄を立てさせて相続を決定づけるために兵を出した。
いくらブライヒレーダー辺境伯と険悪でも、この時期の出兵は王宮側の非難が大きくなるので、ブロワ辺境伯が健在ならば行わないはず。
焦った長男の暴走と見るのが正解なのかな?
次男であるクリストフの考えは不明だが、彼のシンパである文官たちが混じっていないので、彼は出兵に反対なのかもしれない。
エリーゼの話によると、一年ほど前に父親であるブロワ辺境伯から領地に呼ばれたカルラは、つい最近まで彼の世話もしていたようだ。
だが急に、諸侯軍の総司令官代理にされた。
当然お飾りであったが、もし本当に指揮を任されても困るので、本人もお飾りになるしかないという。
「(紛争絡みの大規模出兵って、代替わり直後とか、その直前によく起こりますから)」
現当主が明日をも知れぬ命で家臣たちに動揺が広がったので、跡継ぎが己の力を見せるために兵を出した。
または、襲爵直後に己の力を見せるために兵を出した。
どちらも、内部の不安を外に向けさせるためのもので、これは某半島の反日政策とか、某お米の国の世界の敵認定に似ていると思う。
「(ただ、そうなりますと……)」
勝てていれば裁定で有利な条件を得られたので、これはフィリップの功績となり、彼を支持する諸侯軍幹部たちの将来も明るかったはず。
だが実際には、完全なボロ負けで戦前に持っていた利権を失うか、取り戻すのに莫大な和解金を払わなければならず、加えて多くの貴族や兵士たちも捕まっている。
身代金だけでも、かなりの金額になるはずだ。
想像ではあるが、捕まっている彼らが掟破りをしてまで兵を出したのは、もし負けて捕まったり負けたりしてもその損害を補填するとかの密約があったのかもしれない。
だがそうなると、ブロワ辺境伯家の財布には大ダメージであろう。
「(悪いことに、クリストフ殿を支持している文官たちの姿がありません。ここで裁定案を結んでも、金を捻出できないかもしれませんね)」
ブロワ辺境伯家側の家臣たちが全員武官なので、和解金を支払うと約束しても、金を支払う準備ができていない可能性があった。
なにしろ、予算を執行する文官が一人もいないのだから。
あったとしても、ボロ負けのうえにブロワ辺境伯家の財政にトドメを与えかねない一撃である。
その失態をクリストフ支持の文官たちに指摘されれば、最悪フィリップは後継者争いから転落という可能性も大きかった。
「(いくら向こうがバカでも、現実くらいは……)」
見えているのかと思ったのだが、第一日目の裁定はただ双方が己の主張を言い合うだけで終了していた。
元々普通はそうなのだが、この状況でブロワ辺境伯家側がまったく譲歩しなかったのだ。
捕虜への身代金は払うが、紛争地帯の配分を無条件で戦前の状態に戻せと言い放ち、ブライヒレーダー辺境伯も含めて、参加しているこちら側の貴族たちが話にならないと激怒したのだ。
「そちらが先に掟破りをしてきたのですよ。それに反撃した私たちがなぜ損をしなければいけないのです?」
ブライヒレーダー辺境伯の言い分は、もっともであった。
向こうも内心ではそう思っているのであろうが、無条件に不利な裁定案を受け入れた時点で、自分たちの未来は終わるのだ。
いくら時間をかけても、引き分け程度の裁定案を勝ち取ろうと足掻いているらしい。
ただ、その裁定が長引けば長引くほど、ブロワ辺境伯家の財布には厳しくなっていく。
進むも地獄、退くも地獄とはこのことであろうか?
「今は有利でも、こちらが兵を出せばまた不利になるぞ!」
「へえ。また兵を出して紛争案件を取り戻すと。よろしい、我らもその時は兵を追加で出します」
元々、攻撃側よりも防衛側の方が有利であるし、その時には俺やブランタークさんやカタリーナもまた出陣する。
『エリアスタン』で麻痺させ、捕らえて身代金を要求する。
人を殺さずに済んで、お金まで稼げてしまう大変に美味しい商売なのだ。
「ところで、バウマイスター伯爵のご意見は?」
ブライヒレーダー辺境伯が、俺にも意見を言うようにと振ってきた。
ここで俺?
