第7話 glare〈グレア〉
高校二年生に上がった、始業式の日。
新しい教室は四階にあって眺めのいい反面、これから毎朝長い階段を登らなければならないことを考えると少しげんなりする。
クラスメイトの顔ぶれは変わらない。
「すーちゃん徹夜?」
「四時間寝た。大健闘」
「菫にしては、ね…」
各教科の春休みの課題は膨大で、計画性のない私はいつも登校日直前になって慌てだす。小学生の頃から変わらない。
「宿題集めんぞ、後ろから回せー」
教室に入ってくるなりそう言った担任の先生も去年と同じ。新鮮味はまるでなくて、それでもやっぱり馴染みのある仲のいいクラスメイトばかりの教室は、見回すだけでちょっと嬉しかった。
「え、バレー部早速部活?」
「そっすよ、うちのバレーはガチなんでね」
「ちぇー、先帰んね。バイバイ」
階段を降りていくと、何やら昇降口が騒がしかった。
「…喧嘩?」
男子生徒二人が胸ぐらを掴み合って大声で言い合いをしていて、その近くでへたり込んで泣き始める男子やら、「先生呼んできて!」と叫ぶ女子。
巻き込まれたら面倒臭そうなので、さっさと靴を履き替えると怒号の飛び交う玄関を後にする。
「ちょっと二人とも落ち着いて!」
「先生こっち、早く」
「おい!逃げんな!」
私はビクッと足を止めた。膝が震える。
分かっている、私に向けられた言葉じゃない。
…まずい。今の人、多分Domだ。
感情が昂って、グレア――Subを従わせる力を、撒き散らしているのだ。
ドッドッドッと心臓が早鐘を打つ。先月の終業式の日に、相馬くんに命令された時のことが頭によぎった。
喧嘩なんて日常茶飯事だし、聞き慣れているはず。なのになぜか怖くて仕方がなくて、逃げたいのに足がすくんで泣きそうになった。
こんな――Domの怒鳴り声だけで、支配を受けてしまうのか。私がSubだから。
「歩いて」
耳元で、そう声がした。
相馬くんの声だった。
彼から命令されるだけで足は自然と動いて、私は相馬くんに連れられてその場を離れた。
「大丈夫?」
「うん。ありがとう」
話すのは、春休みを挟んで約一ヶ月ぶりだった。
部活に行く途中なのだろう。リュックを肩にかけ、片手にスポーツドリンクを二本ぶら下げていた。
「やっぱしんどいね、今みたいなのがあると」
「Dom用の抑制剤はやめてるんだけど…ね」
「送ってく。ちょっと待ってて」
「え」
呼び止めようとしたが、相馬くんは駆け足で部室棟の方へ駆けていく。一分もしないうちに彼は手ぶらで戻ってきた。荷物を部屋に置いてきたらしい。
「部活遅れちゃうよ」
「余裕、一時からだからまだ四十分ある」
一緒に校門を出て帰り道を歩き始めても、まだ動悸は治らないし、うまく息ができない。情けなかった。
不審なほどに足元がおぼつかない。あの喧嘩に出くわす直前までは、普通にしていたはずなのに。
何もない歩道でつまずきそうになる度に相馬くんが支えてくれて、当初は断ろうと思った彼の親切な申し出に感謝せざるを得なかった。
「ありがとう。本当に助かった」
玄関まで送ってもらい、礼を述べて別れた。
靴を脱いだ直後のことだった。視界がぐらりと揺れた次の瞬間、私は床の上にがっくり膝をつき、壁に寄りかかるようにして倒れた。
えっと…四時間の睡眠って、こんなに堪えるものだっけ。
後ろでやや乱暴にドアが開いて、「二見さん」と相馬くんの声。
「へい、き」
「…家の人は」
私は首を横に振る。
まだお昼だし、両親は仕事だ。
「二見さん。“Stand up”、立ち上がって」
「……」
「コマンド教えるから。ほら、できるよね」
コマンド?と聞き返すこともできず、私はよろよろと立ち上がった。
「そう。で、こっち向いて。Kneel〈おすわり〉」
膝を折り、床に座る。
「いい子だね、二見さん」
相馬くんは私の前にしゃがんで頭を撫で、私はその手に頭をぐりぐり押しつけた。
何も考えていなかった。ただ夢中で本能に従っていた。
数分の間相馬くんの手に触れられているうち、動悸は嘘のように消えていた。
意識もはっきりしてきて、本能よりも理性が勝ってくると自分の行為がただただ恥ずかしかった。
「ご、ごめん私、またこんな…」
改まって座り直すと、相馬くんは首を横に振る。
「ううん、むしろ僕が早く気づいてあげられなくてごめん。多分、軽いサブドロップになりかけてたんだ」
「サブ…ドロップ?」
「信頼関係の成り立っていないDomによる威圧や支配行為で、Subはパニックを起こすことがある。…って習ったはずだけど…」
「あーそうだ、度忘れ」
えへ、と誤魔化して笑う。
すっかり忘れていたけれど、私がダイナミクスについての知識が乏しいことやその経緯は、文佳にしか話していない。
自分が実はSubだったというもう一つの大きな秘密を相馬くんと共有しているせいで、うっかり自滅するところだった…危ない…。
幸い何も怪しむ様子はなく、相馬くんは私の肩に手を置いて、顔を覗き込むようにして尋ねた。
「本当に、病院に行く気はない?…さっきみたいに、怖い目に合うかもしれない。僕だっていつも居合わせるわけじゃない」
「うん。…でも」
顔馴染みばかりの教室。
自分が彼らとは真逆のダイナミクスであることを考慮に入れてもやはり、私はあそこにいたい。単なるわがままだけど。
「分かった」
相馬くんは立ち上がり、まっすぐ私を見下ろす。
「僕を、二見さんの
「あるじ…」
「主従関係のパートナー。簡単なこと、抑制剤がないなら真っ当にその従属欲を満たす。…考えておいて」
相馬くんはもう一度私の頭を撫でた。
「鍵閉めてね、あとしっかり眠ること。じゃあ」
相馬くんはドアを開けると、玄関の外へ出ていった。
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