第2話 ダイナミクス

「すーみれっ」


学年集会が終わったらしい。約束通りに文佳が迎えに来た。私の荷物も持ってきてくれたみたいだ。


「ノアはちょっと用事だって。すぐ終わるからちょっと待ってって」


「分かった」


私はカーテンをまとめたり布団を整えたりしながら、文佳のブレザーの襟をちらりと見た。やっぱり、バッジが付いている。私と同じ青色だ。


「ねぇ文佳。それ…」


「ん?これがどうかした?」


私の視線の先に気づき、文佳は自分の青いバッジに触れた。


「その、見覚えがなくて」


「つまり…何が言いたいの?」


怪訝な表情をしている文佳。

遠回しなことをしている場合じゃない。私は心の準備を整えるように息を吸い、それから吐くと、意を決して尋ねた。


「ドム、って何?」


文佳はぽかんとしている。

やはりまずいことを聞いたのだろうか。

一拍遅れて文佳は聞き返した。


「…DomドムSubサブのDomのこと?なになになに、急に哲学?」


「サ、サブ?」


「…もしかして、言葉の意味が分からない…なんて言わないよね」


「…………」


「…………え?」


私は押し黙ったまま文佳を見つめる。

その無言の返答を肯定と受け取った文佳は、僅かに目を見開いた。




ダイナミクス。

そう呼ばれる力量関係があるらしい。


大雑把に言えば、性格による分類のようなものだと文佳が教えてくれた。支配したい、されたい、またはどちらでもない。全人類がこの三種類に大別され、それは自分の意思とは無関係な生まれつきのもの。


Domは全人口の10%、『支配的な』を意味するdominantが語源。その名の通りSubに対する支配欲求があり、glareグレアという不思議な力でSubを従わせることができる。


Subも全人口の10%。こちらは『従順な』を意味するsubmissiveが語源で、Domに対する従属欲求がある。グレアに対する感受性があり、Domの命令に従うことができる。


それでもって残りの八割は普通の人、ノーマルである。


聞けば聞くほど文香の口からは知らない言葉ばかりがぽんぽんと飛び出し、混乱は深まるばかりだ。

ダイナミクス、DomにSub、glare。


「しっ…支配できるって何?魔法?呪い?」


「そんなんじゃないって、グレアはまぁ…匂いのしないフェロモンみたいなもの。眼力って説が昔は主流で、それが語源なんだけどね。使いようによってはSubに対して凶器になり得るし、怖いっていうのは正しいよ」


「……」


「…で、今時珍しいけど、うちの学校はダイナミクスでクラス分けされてるの。一組はDom、私も菫もノアも身につけてる青のバッジが目印ね。二組はSubで赤バッジ、三組以降はノーマルで緑バッジ」


「ちょっと待って、それじゃあクラス替えは…」


「ないよ。DomクラスとSubクラスはね」


さらりとそう言った文佳。私は軽い目眩を覚えた。


今現在、高校一年生。クラス替えがないなんて入学してから一度も聞いたことがないし、そもそも入学時のクラス分けもランダムだったはずなのに。


「ってか記憶ないって相当マズいんじゃない?単なる寝不足とか疲労じゃないでしょ。確実に」


「記憶、あるんだけど…」


それも不明瞭な点など何もなく、連続的な記憶だ。

ただ言えるのは、その記憶の中にダイナミクスなんて概念は一欠片もない。それから…


「…交通事故」


「は?」


「朝、交通事故に遭った。トラックが回りながら滑ってきて、真正面からぶつかって」


しばらくの沈黙。

文佳から疑り深い眼差しを送られるが、これは紛れもない事実なので言い訳のしようがない。


「私、今朝まではダイナミクスのない世界にいた」


パラレルワールド、という言葉がふと脳裏をよぎった。そんな非科学的なもの有り得ないと自分でも思う。

けれどダイナミクスの存在が第一に、今の私にとって有り得ない。もはや何でもアリに思えてくる。


文佳は首を傾げながらも、最後はその話を信じてくれた。


「…まぁ、困ることはないと思うよ。生活が変わるわけじゃない、普通に学校に行って部活して。このご時世、DomもSubもノーマルも同じように暮らせるようになってきたし」


その文佳の言葉に、少しほっとしながら頷いた。


最低限の知識を入れる。そしてこの不思議な世界に一刻も早く慣れる。その二点に留意すれば、今のところは問題もなく乗り切れそうだ。


「あ、忘れてた。これだけは何より重要」


文佳は思いついたようにそう言うと、鞄から透明なプラスチックのピルケースを取り出した。薄い青色の錠剤が数粒入っていて、カシャカシャと音を鳴らす。


「私たちDomは支配欲が満たされないと、心身の不調を起こしたり、グレアが制御できなったりする。そしてこれが私たちDomの支配欲を抑制する薬。一日一回服用」


「それ、私も持ってるの?」


「家にあるはずだよ。これのおかげで、私たちもノーマルとなんら変わらない生活ができる。…ひとまずはこれくらいかなぁ、急にいろいろ教えても分かんないでしょ」


文佳はポケットに薬を戻しながら言った。


「何かあったら、いつでも頼りなさいよ」


「ありがとう文佳。信じてくれて」


私は文佳の手をぎゅっと握った。

仮に自分が誰かから『別の世界線から来た』と打ち明けられても絶対に信じないし、私ならドン引きするに違いない。


「まぁね、菫に限ってこんな下手な嘘をつくとは思えないし」


…なんだかまるで、私が普段から嘘つきだとでも遠回しに言うような口調だ。言い返しても仕方がないので私は黙ってスルーした。


「文佳、今のはここだけの話にしといて」


「当然。あ、ノアには?」


私は首をぶんぶんと横に振る。

ノアは正直者。悪く言えば口が軽い。彼と秘密を共有しようとするのは非常に危険である。

中学の頃、初めて告白されてできた彼氏の存在がノアによってその日のうちに両親に知られたのはかなりのトラウマだ。


私たちが保健室を出ると、ちょうど向こうからノアがやってくるのが見えた。


「すーちゃん、大丈夫?」


「うん。もう平気」


相馬そうまくんも心配してたよ」


「…相馬くん?」


「すーちゃんまさか、相馬くん知らないの?同じクラスの前の方の席で、茶髪で、バスケ部で…」


「ほらあれだよ、小さいピアスしてて、中村くん達と仲良い…」


「あー違う違う!さすがに知ってるよ」


相馬くんの特徴を次々と述べていくノアと文佳を、私は慌てて遮る。


相馬くんはクラスの少し派手目なグループに属していて、いつも友達に囲まれている男子。顔もいいし親切で、男子からも女子からも人気がある。

比較的大人しく生きている私からすればまるで別世界の住人であり、彼と会話らしい会話をした記憶はないけれど。


…それよりいくら顔と名前を覚えるのが苦手な私とはいえ、一月にもなってクラスメイトを認識できないポンコツと思われたのは心外だ。ノアの方がよっぽどポンコツのくせに。


「菫をここまで運んでくれたの相馬くんらしいよ」


「らしい?」


「目立たないようにこっそり体育館出て行ったみたいでさ、直接見たわけじゃないのよ。あんたが倒れたこと、後から聞いたし」


「俺もだよ。周りもほとんど気づいてないと思う、良かったね」


「ふーん…」

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