なにか言うしかないかぁ……。
「私としては、バウマイスター伯爵家とヴァイゲル準男爵家で捕らえた捕虜たちの身代金さえ貰えれば。あとの利権を元に戻す和解金は、卑怯なだまし討ちをかけた各貴族家の方々に誠意を持って交渉するしかないでしょうね。勿論またなにかあれば、寄親であるブライヒレーダー辺境伯殿の要請で、私も兵を出すでしょう」
俺の言い分に、交渉に当たっているブロワ辺境伯家側の武官たちは顔が真っ青になった。
また戦闘になって大量に捕虜など出たら、身代金で破産しかねないからだ。
かと言って、ここで自暴自棄になって人を殺す戦争になれば、今度は王宮から待ったがかかる。
今まで貴族同士の紛争が見逃されてきたのは、一部の暴走を除き、極力人死にが出ないようにコントロールされてきたからだ。
一種のガス抜きという扱いだから黙認されてきたわけで、それを破れば最悪ブロワ辺境伯家はお取り潰しの可能性があった。
「バウマイスター伯爵殿は、他になにか?」
ブロワ辺境伯家側の重臣と思われる武官が、俺に思わせぶりな口調で聞いてきた。
多分、トーマスたちをけしかてバウマイスター騎士爵領内で反乱を起こさせたのは、こいつなのであろう。
反乱はわずかな時間で鎮圧され、挙句に捨て駒にしたトーマスたちが新しい姓を名乗って俺の家臣になっている。
トーマスは実の兄を一騎討ちで捕らえてしまうし、ニコラウスのように他の姓を名乗って堂々と捕虜となり、向こうにプレッシャーまで与えた者までいた。
この重臣は、俺がいつその切り札を切ってくるか不安で堪らないのであろう。
「いえ別に。ああ、ここのところ不足している人手を補うために、結構人を雇いましてね。いやあ、ブロワ辺境伯家のように人材が充実していると羨ましいですね」
あえて言わないが、その後ろは『後方かく乱で、若い連中を二十名以上も使い捨てにできるのですから』という文言が入る。
それに気がついた初老の重臣は、さらに顔を真っ青にさせた。
別にこちらには、無理に早く交渉を纏める必要などないのだ。
急いで纏めようとして、ブロワ辺境伯家の思惑に乗る方が損なのだから。
「そういえば、喉が渇いたな。エリーゼ、お願い 」
「はい」
俺の指示で、エリーゼがお茶を淹れてこちら側の人たちに配り始める。
お茶請けは、やはりチョコレート菓子の新作だ。
こういう席では、相手に余裕を見せるためにあえて優雅にお茶を飲んだり、お菓子や軽食をつまむことがある。
だが、お茶やお菓子は味方にしか配られない。
もし敵方に飲み食いさせた後に、運悪く急死などをされると毒殺を疑われるからだ。
こういう席では、自分の飲み物や食べ物は自分たちで準備するのが決まりであった。
「これは美味ですな」
「今度、ブライヒブルクの店舗にも卸すそうですよ。うちの御用商人が」
「それは羨ましいですな。是非、我がクリーガー子爵領内でも販売してほしいものです」
「では、時期を見てその商人を伺わせましょう」
「それはありがたい」
「バウマイスター伯爵殿、我がクメッチュ男爵領もよろしく」
わざとのん気にお菓子の商談などを行い、ブロワ辺境伯家側の焦りと怒りを誘っていると、ついに我慢できなくなったらしい。
お互いに最初の条件を持ち帰り、明日にまた新しい裁定案を出すという結論となって解散になった。
「明日は、もう少し折り合えますかね?」
「さあ? わかりませんね。向こうとしては、最低でも引き分け判定に持ち込みたいでしょうから」
「その条件が、最初から無理なんですけど……」
「そこでそれを認めてしまうと、彼らは揃って失脚です」
自分たちが支持する長男に跡を継がせるため、当主不予を利用して兵を勝手に出したのに、逆にボロ負けして莫大な金を払う羽目になった。
そうでなくても開発利権から外されているのに、さらに経済的なダメージまで被るのだ。
次男支持の文官たちからすれば、彼らを追い落とす決定的なチャンスとも言える。
なにしろ、ライバルが勝手に自爆してくれたのだから。
最悪、御家取り潰しに全財産没収もありえる厳罰を覚悟しないといけない点が、次男からしても悪夢かもしれないが。
