第3話 Kneel:おすわり
ダイナミクスの存在するこの世界は、私の知る世界とは違う景色だった。
例えば学校からの帰り道で、カフェの前を通る。
入ったことも何度かあるよく知った店のはずだが、私はガラス張りのその店内を二度見してしまった。
椅子ではなく、なぜか床に座っている客がいたのだ。
一瞬は具合でも悪いのかと考えたが、奥の方も見てみると床にいる客は一人ではない。だからといって完全な座敷ではなく、椅子に座った客もいる。
それはあまりにも異様な光景に見えた。
「……」
「こら、菫っ」
立ち止まったまま動こうとしないので、文佳は私の腕を掴んでぐいぐいと引っ張った。
「なにガン見してるの」
「…床に座ってる」
「あぁ、あれはSubの人がくつろげる体勢なの。DomやSubに配慮してる店なんだよ、あそこは」
すると少し前を歩いていたノアが振り返った。
「何してるの二人とも」
「な、なんでもない」
私はへらっと笑うとノアを追いかける。
「あ、俺コンビニ寄りたい。ファニチキ100円」
「どうぞどうぞ」
ノアが店内に入ったところで、文佳がジト目で睨む。
「そんな調子じゃ、いくら鈍感なノアでもバレるって。とにかく菫、あんまり物珍しそうにキョロキョロしないで」
「わ、分かった。ごめん」
コンビニからさっさと出てきたノアは「お金持ってなかった〜」らしい。阿呆め。
家に帰ってすぐ、私はダイナミクスについて調べてみることにした。
ダイナミクス――かつては第二次性とも呼ばれ、性別のカテゴリーとして扱われていたとか。
支配欲求のあるDom、従属欲求のあるSub、どちらの性質も微弱であるノーマル。
まだ人類が二足歩行を始める前、仲間内での無駄な争いを防ぐために先天的に備わった力量関係。その名残がダイナミクスである、という仮説が主流らしい。
ダイナミクスは十歳前後から徴候が発現し始める。日本では法律により、中学一年生でダイナミクスの一斉検査が義務付けられている。
支配・従属欲求は生理的欲求であり、その満たされないDomやSubは、自律神経に不調をきたす。疲労、不眠、頭痛や食欲不振、免疫力の低下など。
解決策として一つ目にあげられるのはDomとSub双方の信頼の上にパートナーとなり、適切なプレイを行い欲求を満たすこと。
二つ目は抑制剤の服用。保険適用の為、指定病院において無料で処方される。
そして街中で見かけるSubの、正座から両足を外側にして、お尻を床につけた体勢。
“
また、Domの強いグレアを浴びたSubは、本能的に反射でその体勢を取ったりするらしい。
大体は理解ができたけれど、度々出てくるグレアが一番ピンとこない。どのようなものかすらも想像はつかないし、詳しく調べたところで内容はいまいち頭に入って来なかった。
ただ分かったのは、それはSubを従わせる力を持つこと。Subを安心させることができる一方、時に凶器となり得ること。
その時、玄関のドアの鍵が開く音がしてお母さんが帰ってきた。
「ただいま。菫、あんた倒れたって聞いたけど平気なの?」
「うん、徹夜で冬休みの宿題やってたから眠気が一気に来たみたいで」
因みに徹夜は事実である。そのせいでぼーっとしながら歩いていたから、スリップしてくるトラックの異変に直前まで気づかなかったのだ。
…まぁ無かったことになってるらしいけど。
「でもそれ、毎年の長期休み明けのことでしょ?全く、ちょっとは反省してコツコツ勉強するとか…」
「わーかってるって。次はそうする」
「夏休み明けもそんなこと言ってたわよ。ってか菫、きちんと抑制剤飲んでるの?」
「え?…あー、うん」
抑制剤ってあれだよな。
文佳が実物を見せてくれた、Domの欲求を抑えるための。
「お父さんもお母さんもノーマルだから、Domの勝手は分からないけど…でもきちんと毎朝飲まないと、体調崩すみたいだし」
倒れたのそのせいかもよ、とお母さんは食卓の隅の透明なプラスチックケースを手に取った。
中には薄青色の錠剤が数粒入っていて、それがどうやら私に処方されている抑制剤というものらしい。
「あら、もう少ないじゃない。今週のうちに病院行きなさいよ」
「はーい」
お母さんは勘が鋭い人だけど、別段怪しむような様子は見られなかったことに安堵した。
きっとこのままやり過ごせる、この時はまだそう思っていた。
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