第8話 コマンド
「文佳、コマンドって何?」
週末に、文佳が私の家へ遊びに来た。
何の前置きもない私からの質問に文佳は一瞬だけ不意を突かれたようにキョトンとしたが、聞き返すこともなく教えてくれた。
「あぁ、コマンドね。DomがSubに対して使う短い命令のことだよ。グレアを伴うから強制力があるの」
詳しく聞いてみれば、“Kneel〈おすわり〉”は代表的なコマンドの一つらしい。先月初めてSubを自覚したあの日、相馬くんにこれを命じられた時はそうとも知らなかったけれど。
他にも色々あるみたいだ。
Stay〈待て〉とか、Come〈来い〉だとか…英単語ばかりなのはダイナミクスの発見がイギリスだったのと、日常で使う言葉と明確に区別する意味があるという。まるで…
「…犬の躾?」
「菫ほんと、そういうこと絶対公共の場で言わないでよ?まじで…」
目を細め、ギロリと睨まれる。
「ご、ごめん」
「まぁ正しいけどね。そのままの意味で躾。最初はコマンドの意味を理解してから行動に移すけど、だんだんと反射で従うことができるようになる。信頼しているDomからコマンドを受けたSubは、その従属欲求が満たされる。私たちDomも同じ。素直に従うSubを見て、支配欲求を満たすの」
「へぇ…」
「あ、でも主従関係のパートナーでもない人にコマンドを出すのはご法度。グレアも当然だけどね」
「文佳にはSubのパートナーっているの?」
何となく尋ねたその言葉に、文佳は警戒心を見せる。
「い…いないよ。大体にして、私が好きになるのも付き合うのも、ノーマルばっかだもん…」
……………ん?
ちょっと待って。
重要なことに気づいてしまった。
「…パートナーと恋人は…同義?」
「十中八九そうだね。まず恋人関係になって、それから主従関係も結ぶのが一般的じゃないかな。恋人とは別にパートナーがいるなんてことも…まぁゼロではないかもしれないけど…」
DomはSubと結ばれないと幸せになれないなんて古臭い考えだよ、と文佳は言った。ここ数十年の目覚ましい医療の発達と、抑制剤の研究・改良の賜物だ。
統計によると、現在の二十歳を超えたDomやSubは、その半数以上がパートナー不在らしい。
そんな文佳の言葉を聞きながら、相馬くんのパートナーなんて、私が気軽になっていいものなのだろうかとふと考えた。
翌日の放課後。常時友達に囲まれている相馬くんが一人になったタイミングを見計らって聞いてみた。
「相馬くんって彼女とかいないの?」
「唐突だね。いないよ」
相馬くんは苦笑いをして、あっさり首を横に振った。
それなら頼ってもいい…のだろうか。
主従関係のパートナーは、ただの友達とは全く異なる関係だ。恋人とは違うけれど、同じくらいに重い意味を持つ。
もし相馬くんに恋人がいれば、ほぼ100%私はその関係を拗らせることになる。
「みやちんは〜?」
唐突に後ろから中村くんの声がして、私は肩をびくりと跳ねさせた。
「実は付き合ってたりしねーの?」
「ないって」
みやこちゃんはパーソナルスペースがとっても狭い。男女問わずスキンシップが激しいけれど、中でも相馬くんは格別だ。後ろから抱きついたり、腕を絡めたりは日常茶飯事。
相馬くんにその気がなくても、みやこちゃんは相馬くんが好きなのではないかと思う。
その時、教室の外から「中村ぁ!」と呼ぶ誰かの声がして、彼は早々にその場を立ち去った。
私たちは場所を移動することにした。校舎の一番端の使われていない教室で二人きりになると、相馬くんは言った。
「…昨日の話、だよね」
「うん。相馬くんが付き合ってる人もいなくて、他にパートナーのSubもいない…なら」
私は頭を下げた。
「…お願いします」
「あはは、そんなかしこまらないでよ。主従関係はお互いに有益なんだから。…じゃあ、まずはセーフワードを決めよう」
セーフワード…?
「特にこだわりがないなら…“ギブアップ”、でどう?」
「う…うん」
「…二見さん?」
相馬くんはぐいっと私の方に身を乗り出して顔を覗き込む。
「…もし僕に言うことがあるのなら、今のうちに言ってくれる?大事なのは信頼関係、だから」
うぐ、と喉を詰まらせる。
…ダイナミクスについての知識の浅さを、もしや勘づかれているのだろうか。でも無理もない。
「やっぱり乗り気じゃない…?」
「違くて!」
私は食い気味に言葉を返す。
「セーフワード、って何なのか分からなくて…その…私、ダイナミクスのこと、全然知らないから」
「え…?」
それから私は、あの保健室で目覚める以前のダイナミクスのない世界のことを話した。
「信じられないだろうけど…でも本当に何も知らなくて、ごめんなさい」
相馬くんは「なんだ」と安堵したように少し微笑んだ。
「信じるよ。…セーフワードっていうのはね、支配される側のSubが身を守るための言葉。基本的にプレイ中はDomがコマンドを出して、Subは言われるまま従う。けど嫌なことをされた時、やめて欲しい時、Subはセーフワードを言って身を守るんだ」
相馬くんは驚くほどにいともあっさりと私の言葉を受け入れ、丁寧に説明を加えてくれた。
「…ありがとう」
相馬くんは首を横に振って、それから言った。
「じゃあ、始めようか」
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