「結局、多少時間はかかりますけど。こちらの裁定案を受け入れざるを得ないのですがね」
こちらに、譲歩する理由などないからだ。
一日目の交渉は、ただの顔見せであった。
だが、二日目になると様子が一変する。
「交渉の公平性を保つために、王都からマーラー外務委員にお越しいただきました」
突然、ブロワ辺境伯家側が王都からやって来たという法衣貴族を連れて来たのだ。
五十代前半くらいに見えるデップリと腹が出た、いかにも汚職とかに身を染めていそうな貴族に見える。
そもそも公平性を保つと言っているくせに、こちらへの通告もなくいきなり連れて来るのが怪しい。
その勘は正しかったようで、マーラー外務委員とやらは交渉が始まると一方的にブロワ辺境伯家の肩を持ち始めたのだ。
「これ以上の東部と南部の騒乱を王宮は望みません。ここで片意地を張っても仕方がないでしょう。戦前の状態に戻し、捕まっている貴族たちの身代金は相場どおりということで。それが王国のためなのですよ」
昨日ブロワ辺境伯家が出した条件を、まるでオウムのようにマーラー外務委員が言い始めたのだ。
しかも丁寧に、これ以上の争いの継続は王宮が望まないという大義名分までつけ加えてである。
当然、お話にもならない。
ブライヒレーダー辺境伯は昨日と同じく理論的にブロワ辺境伯家側の非を指摘し、昨日とまるで同じ条件を言ってから席を立った。
「あのマーラー外務委員って何者なんです?」
「外務卿をしている、シュティーリケ侯爵の子分です」
そういえば王都滞在時に、その名前と顔くらいは見たことがあった。
ただ、ヘルムート王国において外務卿の影響力は小さい。
その理由は、唯一の交渉相手であるアーカート神聖帝国の相手だけをしているからだ。
他に沢山の国でもあれば、外務卿も花形の閣僚であったはず。
だが現実には、一国のみの相手なので役所の規模も予算も小さい。
戦争が二百年以上もないので、定期的に送っている親善団の編成とガイドをするか、向こうの首都に置いている大使館で情報を収集するくらい。
さらに、親善団の編成とガイドは交易をしている商務省と工務省の管轄に被っているし、情報収集も大使館には王国軍も駐在武官を派遣しているので、これも半分仕事を奪われている。
なら、『こういう貴族同士の裁定などは?』と聞かれると、これも同国の貴族同士の争いなので内務卿の管轄に入っていて、『全閣僚の中で一番影が薄い』、『体の臓器に例えると盲腸』などと言われてしまうほどであった。
「外務委員とは言っても、特に仕事などありません。貴族にポストを分け与えるために存在していますので」
実質名誉職にあるので、誰も彼の動向など気にもしない。
もし裁定で大きな影響力を振るえるのなら、事前にルックナー財務卿などから注意があるはずだ。
「ブライヒレーダー辺境伯は、彼をご存知なのですか?」
「はい」
法衣子爵で、能力的には凡庸。
ただ、ブロワ辺境伯の妹を妻にしており、その縁で外務委員に就任できた人物だそうだ。
「思いっきり、ブロワ辺境伯家側の人間ですね」
「まあ、なんの役にも立ちませんけど」
マーラー外務委員は、別に王宮からの命令でこの交渉に参加したわけではないからだ。
しかも、交渉の席でこちらを脅かすように王宮の名前を出している。
潰すのは容易であった。
「というわけですが、シュティーリケ外務卿はブロワ辺境伯家側の肩を持ったという認識でよろしいのでしょうか?」
『それは大きな誤解です。常時王都に詰める義務がある外務委員が勝手に紛争の裁定に乗り込んだ挙句、王国の名前を出して一方の肩を持つなど、絶対にあってはならないことなのですから』
魔導携帯通信機はすべての閣僚が持っており、俺はいつでもシュティーリケ外務卿と通話が可能だ。
そういえば彼とは初めて話をしたのだが、こちらの訴えを受け入れる度量はあるようであった。
あと、マーラー子爵の行動は独断であると断言している。
『私的に顔を出しているのに、公的な役職を名乗るなど。それ以前に、役職持ちなら誤解を招くので顔など出すべきではない。彼は委員に相応しくない』
「その判断は外務卿閣下の裁量の内ですので、私としては口を挟むつもりはございません。ただ、マーラー子爵の行動は常識を外れているとだけ」
『十分に解任の理由になります。奴の御託など無視されても結構です』
私的な理由で公職を名乗り、王国の名前も出し、他の役所の職務に手まで出している。
しかも、貴族家同士の紛争で血縁がある片側に一方的に肩入れしているのだ。
それがどんなに危険なのかを考えたら、彼の解任は当然とも言えた。
可哀想に、もう彼は外務委員ではなくなる。
どうやらシュティーリケ外務卿にとっては、マーラー子爵は特に惜しい人材でもなかったようだ。
その解任を本人が知るのは、もう少し先かもしれないが。
「というわけで、シュティーリケ外務卿にはお世話になったから。チョコやフルーツなどを、適当に見繕って贈っておくようにとアルテリオさんに伝えくれ」
『承知しました』
シュティーリケ外務卿との話を終えると、すぐにローデリヒと通信をして彼にお礼を贈るようにと頼んだ。
賄賂ではないが、お世話にはなったのでこういうお礼も必要というわけだ。
もう一度言うが、決して賄賂ではない。
「素晴らしきは、人脈ですかね」
「ただ、あの子爵が失業しても、それが裁定の進展に繋がる補償もありませんよ」
ブロワ辺境伯家側からすると切り札であったマーラー子爵であったようだが、三日もすると姿が見えなくなった。
どうやら、外務委員の職をクビになって裁定に顔を出すどころではないようだ。
なぜそれがわかったのかと言えば、王宮から裁定の仲裁に入る特使を送ると連絡が入ったからだ。
特使は、ベッカー内務卿の下で貴族籍の管理をしているクナップシュタイン子爵だと聞いた。
年齢は三十歳ほど、短めの頭髪を真ん中でピッチリと分けている、真面目なお役人といった風貌の人であった。
どういうわけか、役職を世襲する貴族というのは代々似たような雰囲気や容姿を纏う人が多い。
代々軍家系であるアームストロング伯爵家の人たちなどは、その典型例であろう。
「特使のマテュー・オスカー・フォン・クナップシュタインです。念のため先に申しておきますが、私は片方に肩入れなどしません。あくまでも中立の立場で動きますので」
最初に一言だけ挨拶をすると、あとは静かに聞き役に徹してしまう。
彼はここに来る前に、今回の紛争の経緯やら今の状況を調べて来ているそうだ。
そして、その情報と過去の裁定案を参考に、自分なりの裁定案は持っている。
だがそれを口にするのは、双方の交渉がなかなか纏まらなかった時だけ。
できれば当事者同士で解決してくれた方が、王宮側から裁定案を押しつけた格好にならず、丸く収まるからだそうだ。
「では、昨日の続きから……」
そう口にする、ブライヒレーダー辺境伯の表情は冴えない。
なぜならこの四日間、互いの条件に差があり過ぎて折り合いの糸口すら掴めないでいたからだ。
「身代金は別途交渉。紛争案件を戦前の状態に戻す和解金は、百万セントだ」
「何度同じことを言わせるのですか? その和解金では、今回の紛争の食料代にもなっていませんよ」
「百一万セントだ」
「ふざけているのですか? 私としては、和解金なしでこちらが抑えている利権をすべて認めるという条件でも構わないのですが」
「ふざけるな!」
やはりとしか言いようがなかった。
双方の主張は、平行線を辿るばかりだ。
ブロワ辺境伯家はこれだけの失態を犯したにも関わらず、自らのプライドは保ち、なるべく経済的な損失を負いたくないなどと、非常に虫のいい考えを持っている。
一方のブライヒレーダー辺境伯は、そこまで強欲でもないようだ。
彼からすれば、一方的な快勝とはいえあまり過分な金額を要求すると、向こうが意固地になると思っているようだ。
味方の貴族たちの手前あまり手心は加えられないが、早く解決して未開地開発の協力に回った方が利益になると判断しているのであろう。
「和解金は五億セントです。これ以上は引けません」
今回の紛争で余計な負担をした貴族たちに、利権の分け前を戦前にまで戻すことを納得させる。
そのためにはある程度の現金を渡す必要があり、それをブライヒレーダー辺境伯家がそれを負担する義理もない。
金が払えないなら、今の状況を容認せよ。
立場のあるブライヒレーダー辺境伯としては、これでもギリギリの譲歩なのだ。
「そんな大金は払えん!」
ブロワ辺境伯家側で交渉を一手に引き受けている重臣は、声を荒げてその提案を否定した。
いくら地方の雄でも、その和解金を一括で払えるかは微妙なところなのであろう。
今回は戦費も相応にかかっているし、間違いなく捕虜になった貴族たちの身代金も負担しなければならないのであろう。
さらに、この和解金を支払っても未開地開発の利権には加われない。
経済的にはさらに困窮するので、一セントも支払いたくないのが誰にでもわかるほどであった。
「バウマイスター伯爵はどう思います?」
「はあ……。お互いの主張に違いがあり過ぎるので、このままだと何日経っても解決しなさそうですね。まあ、その分身代金の額も上がりますけど」
身代金は、捕虜の管理費も上乗せするのが普通だ。
そのため、紛争が長引けば長引くほど負担が増えるのは当然ともいえた。
「私は若輩者なので、和解金の相場などがよくわからないのです。そこで、中立に立つ特使殿に指標となる案を出していただくのはいかがでしょうか?」
「私がですか?」
「はい。念のために計算はされていると思いますが」
「そうですね。念のために計算はしてあります」
真面目な官僚タイプであるクナップシュタイン子爵は、当然だが自分なりの裁定案を作っていた。
それが仕事だからだ。
「ただ、こういう王宮側の裁定案はあまり採用されたことはありませんよ」
「構いません。採用されなくても、指標にはなるでしょうから」
「そうですね。私も参考にはしますよ」
「……念のために聞いておこう」
ブライヒレーダー辺境伯も、ブロワ辺境伯家の重臣も、俺の提案を受け入れた。
というか、間違いなくブライヒレーダー辺境伯はその提案を受け入れる。
なぜから、王宮はほぼエコヒイキせずに今の状況を客観的に見て裁定案を作るからだ。
こちらが不利になることなどあり得ず、多少の和解金の減額があってもそれを受け入れる方が利がある。
ブライヒレーダー辺境伯としては、多少の和解金の減額など開発利権ですぐに補えると思っているし、王宮側の裁定案に素直に従ったことで王国に貸しも作れる。
紛争当事者の貴族たちに不満が出ても、それは少し利権を増やしてやれば解決可能だと思っているはずだ。
さらに、もしブロワ辺境伯家側がその裁定案を受け入れない場合、彼らは王宮からも嫌われて孤立の度合いを深めることになる。
どちらに転んでも、ブライヒレーダー辺境伯に損などないのだ。
「わかりました。試算した裁定案を発表します」
とはいえ、ブライヒレーダー辺境伯が最初に出したものとそう差はない。
唯一、和解金の額が四億セントに減額されただけだ。
「和解金の額が高すぎる!」
「そうでしょうか?」
ブロワ辺境伯家からの抗議に、クナップシュタイン子爵は表情一つ変えないで首を傾げていた。
「あの和解金の根拠は?」
「根拠ですか?」
クナップシュタイン子爵は、冷静な表情のまま和解金の内訳を話し始める。
「今回の紛争は、条文のない慣習法とはいえ、ブロワ辺境伯家側の貴族たちによる奇襲から始まったと聞いています。事前通告は法には記載されていませんが、長年の慣習となっております。よって、ブロワ辺境伯家側は慣習破りの責を負うべきです。あとは……」
クナップシュタイン子爵は、俺の方にわざとらしく視線を送った。
慣習破りの奇襲に、俺を出兵させないための後方かく乱工作と。
当然王宮にはすべてバレており、それも裁定案がブロワ辺境伯家側が不利になる理由となっていたようだ。
「捕虜に対する身代金については、王宮は関与しません。そちらで決まりに従って交渉してください。紛争案件を戦前の状態に戻すための和解金ですが、ここまで負けているのですから、諦めて支払わないとすべてを失うと思うのですが……」
睨み合いだけなら双方兵を退けで済むが、もう実際に戦ってブロワ辺境伯家家側はすべてを失っている状態だ。
王宮側としては、和解金を支払えとしか言えないとクナップシュタイン子爵は説明した。
「とにかく、高すぎます!」
「いきなり攻められ、一度利権を失いかけた当事者たちが聞くと怒ると思いますよ」
そもそも、戦前の状態に戻すというだけで不満が出てくる可能性があるのだ。
それなりの和解金を支払わないと、納得するはずがなかった。
「それと、私としては一つ疑問があるのですが」
クナップシュタイン子爵は、ブロワ辺境伯家側に聞きたいことがあるそうだ。
「なんでしょうか?」
「もし裁定案が纏まったとして、誰がサインをするのですか?」
「それは当然、カルラ様である!」
まったく声質を変えないクナップシュタイン子爵の質問に、ブロワ辺境伯家の重臣は、『なにを当たり前のことを……』という口調で答えた。
「カルラ殿のサインでは、その裁定案は履行されない可能性がありますよね?」
「しかし、カルラ様はブロワ辺境伯様の代理で……」
「そこがおかしいのです。今回の紛争ですが、片方の責任者であるブロワ辺境伯殿は一体なにをしておられるのです?」
どうやらクナップシュタイン子爵も、俺たちと同じような疑問を感じていたようだ。
「ブロワ辺境伯殿ご自身がサインをしないと、いくら合意に至っても裁定案など無意味です」
「いや……しかしその……」
「もしブロワ辺境伯殿が自らサインできないほどの重病なら、跡取りが代理としてサインをすればよろしい」
カルラの総大将代理は飾りとしてはギリギリ有効だが、裁定案を記した書類にサインをしても、それは公的には有効にならない。
クナップシュタイン子爵は、まるで役所の職員のように貴族法の解説を始めた。
「ご長男のフィリップ殿か、ご次男のクリストフ殿か。こちらにお来しいただいて、交渉に参加されるべきだと思いますが」
「それは、その……」
まさか、ブロワ辺境迫が明日をも知れぬ重病で、死んだ時に傍にいないと残っている方に出し抜かれるとも言えず、口をモゴモゴさせながらうろたえた姿を曝した。
「では、ブロワ辺境伯殿を」
「それも……」
「なら、この交渉はお話にもなりません。条件を詰めて調印を迎えても、それが効力を発揮しないのですから」
クナップシュタイン子爵は呆れた表情を浮かべながら、今度はブライヒレーダー辺境伯へと標的を変える。
「早く裁定案を纏めたいのはわかりますが、調印されても効力が発揮されないかもしれないものに意味があるのですか?」
「私としましては、ブロワ辺境伯は屋敷から外に出られず、今回の出兵もこの裁定も彼が後方から指示し、全権をカルラ殿や家臣の方々に委ねたと認識しています。裁定案が出れば、どなたか調印に姿を見せるはずだと。この会議は、予備会議扱いだという認識ですね」
「はあ……。やはりそういうお考えですか」
こちらが集めた情報によると、ブロワ辺境伯の容態はかなり悪い可能性が高い。
擬態の可能性も考慮したが、ならばここまで戦況が悪化する前に前線に出てこなければおかしいわけで。
長男のフィリップが後継者として優位に立つために支持が多い諸侯軍幹部たちに兵を集めさせ、今回の紛争を起こさせたという予想で大筋の一致を見ていた。
多分、父親であるブロワ辺境伯が不予なのを利用して、かなり強引に兵を出しているはずだ。
成功すれば優位に立てるが、失敗すれば次男のクリストフと文官たちの突き上げが激しくなる。
だから、裁定案で無理な条件を出してこちらを辟易させているのであろうと。
「条件のすり合わせはこのまま行ってもらっても結構ですが、そろそろブロワ辺境伯家側は、誰が協定書にサインを行うのかを表明する必要があると思います」
クナップシュタイン子爵の勧告にブロワ辺境伯家側の人たちは意気消沈してしまい、その日もろくに条件をすり合わせられないまま、その日の協議が終了するのであった。
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